「カント 世界の限界を経験することは可能か」

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

 カントという哲学者の思想を理解することが、西欧哲学を理解するうえで欠かせないとは以前から感じていた。しかし、これまで彼の著作を拾い読みしたことは何度かあっても、その主要著書を理解した(あるいはだいたいこういう趣旨のことを言っているのだろうと了解した)というレベルまで読み込むことは私にはなかなか難物だった。この本はカントの思想について簡潔に紹介した解説書といっていいと思うが、ここからでもカントの思想がその後に登場する現代思想において重要な思想家(ヘーゲルフッサールハイデッガー)への十字路に位置していることがよく分かる気がした。
 もっとも、それ以上に興味深かったのは西洋思想史において孤高の思想家として紹介されることの多い、ウィトゲンシュタインがつい最近、「論理哲学論考」を読み直した目でこの本を読むと、カントとウィトゲンシュタインの思想の近親性というか、思想の枠組みの構造が瓜二つのものとして見えてきたことだ。
 つまり、ものすごく乱暴な言い方をすればカントの思想の枠組みにおいて、「理性」に該当する部分を「言語(命題)」に置換したのが「論理哲学論考」だったのではないかということだ。
 原著作、つまりカントの著作自体を読んだ上で厳密に検証してみなければなんともいえないところがあるけれど、少なくともこの本から判断する限りでは例えば「無限を実無限ではなく、反復的な操作の可能性(可能無限)によってのみ考えられる」としていることや、「形式をア・プリオリなものとして経験に先立つもの」としている点などだ。
 大きな違いはカントが人間理性の限界を問うのに対して、ウィトゲンシュタインはそれを問いうるのは問題を認識や理性などというはっきりしないものから、言語化(命題化)しうるものへと言語を媒介にしてパラフレーズした場合にのみそれが問いうるということを前提にしたことで、それはおそらく、ウィトゲンスタインがカントに代表される西洋観念論哲学の誤りは「言語にとっては無意義な問いを問おうとしたことにある」と考えていたかであろう。
 後期の思想においてウィトゲンシュタインは「論考」における「命題理論(あるいは「写像理論」)」を放擲するが、彼の哲学が言語に関する哲学であるという点においては首尾一貫していた、と思われる。