国立国際美術館でついにヤノベケンジ近作展 MEGAROMANIA」を見る。ある人に現代美術のことについてどんなものが現代美術とみなされるのだとか、逆になにがみなされないのかなどと事細かに聞き出していたら、「そんなことを言ってないで見にいってください」と言われてしまった。「うーん」、それはその通りなのだけれど、私が興味をより持っているのは現代美術そのものよりも(もちろん、それにも興味はあるのだけれど)、現代美術がよって立つ基盤の前提なのである、つまり、現代美術のそれぞれの個物の作品がそのフィールドの内部の人に取ってどのように語られ、位置付けられているのかについて知りたいのである。
 ヤノベケンジの展示自体は平日の昼間に行ったこともありなんとなく閑散とした遊園地をひとり回っているようなわびしさのようなものがつきまとった。展示物の造形自体はけっこう馬鹿馬鹿しいヘタウマ系のもので、廃墟の未来というイメージからすると造形自体のインパクトがそれほど圧倒されるほど強く迫ってくるというわけでもない。この人もどちらかというとコンセプトが面白いタイプであるような気がする。アトムスーツ、アトムカーともにハイテクというよりはローテクの固まりのようなショボさで、もちろんこれは貶しているわけではなく、そのショボく情けない感じの例えば「アトムスーツ」を来たヤノベがチェルノブイリまでわざわざ出掛けていって、そこで写真を撮ったり、現地の人と交歓したりしている写真を見ていると、本人の意図をどこまで反映しているのかは不明だが、その情けなく、ショボい感じに思わず笑ってしまうのだ。