WHAT’S NEWと日記風雑記帳5月―1

    

 5月19日 映画「式日」(庵野秀明監督、7時10分〜)とドキュメンタリー映画ビートニク」(9時半〜)をOMS で見る。「ビートニク」にはとにかくぶっ翔んだ。アメリカのビート派詩人・文学者(ジャック・ケルアックアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バローズ)についてのいわば伝記映画なんだけれど、とにかくこいつら年を取っても相変わらず凄いやつらなんである。この映画まだみてない人がいたらとにかく必見だ。

 お薦め芝居でも紹介しているCRUSTACEAの新作公演でチケットの売れ行きがイマイチでピンチとの伝言板への書き込みがあった。このページではもみゃさんが行くよって言って下さっていたのだが、他の人の反応はなく、平日公演だということもあり、厳しいのかなという感じである。このCRUSTACEAは私としてはかなりお薦めのダンスカンパニーなので、もしその日(21日6時〜、8時〜)に時間のある人がいればぜひ予約して行ってみてほしい。この日はトリイホールのダンスボックスという企画で他にも色合いの異なるダンスが見られるし、特にダンスってこれまで見たことないしなあという人にはお得だと思いますよ。



 5月18日 AGAPE STORE「Big Biz 〜宮原木材、危機一髪!〜」(7時〜、近鉄小劇場)を観劇。

 遊気舎を完全離脱した後藤ひろひとによる新作である。作が後藤、演出がG2というパルコプロデュース「人間風車」のコンビではあるが、もともと遊気舎に書き下ろした「人間風車」と比較するとどうも役者それぞれの持ち味を生かすことにとらわれすぎて後藤の作家性は後ろに退いた感は否めず物足りない。もちろん、AGAPE storeは後藤が脚本を提供、出演もしていても後藤の企画というのじゃなく、松尾貴史とG2による企画であり、自分で演出はしていないので、ここで遊気舎から完全に離れた後藤ひろひとが今後どういう方向性で作品作りをしていくのかを判断してしまうのはフェアではないのだが、それでも果たしてこういうのでいいのかについてちょっと疑問を持ってしまった。

 さすがに人気劇団から芸達者を集めたキャスティングであるだけあって、役者は皆持ち味を存分に発揮していて面白いのである。ただ、その持ち味というのが芸とか個性というところに留まっていて、コメディーとしての面白さにつながっていかない苛立ちをこの芝居を見ながら感じてしまった。おそらく、それは企画としてのこの芝居に50人もの声色を使い分ける松尾貴史の芸を芝居という枠組みの中で生かして、それで遊んでみると面白いんじゃないかということがまずあったのじゃないかと思うのだが、それだけでは松尾の芸に感心はしても芝居はバラエティーショーではないのでそれだけじぁ持たない。それで宮下木材という税金のがれのためのペーパーカンパニーを巡る筋立てを考えたのだが、やはりシチュエーション的に無理があってかなり苦しい話になっていることは否定できない感じなのだ。

 当て書きは後藤の作劇のひとつの特徴でもあるわけだが、今回はキャストされた俳優それぞれのキャラに引っ張られすぎて、設定がかなり安易になってきていることのつけが細部のディティールの説得力のなさになってはね返ってしまっている印象が強い。後藤は意外と器用な作家ではあるので、こういうシチュエーションコメディー風のものも書いたりすることは可能なのだが、その本来の資質から言えばこういう乾いたコメディーよりは「人間風車」や遊気舎時代の代表作である「とかげ親父」「じゃばら」など人間の持つネガティブな部分を核に据えたドラマに真価を発揮してきた。もちろん、「人間風車」とは違って後に挙げた2作品などは遊気舎という特異な集団があったからこそ生まれてきた作品で、そういう類のものを果たして自分の集団であるPiperも含めてプロデュースユニット的な形にならざるをえない現在の立場でどこまで作っていけるのだろうということには退団の話が現実のものとなってきた時点で若干の危ぐを覚えてはいたのだが、今回の芝居を見ていてそれはそんなに簡単なことじゃないかもしれないと改めて思ってしまったのだ。

 もちろん、後藤はもうそういう種類のドラマには興味がないのかもしれないので、そういうことを期待されてもということかもしれないのだが、今のところ立ち上がっている企画というのは王立劇場にしても基本的には大田王タイプのコントユニットの色合いが強そうだし、それだけがやりたいのか、そうでもなくて、もう少しドラマ的な色合いの強いものもやりたいのかがまだ見えてこない。後藤に才能があることは間違いないので、この程度のもので満足しているとするならおおいに不満なのである。


 えびす堂大交響楽団「ラジオドッグ 超★絶★版」(5時〜、扇町ミュージアムスクエア)についての感想を非常に遅ればせながら、5月6日の日記コーナーに加筆。 

 5月17日 今日は珍しく平日休みで本当は芝居を見に行こうと思っていたのだが、ページの更新などしているうちに瞬く間に夜になってしまった。それで観劇は諦めて、日記に記事をだらだらと更新しているところなのである。

 6月2日と9日の2度にわたって静岡に行くことにした。2日はSPAC振付コンクール(2時〜、静岡芸術劇場)の公開最終選考会に残った4カンパニーに京都のダンスカンパニーMonochrome Circusが入ったので、その公演を見に行くのが主目的である。ただ、この日は利賀で顔を合わせた倉迫康史さんが構成・演出する「ハムレット ―オフェーリア・プログラム―」(6時〜、楕円堂)とピッコロ劇団「マッチ売りの少女」(8時〜)もあるので、それも一緒に見てくるつもり。今回、行くかどうか本当に迷ったのは以前から今度こそ見なければと思っていたシャトナー研(6月1、2日)の公演とスケジュールが重なってしまうことで、1日は休めそうにないから苦汁の選択になってしまったのだ。

 9日はクリスチャン・ブリゴー「秘密の花園」(4時〜)と石川ふくろう「GIGANT 偽眼人」(7時〜)でこれは10日に東京で弘前劇場「月と牛の耳」(2時〜)とreset-N「キリエ」を見る予定なのでその途中に立ち寄る(?)という感じなのだけれど。この公演見に同じスケジュールで静岡に行くという人がいれば現地で御一緒したいのだけれど、これは利賀以上にいないよなあ(笑い)。

 そういえば今年の利賀新緑フェスは劇団関係者はじめ参加者の知りあいはもちろんいたのだけれど、花組芝居が参加しなくなったせいか、観客で知ってる人って本当にいなかったなあ。以前は直接の面識はそれほどなくてもちょくちょく東京の劇場とかで見かける人とかがぽつりぽつりとはいたのだけれど。批評家やプレス関係の人も少なかったような気がする。確かに今年の演目だとテアトロ・マランドロは静岡でも見られるし、山の手事情社ク・ナウカ(これはあくまでプレビュー公演だけど)も東京で見られるので東京在住の人には行く意味があまりないラインアップだったといえないこともないのだけれどそのせいなんだろうか

 今週末は再び東京に行き山崎広太rosy.co.dance「CHOLON」とジャブジャブサーキット「高野の七福神」。月曜日はCRUSTACEA。再来週は土曜日に国立リヨン・オペラ座カルメン」(マッツ・エック振付)と青年団上野動物園再々々襲撃」(7時〜)。日曜日には戻ってきてロヲ=タァル=ヴォガ「葉洩れ陽のジキタリス」(7時半〜)を見る予定。M.O.P.と立身出世劇場はどうしようか。

 JCDNの事務局から「踊りに行くぜ!!VOL.2」の公募要項がメールで届いたので参考までに転載することにする。

                                        
     敬具

                                      
     JCDN事務局 

JCDN全国パフォーマンススペース間のダンス巡回プロジェクト
2001 「踊りに行くぜ!!VOL.2」公募要項
現在日本各地で新たな振付家・ダンサー・パフォーマーが数多く生まれてきていま
す。JCDNでは、●全国の振付家が、違う都市において公演を重ね様々な反応を得
ることによって作品及びアーティストが育っていくこと●全国のアーティスト間、ス
ペース間、アーティストとスペース間の新たなコミュニケーションが生まれること●
各地域の孤立をなくすこと●各地域の観客に新しいアーティストを紹介することによ
り、ダンスへの理解が深まり、観客が育っていくこと●アーティストにとって、地元
以外での単独の公演やカンパニー公演が日本各地で行われるようになること、を目的
に本プロジェクトを企画しました。第一回目の2000年は、札幌・東京・横浜・大阪の
4つのスペースで開催し、9組のアーティストが参加しました。2回目の今年は、上
記に富山・前橋・名古屋・福岡が加わり8つの地域で開催します。

昨年は参加スペースから推薦されたアーティストを中心にプログラムを組みました
が、「どうしたら”踊りに行くぜ”に参加できるのか?」という問い合わせを多くい
ただきましたので、新しい試みとして参加アーティストの一部に対する公募を行いま
す。皆様のご応募をお待ちしています。      2001年5月14日 JCDN事
務局

2001 「踊りに行くぜ!!VOL.2」 開催会場と日程

福岡・イムズホール

福岡市中央区天神1-7-11
10月5日(金)
1回公演(キャパ250人)

大阪・トリイホール

大阪市中央区千日前1-7-11Kamigataビル内
10月10日(水)・11日(木)
2回公演(キャパ100人)

横浜・STスポット

横浜市西区北幸1-11-15横浜STビル内
10月24日(水)・25日(木)
2回公演(キャパ70人)

札幌・日食倉庫コンカリーニョ

札幌市西区八軒1条西1丁目2-1
10月27日(土)・28日(日)
2回公演(キャパ100人)

富山・県民小劇場オルビス

富山市桜町1-1-61マリエとやま内
11月2日(金)・3日(土)
2回公演(キャパ150人)

群馬・シアターキャンプ
前橋市本町一丁目1 C・A・M・P/前橋芸術会館内
11月6日(火)・7日(水)
2回公演(キャパ150人)

名古屋・愛知芸術センター小ホール

名古屋市東区東桜1-13-2
11月28日(水)・29日(木)
2回公演(キャパ150人)

東京・セッションハウス

東京都新宿区矢来町158
12月8日(土)・9日(日)
2回公演(キャパ100人)


公募対象作品 

応募者自身が振付し出演するオリジナルなソロダンス・パフォーマンス作品で、過去
に上演したことのある20分以内の作品(現在も上演可能な作品)

アーティストの選考と条件に関して 

今回の公募の枠としては、3−4組のソロ作品を考えております。出演する公演会場
に関しましては、他のアーティストとのバランスにより決めさせていただきます。1
組あたり1−2箇所の出演を予定しています。6月中に選考を行い、結果をご連絡し
ます。

出演経費に関しては、JCDNが企業スポンサードにより、アーティストの交通・宿泊・
食費および若干のギャランティを負担します。(但し交通・宿泊に関しては、「じゃ
らん」などを利用した一番経済的な方法になります。)

 各地のプログラムに関して 各地において4組(1組約20分以内)のソロま
たはデュオ作品によりプログラムを構成します。公募以外に各スペースからの推薦アーティストを中心にJCDN事務局が各スペースと相談の上、各地のプログラム
を決定します。基本的に4組のうち1組は地元のアーティストとしております。   

応募方法:締め切り 6月5日(必着)までに、本企画で上演希望の作品のビデオ
(20分以内1作品)、作品に対するコメント、略歴(JCDNダンスファイルに掲載さ
れている方は結構です)を同封の上下記までお送り下さい。ビデオは返却できません
のでコピーをお送り下さい。ビデオは必ず上演希望作品のみお送りくださいますよう
お願いします。

問い合わせ・送付先

〒600-8092京都市下京区神明町241 オパス四条501 JCDN 「踊りに行くぜ!!」 
公募係

TEL 075-361-4685 FAX 075-361-6225 E-mail jcdn@jcdn.org



 5月16日 長らく御無沙汰だったインタビューシリーズを再開。その第1弾として関西を代表するコンテンポラリーダンサー/振付家であるヤザキタケシさんのインタビューを収録した。近々ホームページに掲載する予定なので楽しみにしてほしい。

 5月15日 森博嗣恋恋蓮歩の演習」を読了。

 美貌の名探偵、その友人でありライバルでもある怪盗、その2人を付け狙う女刑事、そして怪盗の正体を知らずそれに憧れる若い女、その友人である女装癖のある美少年。道具立てが擬古典風じゃないのであまりこれまではそういう感じを受けなかったのだけれど森博嗣のVシリーズ(という風に背表紙裏に書いてあるのだけれどVっていったい何?)はきわめて古典的な本格ミステリの線を狙ってるのではないかということを今回の新作「恋恋蓮歩の演習」を読んで改めて思った。前作「魔剣天翔」が航空機を道具に使った密室殺人というディクソン・カーの作品を連想させるようなものだったのだが、今度の作品は豪華客船を舞台にした人間消失の謎とやはり黄金時代のミステリを思わせる派手な道具立て。もっともこの場合、不可能犯罪としてはその状況の不可能性がいまひとつはっきりと示されていないという物足りなさはある。

 ところどころにピーター・ラウゼイの「偽のデュー警部」の引用をちりばめているのがよく効いているし、メーントリックと不即不離のプロット上の仕掛けもよくできている。ただ、不満をいえば真相が推理によって導かれてないのが、パズラーだと考えるとちょっと弱いところではある。これは犯人あてじゃないのだからうるさいことは言わなくてもといわれればそれまでなのだが……。  

 5月14日 宮部みゆき「心とろかすような」を読了。

 「心とろかすような」を読んで初めて気が付いたのだけれど、このシリーズって(ということは宮部みゆきのデビュー長編「パーフェクト・ブルー」も)犬の一人称描写で書かれていたのね。というようなことをわざわざ書いたのはこの短編集を読んでいて京大ミステリ研時代に先輩が書いた犯人あてにやはり犬の一人称描写で書かれていた「犬は知らなかった」という作品があったことを思いだして懐かしくなったからなのだ。この短編集の中にも犬である主人公が気が付くある匂いに人間たちが気が付かずいらいらするという件があるのだけれど、ほとんど記憶はあいまいになっているのだが、似たような趣向がその犯人あてでも出てきたことが思いださせて、それで逆に「パーフェクト・ブルー」を読んだ時にはそうした印象がなかったのはどうしてなんだろうと思ってちょっと不思議に思ったからだ。もちろん、叙述に関していえば宮部みゆきの場合はその後に連作短編として財布の一人称描写などという超絶技巧もやっているし、前述の「犬は知らなかった」などは京大ミステリ研の犯人あて史上に残る変なことをやってる作品だったので、犬の一人称描写なんてのは序の口といってもいいのだけど。


 そういえば話は変わるけれど、京大ミステリ研出身のミステリ作家に変に細かな描写に気を使った作品が多いのを不審に思っている人は多いと思うにだけれど、これはミステリ研で当時やられていた犯人あてにそういう種類のものがすごく多かったせいがあると思う。通常のフーダニットのパズラーとミステリ研で当時やられていた犯人あての大きな差はそこにあって、具体例を出して説明しないとなかなかイメージを結びにくいと思うのだが、状況が全て分かっても犯人だけは当たらないというミステリ研内で「挑戦状トリック」と呼ばれていた作品群などはその典型といっていい。

 しかも、私が在籍していた当時では単純なパターンでは簡単に見破られてしまうので一般人から見るともうかなり屋上屋を重ねるような複雑怪奇なパターンが試みられていた。

 これは犯人あてのようないわば森博嗣流にいえば境界条件が限定されたところで、それでも読者(犯人あての場合には解答者)にあくまである種の意外性を追求していくと、盲点もその一見限定されているかに思える限定条件そのものに求めるしかないなくなってくるからで、特にミステリ研でやられていた犯人あてではあらかじめ解答者の便宜のために登場人物表を提示しておいて、犯人はかならずその中にいますというルールで展開されていたため、解答者はあらかじめ当然探偵役や叙述者も含め登場人物表に掲載されている人物は同等に疑うというということが習慣づけられている限りにおいて、本質的に意外な犯人というのは犯人パターンの中にはありえないからなのだ。市販で手に入る作品でということになると綾辻行人の「どんどん橋」などがその一例になるのだが、あれは私が卒業した後で発表された犯人あてだったとはいえ、別に孤立したパターンというわけではなく、先に挙げた「犬は知らなかった」もそうなのだが、異なる方向性において、あの種のちょっと変なことを試みた作品群がかなり多数あって、あれはそこから必然的に生まれるべくして生まれた作品だといっていいのである。もちろん、あの作品に関してはそれを袋小路への道だと批判した人の意見ももっともだと思う点もあるのだけれど(笑い)。

 こんなことを書きだしたのはほかでもない。シベリア少女鉄道の芝居を見た時に京大ミステリ研がやっていた犯人あてと同質の志向性を感じてしまったからである。もちろん、シベリヤ少女鉄道がやっているのはミステリ劇でもなんでもないのだが、その骨幹にはある種のトリック(仕掛け)があって、それを具現化するためにそんなことのためにそれだけの苦労をしていったいなんになるんだという無償の情熱を注ぎ込んでいる。そこに私のような人間はついつい共感を覚えてしまうのである。

 もちろん、それは例えば演劇=芸術という立場からすれば単なる無駄である。馬鹿としかいいようがない。だから、演技が下手で見るに耐えないとかそういうレベルで入れないという人を除いてみても純粋に遊戯的なある種の本格ミステリになんの興味も抱けない人がいるようにそれがなんなのだか全然理解もできない、したがって、当然、こんなものを見るのは時間の無駄と思う人が少なくない存在するだろうというのは意外なことではない。むしろ当然なのである。

 この劇団の主宰である土屋亮一がその作品中に仕掛ける仕掛けにはある意味で本格ミステリのトリックに近いところがあるのである。それだけに古典的な本格ミステリの作者は書きはじめて初期のころに大仕掛けな作品を書いてしまった後、しだいにミステリそのもののアイデアはざん新なものは出にくくなってしまいストーリーテリングとかキャラクターとか別のところに活路を求めざるをえなくなるように、彼がこの種の作品をどこまで継続して作り続けていけるのかはおおいに危ぐされるところなのだ。その意味ではシベリア少女鉄道の場合は稚拙なようでもアイデア一本で勝負できている今が旬ともいえそうなのである。

 ただ、なんとも惜しまれるのは今回の作品でいうと演技だけでなく、構成、演出の面などでも隙があり過ぎて、せっかくのアイデアが生かしきれていない場面が多々あることである。ある種の演劇には下手うま、あるいは下手下手の演技だからこそ面白くて、うまくなってしまうと果たしてどうなのかという類のものもあることも確かだが、ことシベリア少女鉄道の場合にはそうではない。アイデアを十全に生かすためには出来れば芝居全体の完成度がより高く、演出面でももう少しメリハリが利いていればとついつい考えてしまうのだ。凄いトリックを思い付く推理作家には往々にして文章や構成が下手でそのアイデアが生かしきれてないようなところがあるのだが、この劇団を見てるとそうした例が連想されてしまうのだ。

 もっとも、これが旗揚げ3回目の公演なのだから、今の段階で多くを望むこと自体が酷というものかもしれない。シベリア少女鉄道の場合、作演出の土屋のなんとも奇抜で破天荒な発想はスケールの大きさを感じさせるし、俳優陣もはっきり言って技術はないけど藤枝真由美役を演じた染谷恵子ら素材としてなかなかいいと感じさせる人材にはことかかない。若手の劇団だけに伸びしろは十分にあり公演を続ければ演技はしだいにうまくなってくるものである。問題はそれまで集団を維持し続けることができるかどうかにかかっている。

 さらに言えば一見この集団のやっていることは現代演劇という括りの中では異端にも見えるのだが、実はそうではない。具体的なことは伏せておいた方がいい側面もあるのでここではあまり書けないのが残念なのだが、これまでの舞台での仕掛けというのは「見立て」「早替わり」などという日本の伝統演劇である歌舞伎で多用された「ケレン」の系譜を引く演出といえないこともない。特にこの「今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事」はクローン人間、タイムスリップという2つの設定を元にして「早替わり」演出を駆使した(あるいはそれをとことんパロディー化した)演出になっており、ストーリーとかテーマよりそれが(というかそれだけが)土屋のやりたかったことだったんじゃないかと思う。しかも、舞台の終盤において、それが「出来る事」からついに「出来ない事」の領域に入っていくことで伝統の「早替わり」演出がどんどん杜撰さを増していくのだが、それが芝居全体の主題と呼応している構造を取っているのがこの芝居の面白いところで、ただそれだけにことにSF仕立てのストーリーをでっち上げてしまうという発想にはちょっと脱帽ものだったのだ。    

 5月13日 シベリア少女鉄道「今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事」(5時半〜、中野テレプシコール)を観劇する。

 実はこの芝居を見るために大変なことに(笑い)。題して「遥かなりテレプシコール」。

 本当はこの日朝早く起きて10時少し前ののぞみで東京に行き、青年座「赤シャツ」(紀伊国屋ホール)に当日券で挑戦してからこの芝居もと考えていたのだけれど、2、3日前に青年座に電話してみるとその日は前売りチケットは完売。当日チケットも何枚でるかは分かりませんと言われてしまいかなりモチベーションが下がっていたのであった。しかも、前日夜遅くまでお薦め芝居を書いていたためにこの日は起きてみたらもうすでに午後1時半近くであった。

 いくらホテルをネット予約していたとはいえ、その時点で諦めるのが普通の人だが、とにかく急いで新大阪駅に行ってみた。しかし、それに乗ればぎりぎり開演に間に合うのぞみは出た後で、一番早い新幹線で東京にいつ着きますかと聞くと「5時15分です」の返事。これでは到底、中野に開演時間(5時半)に着くことなど無理である。これでさすがの私も一度は諦めて今日はどうしようかととぼとぼと階段を地下鉄御堂筋線の方に降りていったのだった。ところが私は偶然にもそこである物を見てしまったのだ……。それは伊丹空港行きのバスであった。ひょっとしたらと思いキヨスクで時刻表を買い伊丹-東京便を調べてみるとなんとあったのだ3時15分伊丹発という飛行機が!。これはひょっとすると間に合うかも。

 まだ、起き抜けでぼーっとした頭に急速に脳内麻薬がわき出てきて、フル回転で計算してみる。この飛行機は4時10分ごろに羽田に着く。羽田から1時間 20分。飛行機に空席があればぎりぎりで中野に5時半までに着けるかも。しかも、手元にあった情報誌で確認して、4時から伊丹アイホールで岩崎正裕が高校生を演出した芝居があるのを確かめ「飛行機が満席だったら、諦めてこの芝居を見にいけばいいや」と自分に言い聞かせて、空港行きのバスに乗り込んだのであった。

 さて、自分では十分冷静なつもりだったのだけれど、この時点ですでにどう考えても冷静さを失っていたのであった。伊丹空港に着いたのが2時40分過ぎ。さっそく、チケットカウンターに行くとただいま満席でキャンセル待ちですとのこと。こうなると逆にここまで努力をしたんだからと後先をほとんど考えずキャンセル待ちをしてしまう。そして、そのままの勢いで飛行機に乗り一路東京へ。

 しかし、羽田に着いて初めてやばいなと思う。というのは確かに4時10分ぐらいに着陸はしたものの着陸ロビーに出てきた時には4時20分過ぎになっていたからだ。さて、中野への最短の経路はどう行ったらいいのだろうか。一瞬、考えたもののもうこの時にはすっかり余裕がなくなっていて、目の前に見えたモノレール乗り場でモノレールに乗ってしまう。羽田空港4時32分発のモノレールで浜松町に着いたのが、4時57分。JRに乗り換え、京浜東北線で東京駅に着いたのが5時10分ぐらい。これはぎりぎり間に合うかも。確か中野までは20分ぐらい。確かに冷静さを失っていたようだ。大変はことを忘れていた。目標地は中野駅ホームではなく、中野テレプシコールであったのだ。

 5時27分ぐらいに中野駅に着き、劇場まで走るがこの道がなんと遠く感じたことか。日ごろの運動不足で息も絶え絶えになってきて、ここで初めて、私はなぜこんなことをやっているんだろうという疑問が沸々と湧いてきた(遅すぎるって)。それでも大抵は5分押しぐらいで始めるだろうからと劇場に急いだのである。そして、ほとんど死人同然になってなんとか劇場にたどり着き、受け付けで聞いた言葉は「ただいま開演致しましたので演出の都合上、10分間は入れません」。ガビーン。絶句(笑い)。もちろん、定刻通りに開演した劇団の人は全然悪くないのだ。しかし、ことここに到ってはいったい自分はなにをやっているんだかという虚しい気持ちが沸々と込み上げてきたのであった。

 そして、この劇団のことだから当然見る前から十分予想はついていたことだったのだけれど、こうした無駄な努力の結果があれかよ(笑い)。まあ、こういう馬鹿馬鹿しい芝居は嫌いじゃないからいいのだけれど、いったい私はなにをしてるんだろうという疑問はこの日夜眠るまで頭の中をぐるぐると回り続けたのであった。  

 5月12日 LEDが次回公演で考えているというので倉地淳「日曜日の夜は出たくない」を再読してみた。大昔に読んだままだったのですっかり忘れていたのだが「163人の目撃者」は連作短編の中の一編で、新宿シアターチェーホフという小劇場スペースで芝居の本番中に起こった毒殺事件についての話であった。しかし、倉地ファンには悪いけどこれってこのまま芝居にしても面白くはならないんじゃないだろうか(もちろん、ミステリとしてどうこうじゃなく、あくまで芝居にして面白そうかどうかです)。小劇場スペースを舞台にした殺人についての物語を小劇場スペース(この場合、上演場所としてはおそらくモデルになったと思われる新宿シアターモリエールがベストなんだろうなあ)で上演するという入れ子の構造は面白いのだけれど、あのネタ(トリック)を原作通りに芝居でやるとなると下手するとギャグになっちゃうような気がするのだけどなあ。とりあえず、直塚和紀氏のお手並み拝見といったところである。どうなるんだろうか。

 5月11日 5月のお薦め芝居を掲載。

 5月10日 仕事を終えて、深夜2時過ぎに帰宅。テレビをつけるとちょうど、映画、エリック・ロメール監督の「友達の恋人」(1987年)がはじまり、これが面白くてついつい最後まで見てしまう。前日の公演の打ち上げがフランス式(?)の立食パーティーだったのであらためてそのことを思いだしてしまったのだが、フランス人というのは本当によくしゃべる(笑い)。映画はパリ郊外を舞台に24歳の地方公務員、ブランジュ(しかも文化担当)と22歳の女子学生、レアとそれに2人の彼氏との間に起こる恋愛模様を描いたコメディーなのだが、こうしたフランス式の社交が苦手という風に役柄が設定されているブランジュにして、これだけの社交性があるのだから、そんなエネルギーもない平均的な日本人(?)としてはフランス人って元気だなあとあきれるばかりなのである。しかし、この映画、恋愛映画としても女優2人が魅力的でよかったのだけれど、それに加えて、パリ郊外に住む独身の男女の生態が窺えて面白かった。ただ、若干、疑問に思ったのは主人公のブランジュは日本的な感覚からするといかにもバブリーな感じのする高級マンションとでも思える住居に暮らしているのだけれどこれは日本のトレンディードラマにもあった映画的虚構なのか、それともフランスではこのくらいの住居に24歳公務員が住めるのかどちらなんだろうか。まあ、彼女の部屋には高級そうな家具はないのだから、ここをバブリーと思うのはきわめて日本的感覚なのかもしれないのだけれど。

 しかし、こういうものを見ていたものだからお薦め芝居も日記コーナーの更新もろくろくできなかったのだった。

 5月9日 「Edge2」(7時半〜、京都・アートコンプレックス1928)を再度観劇。この日は公演後、関西日仏会館で「Edge2」の打ち上げがあり、誘われて参加しているうちに終電を逃してしまう。次の日の仕事が夕方からだったこともあり、そのまま明け方まで会場に残り、始発で大阪に戻る。こういうことをやっているから、ホームページの更新が全然できない。

 5月8日 「Edge2」(7時半〜、京都・アートコンプレックス1928)を観劇。

 京都を拠点に海外などにも活動の場を広げているヤザキタケシ、黒子さなえと南アの実力派ダンサー、ヴィンセント・セクワティー・マントソー、ヨーロッパを中心にワークショップフェスティバルなどで活躍するフレイ・ファウスト。この4人のダンサーの作品(ヤザキ以外は全てソロ)を並べたプログラムである。互いに育ってきた背景が異なり、それが身体、ムーブの違いに反映されている4人のダンサーの作品を続けて見ることで、世界のおけるコンテンポラリーダンスの多様性が味わえる企画で、京都で行なわれた国際ダンスワークショップの一環として企画されたものとはいえ、このレベルのものが東京を経過しない単独の企画として上演されうるということに京都ダンス界の最近の充実ぶりの一端がうかがえた。

 5月7日 LEDの感想を3日の日記に追加。 

 5月6日 富山発1時5分のサンダーバード28号で帰阪。えびす堂大交響楽団「ラジオドッグ 超★絶★版」(5時〜、扇町ミュージアムスクエア)(5時〜、扇町ミュージアムスクエア)を観劇。

 今回、関西に来て初めて名前を知り、気になっていた劇団でもあり、サンダーバードの予定を自由席に繰り上げて、早めに帰阪観劇することにした。その結果。うーん、ちょっと困ってしまった。14歳の中学生3人の友情の物語を複数の人間の脳の回路を直接リンクすることで超人的人格を生みだすというSF的な趣向と組みあわせた脚本のアイデアは非常に秀逸で、このまま映画にして大林宣彦あたりに撮らせたら、面白いものができそうで、脚本演出のオカモト國ヒコ(岡本邦彦改め)という人が本が書ける人だというのは間違いないのだ。しかも、その設定がうまいのはストーリーを単なる勧善懲悪やハートウォーミングないい話に終わらせることなく、登場人物それぞれのそれぞれに寄せる思いが互いに強いがうえにお互いに一緒にいられなくて分かれていかなくてはならない。ラストのこの余韻のなんともいえないせつなさはまるで「冷たい方程式」のような苦みもあってなかなかただものじゃないことを窺わせるのである。

 ただ、問題なのはそのストーリーが乗せられて語られる芝居のスタイル自体はどうも第三舞台演劇集団キャラメルボックスなどに代表されるいわゆる80年代小劇場によく見られたスタイルに収斂してしまっている嫌いが強く、しかもそういう既存のスタイルに対する方法論的な懐疑が感じられない。そのことに苛立ちを感じてしまったのだ。おそらく、情報誌などでの大ざっぱな分類からすれば惑星ピスタチオやランニングシアターダッシュなどと同じエンターテインメント系演劇として括られてしまうのだろうが、ピスタチオやダッシュが私に取って面白いのはこの2集団がいずれもエンターテインメントを志向しながらも表現のスタイルにおいて実験的な手法を試みていたことであり、そこには自分たちだけのオリジナルな表現に対しての強いこだわりが感じられた。

 えびす堂大交響楽団の問題点はどうもこの芝居を見た限りではそこまでの方法論に対する意識はなく、面白い脚本と役者があれば芝居は面白くなるというような単純な思い込みのみで作られている感が否めないことのような気がする。もちろん、芝居はつまらないというわけではないし、こうしたスタイルでそれなりの水準の作品を作っていけば動員はしだいに増えていくであろうが、たとえないものねだりと言われてもそれだけでは演劇表現としては物足りない。特にこの劇団だけではなく、猫ニャーやシベリア少女鉄道、ロリータ男爵など東京の若手劇団と比較した場合に演劇としてのコンセプトワークという点で、関西の若手劇団はスタイルの独自性に対する確信犯的な意識づけが足りない傾向があるんじゃないかと考えていたこともあり、この芝居を見ててそこが気になってしまったのだ。

 もっともそう結論づけてしまうにはまだ関西に来て見た若手の劇団のサンプル数はまだ少なすぎることも確かだ。この劇団も若手だけに99年の作品の再演であるこの作品を見ただけでそう判断するのは早計ともいえるし脚本には見るべきものがあるだけに今後も舞台があれば引き続き注目していきたいとは考えている。   

 5月4日〜5日 利賀新緑フェスの観劇のため、利賀村に滞在。詳細は近く観劇レポートとして掲載の予定。

 5月3日 きょうから東京〜利賀村のツアーに出発である。東京ではLED「見知らぬ演芸場の問題」(6時半〜)を観劇。

 「ミステリ」「演劇」「落語」といえばそれ自体三題ばなしのようだが、即興の三題ばなしで、3つのお題を要領よく取りいれて、うまく落しどころを探すのが難しいようにこの3つの要素をうまく案配して、過不足なくバランスを考えてエンターテインメントに仕立てるのはやさしいことではない。その意味で今回の LEDの公演はあたかも熟練の落語家のようにその綱渡りをうまくやってのけたという点で企画として成功していたのではないかと思う。

 今回の公演場所となったのはお江戸日本橋亭。普通の劇場ではなく演芸場である。昼間に通常の演芸公演があり、それが終わった後にその空間を芝居に使おうという企画だから照明や舞台装置を仕込むのも難しく、演劇上演に取ってはけっしてやりやすい場所とはいえない。しかもこの公演は落語家、鈴々亭馬桜プロデュースとしても企画されているため馬桜師匠が出演するというだけでなく、一席落語をやるということにもなっている。さらにやっかいなのはLEDの場合、ただ芝居にすればいいというわけじゃあなく、ミステリ劇上演の専門集団であるということがあり、ちゃんとミステリ劇にも仕立て上げなくていけない。さらに見にくると予想される観客も鈴々亭馬桜の落語のファン、西澤保彦のファン(ミステリファン)、桃唄309をはじめとして出演者の芝居をよく見ている演劇ファンの3通りに大別される。こういう条件で見に来た人たちをそれなりに満足させて帰すというのがいかに至難の技かはちょっと考えてみただけでも想像がつくだろう。それをこなしてみせた主宰、直塚和紀の手腕には並々ならぬものがうかがえ、その意味で今回の舞台は異色の企画としてきわめて面白かったのである。

 まずよかったのは芝居の舞台を準備中の演芸場に設定した「見立て」である。芝居を単なる落語の前座の余興として終わらせないために西澤保彦の匠千暁シリーズのキャラクターを借りたミステリ劇を外枠として、その中に馬桜師匠の落語(日替わりで私が見た回は「善哉公社」であった)を「入れ子」として、組み込むという構成が良かった。というのは「見立て」「入れ子」という趣向はそもそも演劇にとっても、落語にとっても、そしてもちろんミステリにとっても共通して親近感のあるものといえそうだからである。

 さらにミステリ劇の内容そのものも地方の演芸場を舞台にしてそこに独演会のためにやってくる鈴々亭馬桜が突然、謎の失踪を起こすという西澤作品を彷彿とさせるハワイダニットに照準を合わせたもので、上演時間などの制約からミステリとしてはやや小ぶりの感があるものの、劇中に演芸(つまり登場人物が劇中で手品や切り絵の芸をみせる)というメタ演芸(?)のシーンも組み込まれており、そうした観客向けサービス(とはいえ、ちゃんと単なるコーナーではなく、劇中での必然性も考えられている)も楽しませてくれるのである。

 こうした仕掛けというのはミステリに例えれば泡坂妻夫の「11枚のトランプ」とか我孫子武丸の「探偵映画」とかプロットに工夫を凝らした洒脱な技巧派ミステリを彷彿とさせる匂いもあってそういうミステリが好きな私にとってはそれだけでも満足したのである。

 それで考えたのだけど、この芝居ってプロットというかこの構造をそのまま生かして落語家という設定を他のもので入れ換えてもけっこういろいろ応用が効くんじゃないだろうか。もちろん、芝居が学芸会なみじゃ成立しないから稽古に参加してもらわなきゃならないし、そう簡単にはいかないとは思うけれど、落語家を奇術師に入れ換えて泡坂妻夫に出演してもらうとか(笑い)。でもその場合は外枠のキャラも泡坂キャラにしないとだめか(笑い)。

 ボワン先輩(橋本健)、タック(直塚和紀)のコンビは3作目を迎え、ほとんどキャラ自体が乗り移った憑依状態といっていいほどの似合いようであった。大山雪枝役の保谷果菜子、屯村ルリ子役の針屋理絵子もそれぞれ手品、切り絵を見せて奮闘してくれた他、演技面でも好演。キャラクターの対照をうまく出していた。

 次回公演は倉知淳「日曜日の夜は出たくない」を原作とする「163人の目撃者」を上演するとの予告があり、おなじみの西澤キャラが出てこないのは残念ともいえるが、ミステリ劇上演集団としてはまた新たな顔を見せてくれることになりそう。すぐには無理でもぜひ関西公演も実現してもらいたいところなのだが。


  利賀フェスの予習というわけでもないが、「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著、文春新書)、エウリピデス「バッコスの信女」(ギリシア悲劇IV、ちくま文庫)を読んんだ。

 5月2日 映画「タップ・ドッグス」(3時〜、梅田ナビオシネ)を見る。監督はデイン・ペリー。振付家/ダンサーとしてショー「タップ・ドッグス」を95年のシドニーフェスティバルで上演した後、ワールドツアーを行い大成功をおさめ、日本でも97年、98年、99年と3度の来日公演を行なっている。その舞台は工事現場とも見える鉄パイプの枠組みで作られたステージの上をラフな服装にブーツを履いたパフォーマーらが縦横無尽に踊りまわるというパワフルなもので、98年の公演(だったと思う)は実際にこの目で見て、フレッド・アステアに代表されるような洗練されて、優雅なタップダンスのイメージを一変されるその怒涛のようなダンスに圧倒されてしまった。最近ではシドニー五輪の開会式にも後半登場したからそうを覚えている人も多いかもしれない。

 さて、映画「タップ・ドッグス」の方だが、これは実は原題を「BOOTMEN」といいショーであるパフォーマンスをそのまま映画化したものではなく、ちゃんとしたストーリーのある劇映画である。監督のペリーの生まれ故郷でもあるオーストラリアの鉄鋼の町ニューキャッスルの工場地帯が舞台で、そこの工場で働く父親とその2人の息子オグデン兄弟を中心に物語は展開する。そういえば先日見た英国のダンス映画「リトルダンサー」でも斜陽の炭鉱町を襲う不況が物語の背景になっていたが、ここでも同じような不況、リストラの波が物語の重要な主題となっている。

 「BOOTMEN」というのはこの映画の中で主人公であるオグデン兄弟の弟、ショーンが結成するタップグループの名前なのだが、それだけでなく「ブーツの男たち」つまりこのニューキャッスルの町で働く工場労働者たちを象徴する言葉なのだと思う。映画の最後にショーンらが敢行するショーの会場となるのは実際にペリーが若い時に旋盤工として働いていた機械工場で、しかも廃工場として売却が決まっていたのを借りて撮影したというし、この映画はもちろんフィクションなのだがそういう意味では半自伝的な部分もあり、監督の故郷の町と工場に対する思い入れが十分に感じられるからだ。

 そうはいってもこの映画はダンス映画であり、あくまでも素晴らしいのはダンスによってである。特に主役のアダム・ガルシアがいい。やはりオーストラリア出身でペリーの「Hot Shoe Shaffle」のロンドン公演でデビューした後、ウェストエンドの「サタデー・ナイト・フィーバー」の主役で脚光を浴びたというから、ダンスは本業といってもいいが、最後のショーでも登場シーンなどまさにスターの面目躍如といったところである。ひさびさに見た本格的なダンス映画といってよく、大阪では単館上演だけれどダンスファンは必見といってもいいんじゃないかと思う。

 この映画の後、同じナビオシネにかかる「センターステージ」というのもニューヨークのバレエスクールを舞台にした青春バレエ映画みたいだし、最近、けっこうダンス映画って多いような気もするのだけれど、偶然なんだろうか。

  「平成講釈 安倍晴明伝」(夢枕獏著、中央公論新書)を読了。夢枕獏といえば稲垣五郎主演でテレビ放映もされている「陰陽師」シリーズで安倍晴明を描いていることはいまさら説明するまでもないが、「陰陽師」が都で起こる様々な怪異を晴明と源博雅のコンビが解き明かしていくという一種のサイキック探偵譚とでもいうような構成なのに対して、こちらは若き晴明(=尾花丸)を主人公にした冒険活劇もの。講談の速記本を原作に夢枕獏が書き下ろしたものでこれが「陰陽師」シリーズとは全く別物なのだが、これが予想以上に面白かった。講談が原作なだけに荒唐無稽ぶりは「陰陽師」シリーズの比ではないほど出鱈目なのだが、それだけに単純に楽しめる。勧善懲悪だし、悪者はもう悪いし、ちょうど劇団★新感線のようなのりなのである(笑い)。新感線のファンだったらけっこう気にいるんじゃないかと思うから一読してみてほしい。

 テレビシリーズの方はちょうど職場にいる時間帯なので横目で覗いた程度なのだが、稲垣五郎のファンには悪いけど原作のイメージからすればあのキャストはどうなんだろうと思ってしまうのだけれど、こちらの晴明はまだ生意気ざかりの子どもだからキャラも全然違い「ドラゴンボール」や「犬夜叉」の主人公のようなものなのだが、それだけにジャンプあたりで漫画化されたらちょっと面白いんじゃないかと思う。もっとも、この本が単行本として出版されたのは98年4月なので、私が読んだ新書版はつい最近発行されたのだけど続きもでていて、私が知らないだけで漫画化もされてるのかもしれない。とはいえ、カバーのイラストを南伸坊が描いてるので、調べてはいないけれどたぶんされてないと思う(笑い)。

 安倍晴明ものは最近ブームに乗ってかいろんな人が書いているので、ブームの火付け人とはいえ、「陰陽師」と比べるとちょっと霞んでいた印象もあるのだけれど、これには当然、すでに新感線で古田新太が演じておなじみになっている蘆屋道満も敵役で登場するし、いのうえひでのりが芝居にしたら「犬夜叉」以上に面白いと思うのだけどなあ。そういえば「陰陽師」は野村万斎主演で舞台になるんだったっけ。

 

 5月1日 故林広志prd.「漢字シティ2 〜さすぺんす〜」の感想を加筆。

    表紙の舞台写真を弘前劇場に替える。昨年上演された「冬の入口」(長谷川孝治作演出)の舞台写真である。長谷川孝治の四季4部作「夏の匂い」「春の光」「秋のソナタ」「冬の入口」の完結編で、葬儀の後の斎場の控室が舞台となっている。この4部作は「夏の匂い」が病院、「春の光」が結婚式の控室、「秋のソナタ」がホテルのロビーがそれぞれ舞台となり、いずれも「関係性の演劇」=群像会話劇の手法により「人間の生と死」という主題に迫っている。

  写真の左側、後ろ向きのスキンヘッドの奇怪な人物が弘前劇場の怪遊、畑澤聖悟。弘前劇場のもうひとりの劇作家でもあり次回公演となる「月と牛の耳」(6月8日〜10日、下北沢ザ・スズナリ)は畑澤の作演出による新作である。

 CRUSTACEAの舞台写真は消えてしまいますが、今月中に公演もありますので極一部のファンのためにここで見られるようにして置きます。6月以降は個人的にいくつか依頼中のものはあるもののまだ未定なので、引き続き表紙写真を提供してくれる劇団/ダンスカンパニーを募集中です。

 

 4月30日 大阪に戻りイングリッシュ・ナショナル・バレエ「白鳥の湖」(1時〜、フェスティバルホール)を観劇。

 結局、この日も早朝には起きられず新幹線で大阪に戻るが「白鳥の湖」観劇は2幕の途中からになってしまう。そういうこともあって、デレク・ディーン版「白鳥の湖」だが、振付・演出に関する感想は1幕なしではなんともいうことができないので簡単にダンサーについてのみ感想を書くことにする。まずこの日のキャストを書き留めておくと

 オデット/オディール 高橋絵里奈 ジークフリート王子/ディミトリ・グルディエフ ロットバルト/ロバート・マーシャル ナポリ/アマンダ・アームストロング

 まず高橋絵里奈というダンサー。はじめて見たのだが、ちょっと珍しいタイプのバレエダンサーである。黒鳥などを見ても超絶技巧でみせるというのでもないし、妖艶というわけでもない。でもだから魅力に乏しいのかというとなにか幼さを残した部分と大人の色気とがアンバランスに混ざり合っていて、それがなにか王子がふらふらっと迷ってしまいそうだなというどこかあやういのだけど不思議な魅力を醸し出しているのだ。年齢はよく分からないのだけれど96年入団、 2000年12月にプリンシパルに昇格というのだからまだ若いのだろうと思う。王子役のグリディエフはキーロフ出身らしくなかなかにノーブルな王子ぶり。今回は熊川哲也が客演していて、それに注目が集まっているためこちらの座組みは比較的チケットが直前まで余っていて、それで手に入れることができたのだが、ロイヤルバレエなどと比べればスターはいないのかもしれないが、なかなかレベルの高いバレエ団だと思う。それにつけても3幕、4幕の出来栄えがよかっただけに寝過ごしてしまったのは痛恨。 

 4月29日 東京で故林広志prd.「漢字シティ2 〜さすぺんす〜」(7時〜、こまばアゴラ劇場)を観劇。

 ガバメント・オブ・ドッグス以来、日常の中に潜む狂気などで引き起こされる不条理な笑いを純度高く抽出するようなコントを得意としてきた故林広志であるが、今回が2回目となる和風スケッチ集「漢字シティ」では従来の故林テイストが色濃くでている「当時はポピュラー」「親族代表」などの公演とは一線を画して、普段は笑いとは直接は結びつかないのような芝居に出演している女優をあえて客演してもらうことで、それまでとはちょっと違った風味の作品に挑戦している。

   このシリーズは昭和の初めころを想定した自然が残る古い街が舞台。コントユニット親族代表のメンバーでもある竹井亮介が演じる作家、柳泰山と女中のさち(三谷智子)をレギュラーに毎回それにからむ編集者や女性たちを外部から招いて構成している。女優たちに振り当てられる役柄は日常から少しずれたあるいは完全にはずれたアウトサイダーであることが多く、それゆえ今回参加している女優らも桃園会の藤野節子、桃唄309の坂本絢、ポかリン記憶舎の佐々木陽子と笑い系の劇団ではなく、緻密に構成された戯曲に基づいた芝居の中で微妙なニュアンスが表現できる女優を集めている。上記の3劇団はいづれも私が高く評価してきた劇団であり、その中でもこの3人の女優はその芝居の中でも等身大以外の非日常性を含んだ役柄を体現できる女優たちであり、東京までわざわざ行こうという気になったのはもちろん故林の才能を以前から買っているからではあるが、さらにいえば今回のキャスティングの面白さに強く引かれたからでもあった。

 和風スケッチ集と銘打っているように構成は1本のストーリーではなく一応、オムニバスの形態を取ってはいるのだが、今回は「えぴろうぐ」を除くとそれぞれの演じる登場人物がほぼ固定しているのに加え、後の方の作品の伏線が前の方の別のエピソードで張られているということもあり、ゆるやかにつながれた1つの物語の印象が強くなっている。

 演目は「ぷろろうぐ」「見覚えのある顔の話」「洗濯物が乾くまでの話」「お香の話」「谷あいの岩の話」「契約の話」「宿の夕食の話」「えぴろうぐ」の8つのエピソードから構成されている。故林の作品ゆえ、笑いというのはこの公演においても重要な要素であることは間違いないのだが、単純な落ちのある作品というのは「えぴろうぐ」ぐらいで、後の物語は最初は不条理な状況と遭遇する2人の男(作家と編集者)の困った様子に単純に笑っていてもその置かれた立場がしだいにはっきりしてくると怖さがその背景からにじみでてくるような構造を取っている。

 円朝の「牡丹燈篭」を持ちだすまでもなく古典落語に多くの怪談話が含まれているように笑いと恐怖というのがどこかで通底しているのは間違いないと思うが、そういう意味では今回の「漢字シティ」は「さすぺんす」という副題からも分かるようにいくつかのエピソードで笑いはそれ自体のためでなく、最後にそこから見えてくる化物の存在を際立たせるための道具として使われている感も強い。

 特に後半の「谷あいの岩の話」「契約の話」「宿の夕食の話」はいずれも考え落ちのある怪談といっていい。ガバメント時代だったらアッチャマンがやっていただろうような分かりやすく変な人が出現する「谷あいの岩の話」はまだしも、「契約の話」は昔から知っていた未亡人(佐々木陽子)から相談があるというので、彼女が自殺するのじゃないかと心配した作家が出掛けてみるとその未亡人は不老不死の化物だったといういう話だし、「宿の夕食の話」は外国人の女性の女将(坂本絢)が経営する旅館の名物料理が実はという江戸川乱歩が「奇妙な味」と名付けた系譜の物語。それだけにことこの作品については故林作品=笑いと思って見に来ると当惑してしまうのではないだろうかと思う。

 なおこの日手に入れた故林広志の個人フリーペーパー「薄い故林」によれば故林広志プロデュースは故林広志prd.に団体名・表記を一新したらしい(笑い)。