エラリー・クイーン「アメリカ銃の謎」(創元推理文庫)

 エラリー・クイーン「アメリカ銃の謎」(創元推理文庫)の中村有希による新訳版を読了。実はうかつなことに気がついていなかったのだが、創元推理文庫は2011年の「ローマ帽子の謎」に始まり、1年1冊のペースで中村有希によるエラリー・クイーンの国名シリーズの新訳版出版に取り組んできた。この「アメリカ銃の謎」がその6冊目にあたる。今回「アメリカ銃の謎」の新訳版を手に入れ読んでみたのはたまたま自分と同じモノノフ(ももクロファン)であるらしいミステリ作家、太田忠司さんが解説を担当しているということを知って、それがどんなものかに興味を持ったからなのだが、なんといってもクイーンの作品ということはあり、小説本編にもいろいろ興味を引かれるところはあった。
2万人収容可能な巨大なスタジアムで行われたロデオのショーでの公衆の面前で起こった射殺事件を取り上げたこの作品もそうなのだが、いかにも米国の作家らしく、クイーンという作家のそれまでの英国のミステリ作家などにはない特色は不特定多数の人間が容疑者となりうるような都市の公共空間で行われた犯罪を描き出したことかもしれない。
 処女作である「ローマ帽子の謎」はブロードウエーの大劇場の観客席が舞台だったし、「フランス白粉の謎」は百貨店の店内、「オランダ靴の謎」は患者や医者、看護師らが自由に往来する大病院で行われたものだった。以前にミステリ小説を読み出した頃にはそういうことはあまり考えなかったけれども事件の現場が大邸宅であることが多いヴァン・ダインや地方の小都市や田舎の屋敷での閉ざされた世界での犯罪を描いたアガサ・クリスティーなどと比較するとこの違いは顕著なもので、そこには風俗的なものも含めて20世紀の犯罪を描くという意思が強く反映されていたのではないかと思う。
 もうひとつは作品に「読者への挑戦」をわざわざ付けたこととも関わるが、犯人を推理するためにはフラットな開かれた空間においてそれこそそこに居合わせた不特定多数の誰もが犯人でありえる論理空間から、論理の力により、唯一無二の犯人を絞り込む。これが推理小説というものだという自負があったのではないかと思うのだ。
 もちろん、クイーンの国名シリーズのすべての作品が開かれた空間を舞台としているというわけではない。「エジプト十字架の謎」はクイーン後期以降の作品に数多く登場する舞台立てを連想させる地方の小村が舞台。「エジプト棺の謎」の舞台も美術商の大邸宅だ。ただ、バーナビ−・ロス名義の「Xの悲劇」でも広大なニューヨークそのものが舞台となっているように
都市のフラットな公開空間における犯罪というきわめて20世紀的なものを意図的にクローズアップしたのがクイーンだったということはこの作家を考えていくうえで重要なことだと思う。(以下若干ネタばれあり)










(以下ネタばれあり)
クイーンの国名シリーズは何度も繰り返して読んでいるのだが、この作品はおそらく初めての再読だ。それはたぶん、初読の時の印象があまりよくなかったからだと思われるが、ひとつにはブロードウエーの劇場や老舗百貨店に比べて米国らしいといえばそう言えるのかも知れないが、何万人も収容するような会場で開かれるロデオのショーの興業というのが全然ピンとこなかったせいもあるかもしれない。
初読の数十年前でさえ、充分にそうであるのだから、ネイティブアメリカンに対する差別的描写があるなどの理由で西部劇映画さえ、ほとんど作られなくなって久しい現代の日本の読者かしたらどこの世界だというほどリアルな実感はないだろう。
もっとも、(誰とは言わないが)日本のアイドル好きの推理作家が巨大スタジアムで開催されたライブ会場での殺人を描いたミステリ作品を書いたとして、それが翻訳されて欧米のミステリファンに読まれた時にどの程度のリアリティーをもって受け入れられるかと考えると同じようなものかも知れないが。ましてやそれが初音ミクライブだったらSF小説なんだと誤解されかねないかもしれない(笑)。
 いずれにせよ、そういうこともあって数万人の容疑者をあの図だけ(笑)で一気に除外している推理には思わず呆然としてしまい受け入れられるのが困難だったんだと思う。
もっともこれもそうだし、その後の展開もいかにもクイーンらしいプロットでらしいといえばその通りなのだ。それゆえ、クイーンはその後の描写で複数回京大ミステリ研の叙述ルールではアウトなことをやっているのだが、残念ながらこの作品が書かれた方が先なので仕方がない。それどころか、私がこの作品を初読したのはミステリ研が発足するより前だったので、ミステリ研ルールへの抵触がこの作品のマイナス評価につながったかと一瞬思ったが、そんなことは論理的にあり得ないことがすぐ分かった(笑)。

アメリカ銃の謎 (創元推理文庫 104-10)

アメリカ銃の謎 (創元推理文庫 104-10)

コリン・デクスターが死去

英国の人気警察小説「主任警部モース」シリーズの作家コリン・デクスターさんが21日、オックスフォードの自宅で死去した。出版元が発表した。86歳だった。

最後のモース警部の本を読んでから16年もたっていた。テレビシリーズは時々見ていたけれど。

2001年2月27日の日記 コリン・デクスター「悔恨の日」を読了

 東京・下北沢、最後の日だが、引っ越しで慌ただしく、感慨にふけっている暇もない。明日は大阪で荷物入れの日である。

 大阪への移動の新幹線の中で、以前買ったままで長い間読みさしになっていたコリン・デクスター「悔恨の日」を読了。帯にも「モース主任警部、最後の事件」と書いてあったし、人気シリーズ完結編の文句も裏表紙にあって、これがデクスターのモースものの最後の作品だというのは分かっていたのだが、こんな結末になっているとは……。日本への翻訳は昨年10月のこととはいえ、作品が発表されたのは1999年と2年前のことだけにそれを今ごろ知ったのは最近のミステリの近況について不勉強ならではのことなのだが、デクスターがシリーズにこういう結末をつけていたことにはちょっとショックを受けてしまった。コリン・デクスターのモース警部シリーズについては作品がポケミスで出ればそのたびに買い込んで読んでいたというだけではなく、一時期は相当に入れ込んでいてこともあって、8年ほど前には事件ゆかりの地巡りを企画して、2日間という短期間ではあるが、ロンドン旅行の途中で足を伸ばして、オックスフォードにも出かけたほどである。その時に現地(ロンドン)で手に入れた「消えた装身具」は翻訳が出版される前に原書で読んでいるほどだ。もっとも、私の語学力では翻訳で読んでさえ、頭が混乱するデクスターを理解するには根気が続かず相当荷が重かったのだけれど(笑い)。

 「だれが犯人か」という謎を扱うそれまでの伝統的なフーダニットの本格ミステリに対して、デクスターのモース物は時には事件の実態さえ分からず、モースの推論の中で状況二転三転していくという特異なプロットを取る。こうしたパターンのミステリはアントニー・バークリーの「毒入りチョコレート事件」など一部の先例はあるものの、20世紀後半になり初めて一般的になったモダン・ディククティブストーリーの典型といえるものだ。それはいわゆる「ホワットダニット」型のミステリと言い換えてもいいのだが、形式は微妙に異なるが、アガサ・クリスティーの後期の作品群から、ロス・マクドナルドのリュー・アーチャーものなどある種のハードボイルド小説やをへて、デクスターのモース物とルース・レンドルのウェクスフォード警部シリーズという私見では20世紀後半の本格ミステリの系譜があり、今そのうちの1つのシリーズが20世紀の最後をもって終焉を向かえたという意味でも同時代を生きていた一読者としてそれなりの感慨は抱かざるをえなかったのである。

悔恨の日 モース主任警部 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

悔恨の日 モース主任警部 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

早川ミステリマガジン2017年3月号 アガサ・クリスティー特集

 京大ミステリ研時代に書いて機関誌「蒼鴉城」に発表したクリスティ論*1を書き直したいと思ったがまだ果たせていない。

*1:「叙述の魔術師 ―私的クリスティー論―」 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000301

フランシス・M・ネヴィンズ「エラリー・クイーン 推理の芸術」

エラリー・クイーン 推理の芸術

エラリー・クイーン 推理の芸術

柴那典「ヒットの崩壊」(講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 CD売り上げをランキングするオリコンチャートなどが本来の意味を失っていく中で音楽消費はどうなっているのかの最新情報を分析した著作。オリコンチャートが実際の楽曲の人気を反映しなくなったことについてAKB商法などに責任を押しつけがちだが、それ以前にCDを中心とする音楽受容自体が音楽のダウンロード販売やストリーミング配信への移行などで変化したことでCDの販売自体が激減していたという実情があったという指摘はその通りだと思う。

「アイドルばかり聴け!: J-POP 女性アイドル 30組200曲解説」

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