岩松了プロデュース「スターマン」

 岩松了プロデュース「スターマン」の再演をザ・スズナリで見た。岩松の芝居はいつも謎めいていることで知られるが、この芝居も例外ではない。ここでは私なりの読み取りを提示してみたい。
 「スターマン」は岩松がまだ東京乾電池に在籍していた91年にファザース・プロデュースとして上演された作品の再演だが、初演は見ていないので、岩松演出によるこの舞台を見るのは初めてである。

 岩松の作品には大別して「アイスクリームマン」「センター街」など若手の役者を集めての群像会話劇と竹中直人の会の「テレビデイズ」「月光のつゝしみ」など兄弟(姉妹)、夫婦など少数の人物間の微妙な関係を細密画のように描いたものに分類できるが、この作品は若い役者を起用しているが、後者に分類できる作品といえる。

 舞台は矢沢家の兄妹が同居しているマンションの一室である。出版されている戯曲のト書きには「このドラマは、その兄と妹の物語である」とあるが、芝居ではその微妙な関係が直接描かれるわけではない。むしろ、ここで描かれるのは妹とその友人、岸川、隣の主婦、神尾夫人、兄の仕事の後輩、小野寺の関係である。しかし、この芝居はあえて逆説的に言えば、ここには登場しない不在の関係を巡ってのドラマである。不在の関係が兄妹を逆照射していく。

 舞台の上手に十数個のワイングラスが吊るされた棚がある。芝居の間、これが何度となく揺れて音を鳴らす。神尾家の寝室が壁の向こうにある設定で、ここでワインはメタフォールにセックスと結びつく。これがこの芝居で岩松の仕掛けた企みであり、ワイングラスは登場する人物にも増して雄弁に不在の関係を物語る。

 まず、注目したいのは一幕で出てくる兄妹の母がワインが好きだったというエピソードである。駒子はこれを母のことだとして神尾に話す。しかし、兄によればワインが好きだったのは春枝伯母だ。伯母は兄妹の育ての親である。駒子は伯母を嫌っていたが、今はなぜか隣の神尾夫人のことを伯母と似ていると慕っている。この故意の取り違えには意味があると思う。

 ワインが性的行為を暗示しているとすれば、これは明らかに父親/母親/伯母の三角関係と結びつく。伯母の自殺で兄妹二人が残される。自殺の理由がなんであれ、駒子には伯母を否定した自分の責任と感じられ、それがトラウマとなって、他者との関係で折り合いがつかない現在の状況の原因となっていることが分かる。

 ワイングラスの棚が揺れるシーンは芝居の中で四度あるが、これは周到に計算されたタイミングで起こり、作者の企みの深さを感じさせる。最初は岸川が兄と一緒にいる場面。次は小野寺が一人、部屋に残った場面。ここに兄が帰ってきて、観客にワイングラスの棚のことが強調される。ここまでが前段である。

 次が小野寺と岸川の残された場面で、すでにここで岸川は小野寺を誘惑し始めているのだが、棚が鳴りだした直後、二人はブラインドの向こうの兄の部屋に姿を消す。今回の舞台ではこの後、ブラインド越しにデビッド・ボウィの歌う「スターマン」に乗せて二人のダンスシーンがちらちら見える演出だが、これは暗転の代わりに時間経過があったことを示すものだ。この間、二人の間に関係の進展があったことが、ワインのイメージとともに暗示される。作者のこの趣向は見事というしかない。二人の関係の変化はそれまで小野寺に対し探るようだった岸川の態度が急に親しげに変わっていることからもうかがえる。

 そして小野寺はもともと兄が妹の相手にと見込んでけしかけていたことを考えれば、駒子/岸川/小野寺の関係はそのままかつての母/伯母/父の不倫関係と重なりあってくる。しかも、岸川は駒子にとり母のことでいじめにあったり、伯母の自殺などもっとも否定したい過去の自分を知り、しかも同窓会という過去の亡霊に誘いに来た人物でもある。岸川が現れるとすぐに今の自分にとって唯一のよりどころとなっている神尾夫人を呼びだそうとするのは駒子の無意識の防御反応なのである。しかも、そうした手段でさえも自分を制御できず、ついには半ば無意識的にやはり過去の自分の発言と岸川の発言を取り違えたふりをして、岸川の攻撃に出る。そして、それを兄にとがめられると神尾夫人さえも振り捨てて家を飛びだし、自殺を計るのだ。

 絶望している妹に対して兄はなんとかしてやろうとは思っているのだが、どうにも出来ない。そして、ラストシーンでは駒子はついに自分の幸福幻想のよりどころであった神尾夫人さえも夫に裏切られていることを夫人が不在なのにワイングラスの棚が揺れるのを見て知ってしまう。これも象徴的だが、兄はワインを浴びるように飲んで眠ってしまっている。この救いのない終わりこそ、人間関係の奥に潜む心の闇を描く劇作家、岩松了の真骨頂といえる。

 そして、私たちの脳裏には神尾家の不倫はやはり神尾夫人/謎の不倫相手/神尾の夫の関係を作り、この関係もやはりそもそもの根源だった伯母の悲劇が揺れるワイングラスの音とともに重層的に響きあうのである。(2月8日=下北沢ザ・スズナリ

桃唄309「人情食堂さくら」

桃唄309が95年の初演以来3年ぶりに「人情食堂さくら」を再演した。この芝居については、初演の際に下北沢通信(演劇情報誌Jamci vol,18)で「演劇におけるミニマリズム」として「チェホフの系譜を継ぐ、新たな演劇の流れだ」と評したのだが、今回は重複を避ける意味もあり、桃唄 309ならびに劇作家長谷基弘のその後の作品も踏まえてもう一度、この芝居について考えてみたい。短いシーンをつなぎながら、歴史や社会共同体といったより大きな世界を俯瞰してみせるのが作演出の長谷基弘の作劇の特徴である。

 これはよく比較される平田オリザら他の「静かな演劇派」の作家にはないことで、そうした独特の作風の一つの原点がこの芝居といっていい。ここでは定食屋さくら食堂の昼時のスケッチが7日間にわたって描かれる。食堂は閉店することになっていて、描かれるのは閉店までの最後の一週間である。だが、そうした、芝居全体の構造は後から俯瞰して初めて分かることで、舞台では一見いつもと区別のない近所の常連客でにぎわう大衆食堂の昼時の姿がただ淡々と演じられていく。

 登場人物も酔っ払いの親父や駄洒落を連発する調子のいい男、噂好きの近所の主婦、バーのママといかにも下町人情喜劇を思わせるようなこの集団としてはかなりデフォルメの度合いの強い人物たちで、全体の印象もコメディータッチではある。会話も天気のこと、近所に出来たコンビニのこと、青梅街道で勝新太郎を目撃した話ととりとめもないものばかりだ。舞台後方の壁に日めくりカレンダーがあり、それだけが変わらない日常の中での時の流れを象徴しており、暗転しないばかりか、照明の変化もないのに女主人のさくらが日めくりをめくるとそこからはもう次の日という設定で、そうした日常が繰り返されながら、芝居はしだいに食堂がなくなる最後の日に向かってつき進んでいく。

 食堂の廃業は歴史上の重大事件というには語弊があるが、ここには日常描写のスケッチ的な積み重ねによって、戦争などの大きな歴史的な出来事を俯瞰していこうという「私のエンジン」「五つの果物」といったその後の作品で長谷が演じてみせた方法論の萌芽が確実に含まれている。

 さらに、この芝居では「人情食堂さくら」という下町人情喜劇を連想させる題名でもあり喜劇的なドタバタも演じられるが、そうした人情喜劇を装ったとりとめのない会話の中にもさくら食堂周辺の環境の変化、そして、そういう変化の中で、さくら食堂が終わりを迎えるという事実をさりげなく、ちりばめていく。この一見、無為を装いながら、企みのある会話こそ長谷の作劇の真骨頂である。例えば、登場人物の一人は近くの酒屋がコンビニになったことを便利になったと喜んでいる。しかし、そういう利便性をありがたがるような人々の性向ことが、さくら食堂を閉鎖に追い込んだ理由にもなっていることには無自覚なのである。さらに芝居ではバブルの崩壊や地上げ屋の暗躍といった東京の現実の断片も示され、「さくら食堂」に代表される地縁共同体が都市再開発の波のなかで崩壊していく様が見事に捉えられている。直接描かれるのは昼時の食堂だけだが、作者はその外の社会の変化を確実に射程に入れている。それが、この芝居を単なるウエルメードの喜劇にとどまらず現代演劇としての評価に値するものとしている所以である。 

 95年の初演の時の劇評で、さくらという言葉の偶然の一致をあげつらい この芝居は現代の「櫻の園」だと、いささか戯れ言めいた筆致で書いた。今回再び、この作品を見てあらためてその例えは間違っていなかったと思う。

 チェホフの「櫻の園」は地主階級の跡継ぎである夫人ラネーフスカヤの所有する櫻の園が競売にかけられるまでの顛末を屋敷に出入りする様々なコミカルな人物たちの群像劇の形で描きだしたものだが、地主階級の没落といった主題をあくまで喜劇的なタッチで描いたところにチェホフらしさがある。この芝居も同様のスタイルを踏襲しており、都市のコミュニティーの崩壊というともすれば問題劇として大上段にふりかぶってしまったり、お涙ちょうだいになりがちな題材をやはりコミカルなタッチで描いた点であい通じる部分があるのではないだろうか。

 初演と今回の再演では主役のさくら役を男優から女優(楠木朝子)に変えたほか、実はかなり大幅なキャストの変更があった。さらにキャストの変更にともないひとりひとりの役作りも大幅に変えている。だが、そうした大幅な変更にも関わらずこの芝居から受ける全体の印象には、それほど大きな変化はなかった。

 これはこの芝居が単によくできた群像劇だというだけでなく、本当の主人公が「さくら食堂」、そして、かつて「さくら食堂」があった「今はなき東京」であるせいかもしれない。その意味で、この芝居において俳優以上に存在感を主張しているのが完全主義を思わせるほどディティールにこだわったさくら食堂の内装の美術である。きわめて、具体的でありながら、だれもがどこかで見た記憶があるように思わせるという力この舞台の美術装置は持っている。そして、ラストシーンで長谷は登場人物が皆去り空になった「さくら食堂」を見せる。実はこの役者が一人も居ないラストシーンこそ、この芝居でもっとも印象的なシーンなのである。扉からこぼれる夕日に照らされる薄暗い食堂に外から近所のだれかが練習していると思われるエリック・サティピアノ曲だけが流れるなんとも物悲しい情景。これで、思いだしたのが、そう、桜の木を伐る音だけが響く「櫻の園」のラストシーンだった。(2月20日=下北沢駅前劇場