チェルフィッチュ岡田利規のレクチャートーク

 チェルフィッチュ岡田利規さんが「第3回 大谷能生フランス革命」というレクチャートークに参加していた時の模様を「103」さんのサイト*1が完全収録*2していて、これが物凄い労作。内容も非常に興味深いのだが、レクチャーというか対談の前にデモンストレーションとして、参加者の前で実際に稽古を再現してみせたみたいなのだが、その時の細かいやりとりが、テープ起こしされて、全てウェブ上に再現されていて、私も以前のサイトでインタビューや対談をテープ起こし、したことがあるから分かるのだが、いまそこにいるように息遣いが聞こえるような感じというか、ちょっと参りました。
 大谷能生さんという人はミュージシャンでこのサイトでも最近、言及した、「東京大学アルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編」(菊地成孔, 大谷能生著)という本の共著者なんだけれど、「大谷能生フランス革命」というのは音楽とかアートとかとは関係なくて純粋にフランス革命についてのレクチャーみたいなものなんだろうと考えていたので、それに岡田さんがゲストででるっていうのがどういうことなのか、ピンとこなかったのだが、このサイトを読む限りではどうやら全然そういうものじゃないみたいだ(笑い)。
 後、個人的にすごく興味深かったのは対談の途中で大谷能生さんが90年代ぐらいから開始された即興音楽家たちの実験*3について説明していて、それがチュルフィッチュの演劇としての実験性とどこかで問題意識がリンケージしてるんじゃないかというようなことを語っていて、シンクロニシティというか、最近自分がダンスについて考えていることと微妙に重なりあっているようなところがあって、凄く刺激的であった。
 もっとも、音楽でも美術でもダンスでも演劇でも少なくとも現代アートであるかぎりにおいては、そのジャンルの歴史性のなかから生まれてくる制度性(クリシェ)を分析して、そこに陥らないようにするための戦略を徹底的に吟味していくことでしか、新たな地平は生まれてこない、そこにこそ現代芸術の意味はあると私は思っているので、それは当然の帰結といえなくもないのだけれど。ただ、最近もうひとつ考えるのはすべての芸術が現代芸術じゃなくてはいけないのかという問題で、先ほどの考え方からすれば現代芸術以外に価値を認めないというのもひとつの立場ではあるけれど、そこで零れ落ちてしまう豊穣な鉱脈もあるんだろうなと考えてしまうのも最近の悩みの種ではある。

*1:http://d.hatena.ne.jp/note103/20060131

*2:http://www.geocities.jp/television2nd/index-home2.htm

*3:専門家ではないので勘違いがあるかもしれないが、たぶん、1月23日の日記http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060127に書いたノンイディオマティック・インプロヴィゼーションと関係しているんじゃないかと思う