「ドイツ現代写真の現在 かわりゆく『現実』と向かいあうために」

「ドイツ現代写真の現在 かわりゆく『現実』と向かいあうために」京都国立近代美術館)を見る。
 ベッヒャー夫妻とその弟子たち、さらにその後の新世代の作家たちを紹介したドイツ現代写真展。昨年東京でやっている時から楽しみにしていて、京都にやって来るのを心待ちにしていたので、1人当たりの点数がそれほど多くないということもあって、面白かったかと聞かれれば面白くはあったのだけれど、ちょっと物足りない気もした。
 ティルマンスの展示なんかは昨年、東京で見た回顧展よりは落ちるのは仕方ないにしても、金沢21世紀美術館のオープニングの美術展での展示と比べてもあきらかにしょぼかったしなあ。どうやら、ティルマンスの作品は京都国立美術館も購入していたらしく、この日の本展示とほぼ同じ作品がそちらの方にも重複して展示されていたのには思わず笑ってしまった。
 個々の作家ではまずアンドレアス・グルスキーがよかった。いくつもの柵に区切られた巨大な牛の飼育場を撮影した「グローリー」、2枚組みの巨大な写真「香港証券取引所」。壁いったいほどに引き伸ばされた写真から読み取れる異常に細かいディティールは見ていてある種の眩暈感さえ、私に起こさせるほどなのだが、この写真の巨大な実物の持つ異様な感じは絶対に写真集などでは味わえないもので、これを見られただけでもここに来てよかったと思わされた。
 また、ロレッタ・ルックスの作品もちょっと変わった感覚の作品。今回展示されていた作品はすべて子供のポートレイトであるのだが、コンピューターで合成されて処理されていると思われ、そのプロポーションは多くの場合、頭部が身体のほかの部分に比べて少し大きく、「子供らしさ」を強調されている印象を受ける。そして、そのアンバランスなところが見るものにどこかで危うさや、不安感を与えるのだ。それが不可思議でちょっと忘れがたい印象を残す作品であった。惜しむらくはこれも点数が少なくてもう少しいろんな作品を見たいと思わされた。
 

ロヲ=タァル=ヴォガ 「Ato-Saki」

ロヲ=タァル=ヴォガ 「Ato-Saki」(アートコンプレックス)を観劇。
脚本・演出・音楽/近藤和見

 ロヲ=タァル=ヴォガはともに維新派出身の草壁カゲロヲと近藤和見が結成した集団。これまで吉田神社での野外劇公演「葉洩れ陽のジギタリス」やOMSでのパフォーマンス公演「数独I〜Phenomenon〜」、会場を変えて関西10ヵ所での公演を行った【 isotope 】などを見たことがあるが、今回の舞台は映像やパフォーマンスを多用してはいるが、この集団のものとしてはきわめて演劇色の濃い舞台であった。
 全体としてはいろいろ課題も残してはいるが、アートコンプレックス1928の特異な空間をうまく生かして、照明、美術、映像、生演奏の音楽をうまく使いながら、まるでタブローを見せるかのような絵画的な場面をテンポよくつなげて、場面構成していった前半部分の演出はなかなか面白かった。
 ロヲ=タァル=ヴォガの場合、維新派の看板として一時代を築いた草壁カゲロヲの存在は大きなものがあって、これまで見た舞台ではともすればその個人的な存在感に寄りかかってやっと舞台が成立しているという状態が多かったのだが、今回の舞台では冒頭に登場して以来、草壁カゲロヲは後半、戦地から復員兵として戻ってくるまで登場しない。その間をキャリアの浅い俳優らのアンサンブルによって、演出的な仕掛けを織り交ぜながらも持たせていたのは集団としての進歩といえるかもしれない。 
 これを可能にした舞台美術、照明、音響、映像をはじめとするスタッフ陣の総合力とそれをたばねた近藤和見の演出力には会話劇中心の関西の小劇場ではなかなかない底力のようなものを感じた。
 ただ、この舞台にはいくつかの問題点もあった。最大の問題は戯曲においての詰めの甘さであろう。例えば2人の人物が乗り合わせる車窓の場面があって これはシーンとしては面白く、印象に残る場面なだけに余計に目立つのだが、この場面と物語の中心となる草壁カゲロヲ演じる南方の戦地から帰ってくる男の話との関連性がなく、これがなんの場面なのだか全然分からないこと。舞台の流れからするとこれは重要なシーンで最後にはこれが他の物語とつながって収れんするのだろうなという予想のもとにこの場面を見ていたために舞台の最後になってそれをそのまま置き去りにして舞台が終わってしまったことで、強い肩透かし感を受けた。
 取り扱った戦争という問題に対する批評的な切り込みの浅さも問題ではある。ただ、見終わっての印象ではこれは戦争を扱った反戦劇というよりはあくまで太平洋戦争は素材で、死者の思いが魂を故郷に戻らせた幽霊譚の色合いが強い物語で、よくも悪くもセンチメンタルな古風な筋立てをそのままやるとすごくべたで恥ずかしいものになりかねないところを現代演劇のさまざまな手法を駆使することでダサかっこいい的テイストで料理していくミスマッチ感覚がロヲ=タァル=ヴォガの持ち味といえるかもしれない。
 その一端を担うのがアンサンブルでの身体表現なのだが、この部分では今のところ維新派でつちかわれたメソッドの影響が非常に強い。ただ、これは「キートン」などに代表される最近の維新派の方向性とははっきりと異なるので、カゲロヲらが在籍していた少し前の維新派ということになる。
 この部分に関していえば「維新派の真似でオリジナリティーが全然ないじゃないか」という意見も聞いたし、それはうなずかざるをえないところもあるが、ロヲ=タァル=ヴォガは一昨年ここで上演された【 isotope 】の直後に主力の俳優が大量に離脱するという存亡の機を経験しており、今回の公演では「原点に戻る」というのが集団としての1つのテーマだったらしいので、ここから再スタートしてどういうものが生まれるのかについて、もう少し待ちたい。
 少なくとも今回の公演は現時点でのさまざまな問題点を露呈しながらも次への期待を抱かせる可能性は見えた舞台ではあったと思う。  

山本太郎*1+樋口賢太郎「二人の太郎は同じ初夢を見るか?」

山本太郎樋口賢太郎「二人の太郎は同じ初夢を見るか?」(neutron)を見る。
「ニッポン画家」山本太郎と、東京のイラストレーター ・デザイナーの樋口賢太郎の二人の「太郎」による2人展。
山本太郎日本画ならぬ「ニッポン画*1」を提唱するアーティスト。

「ニッポン画」とは
一、今現在の日本の状況を端的に表現する絵画ナリ
一、ニッポン独自の「笑い」である諧謔を持った絵画ナリ
一、ニッポンに昔から伝わる絵画技法によって描く絵画ナリ

 最初に見たのは昨年のやはり1月に移転前のneutronでやっていた展覧会で、会場には左に松、右に桜(のように見えたけど梅だったかも)、背景に紅白の幕をあしらった屏風絵があって、 最初はなんだかよく分からなかったのだけれど、左上方を凝視するとなぜだかそこには青地に白い星の模様が……紅白の式幕に見えたのは星条旗(アメリカ国旗)だったのである、というような作品が「ニッポン画」なのである。その時に気になったのでその後、立体ギャラリー射手座で開催された個展も見に行き、今回が3回目ということになるのだが、そのほかに残念ながら会期が短くて見られなかったのだが、自らのキュレーションで「日本画ジャック」という新しい日本画の流れを紹介する企画展も開催するなど刺激的な活動を行っており、年末回顧では取り上げなかったが「展覧会の穴」の木内貴志と同様その笑いに悪意を感じるという意味でも注目のアーティストなのだ。
 いわば「日本画」のパロディではあるのだが、それをあえて、伝統的な日本画の技法にもとづいて製作し、このサイト*2でのニッポン画マニフェストのようにむしろこちらの方こそ形式だけを守っている現代の日本画ではなく、日本の伝統的な絵画の精神を受け継ぐのだといわんばかりの意気軒昂さが小気味よい。
 もっとも、今回の2人展「二人の太郎は同じ初夢を見るか?」は以前からの友人でイラスト・デザインの方から「現代と日本」に迫る樋口賢太郎との競作により、微妙なラインで「日本ってなに」を考えさせる内容になっている。作品はそれぞれ1点ずつで、屏風状に2枚の絵がつながって1枚の絵に見えるようなものとなっているのだが、2人の描いた絵はまったく同じ構図。向かって左側にテレビ台の上にテレビが置かれ、その上には鏡餅、右側のほうには棚があって、そこにはミカンやなにかかや細かいものがごちゃごちゃ置かれていて、典型的な正月の日本のお茶の間の姿が再現されている。
 面白かったのは2人の技法の差もあるのだけれど、2人の絵ではどちらもほぼ同じ場所には同種のものが置かれていて、それが2枚並べて見ると対比できるようになっているのだけれど、中央の床に龍の置物、棚の上には急須と湯飲み茶碗というように日本特有のものが置かれている山本作品に対して、樋口賢太郎作品の方は山本作品が龍のところはカメレオン、急須の代わりにポットと日本の家庭でよく見るものではあるが、私たちが普通、日本的とは考えないものばかりが置かれている。ところが全体を眺めてみると日本的と明らかに思える要素はテレビの上の鏡餅と棚の上のミカンぐらいしかないのにもかかわらずなぜか全体の印象は現代日本の日常を強く想起させるものとなっていて、これはどういうことなんだろうと考えさせられた。