青年団プロデュース「月の岬」

青年団プロデュース「月の岬」について感想を書こうと思う。もっとも、今回の舞台は初演の後深読みレビューで書いたことがはたして的をえていたのかというのを考えながら見ていたのだけど、これはやっぱりそうなんじゃないかという確信を強く持った。ただ、芝居を見てちょっとびっくりさせられたのは

この芝居では私が深読みレビューでこの物語の核と考えた深層(佐和子と亡くなった父親の関係)どころか、そこで表層的フェーズと考えていた姉弟の疑似近親相姦的な関係性さえもこの芝居では明示されてはいないということに気が付いたことだ。


 もちろん、このフェーズでの隠された関係性が明示ではなく、暗示的な描写で提示されるということはやはり以前いくつかのレビューをこのページで書いた岩松了の作品(「スターマン」「虹を渡る女」など)にも見られることで、なにも松田の専売特許というわけでもない。「月の岬」の特徴はその隠された関係がさらに物語に基調低音のように流れている神話的な構造と呼応するようなメタ構造を持っていることで、

こうした趣向により「現代における神話」を構築しようとしたところにあるのではないかと思う。


 長崎から少し離れたところにある島を舞台に設定したところにもそういうことがうかがえるし、直子に佐和子が憑依したかに見えるラスト近くのシーンなどにそういう意図を色濃く感じさせられるところがある。平田オリザによる演出はこの芝居の日常性を強調した散文的なものとなっており、神話的な側面を隠ぺいするような形で上演されるので、それはこの芝居ではそれほど目立ったものとしては提示されないのだが、例えば宮城聰など「神話的なるもの」により親和性の高い演出家が演出したらどうなるだろうか。芝居を見ながらそんなことも考えてしまった。


 青年座によって上演された松田正隆の新作「天草記」はこれまでの松田作品とはかなり毛色が違うために「静かな演劇」を創作してきた松田が新境地に挑戦したなどと表層的には捉えられがちだが、「現代における神話」の構築という切り口で考えるのならば「月の岬」と通底している。もっとも、「月の岬」では隠ぺいされていた神話性はここではだれの目にも露わな形で表れている。実はこの2つの物語にはモチーフやそれを扱う筆致があまりにも違うので見過ごされがちだが、閉塞された場所にいる家族共同体が外部からの侵入者により崩壊し、その後、そこには新たな共同体が誕生するという同じ構造を持っている。ところがこの2つの作品が大きく違うのは「共同体」を基準に考えた時に「月の岬」が内部(信夫)に近い視点で描かれ、

直子の視点では描かれていないのに対して、「天草記」の方は現代日本からのエグザイル(逃亡者)として、この土地に現れる3人の侵入者の視点によって描かれていることである。もちろん、基本的には芝居は小説とは違い厳密にいえば視点というものがあるわけではないのだが、全体の構造として、芝居に入りこんでいく際にそちらの視点に近い視線で物ごとを眺めることを誘導されるような仕掛けがあるということをいいたいのである。


 閉ざされた家族共同体の共通点は「月の岬」ではインセストタブー、「天草記」ではカニバリズムあるいは殺人と通常の社会における禁忌にかかわることが行なわれている(あるいは少なくとも行なわれているかもしれないと暗示される)ことにある。すなわち、通常の社会規範から排除されるようなことがそこでは許容されるということにあって、それは当然、外部の目から見たらある種のグロテスクとなる。「月の岬」ではそういうことは感じられないのだが、それはあくまで内部の視点で見ているからである。


 もっとも「天草記」を見て感じるのは同種の構造を持っていても切り口の違いにより、語り口つまり芝居のスタイルの違いは現れてくるわけだが、表層の部分で日常会話劇というスタイルを持つ「月の岬」が表現として陶冶され、松田正隆作品としての完成度の高さを感じるのに対して、「天草記」では「月の岬」「海と日傘」などで一応の完成の域に達したと思われる会話劇ほどの方法論に対する確信が感じられず、手探り状態の苦吟を感じてしまうことである。


 劇作家に限らず作家(表現者)には大きく分けて2種類のタイプがあるのではないかと以前から考えている。ひとつは若くしてひとつのスタイルを確立して同工異曲などと陰口をたたかれながらも、自己の表現を深化、完成させていくタイプ(小津安次郎などはこのタイプの典型だと考える)、もうひとつは自己の表現のたえざる否定により常に新たな表現を追い求めていくタイプである(典型的にこのタイプと思われる芸術家はパブロ・ピカソである)。


 私は松田正隆という劇作家は典型的に前者のタイプだと考えていたので、最近の松田のもがきぶりにはちょっと当惑させられているところがある。おそらく、枠を破りたいというやむにやまれぬ内的衝動のようなものがあるのだろうというのは想像できるのだが、自己の心情を露わに表出するような芝居においては台詞における微妙な手触りとか、一見いわゆる劇的なシチュエーションからはほど遠い日常的な描写の底から立ち上がってくる心理のドラマ性といった松田戯曲の持つ最良の資質(と少なくとも私が考えているもの)が生きてこない感じがしてしまうからだ。もちろん、「天草記」のようなこれまでの枠組みをはみだす作品は新たな演劇の可能性を内包していることも確かで、先の書いたように「現代の神話の構築」という側面から言えばこの作品にも松田の表現の特徴はしっかりと刻印されてはいる。


 特に若くして「海と日傘」「月の岬」という小津の例えるならば「麦秋」「東京物語」にも匹敵すると思われる現代演劇の古典を書いてしまった松田にとってはそれを乗り越えてより高みに達するためには一見、回り道とも思われるような苦難の道をあえて 歩まねばならないのかのかもしれない。だから、松田の今後がどうなるのか期待をもって見守っていきたい。