平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」@京都芸術センター

脚本・演出/平田オリザ/演出助手:谷賢一/出演:ブライアリー・ロング(青年団)/ アンドロイドの動き・声:井上三奈子(青年団)/舞台監督:尾崎聡/テクニカルアドバイザー:石黒浩大阪大学ATR石黒浩特別研究室)/美術:杉山至/照明:岩城保/衣装:正金彩/制作:野村政之/ロボット側ディレクター:力石武信(大阪大学石黒浩研究室)、小川浩平(ATR石黒浩特別研究室)/製作:大阪大学石黒浩研究室、ATR石黒浩特別研究室、(有)アゴラ企画、青年団/音響協力:富士通テン(株)/主催:KYOTO EXPERIMENT

 大阪大学石黒浩研究室(ロボット学研究)と劇作家・演出家の平田オリザの共同プロジェクトがアンドロイド演劇「さようなら」である。昨年夏のあいちトレンナーレで初演され、その後、各地を巡演しているが、私は昨年11月にフェスティバルトーキョー10で初見、今回のKYOTO EXPERIMENTでの上演は2回目(フェスティバルトーキョーでは2度見たのでステージ数としては3回目)の観劇となった。
 アンドロイド演劇と銘打っている通りに「さようなら」は石黒教授が開発した人間そっくりのアンドロイド、ジェミノイドFが出演し、これが人間の俳優を共演する2人芝居である。
 上演時間は15分程度と短い。それもあって、これを単なる演劇作品という風に考えると物足りない。見終わった後の感想は最初のアンドロイドが照明のに浮かび上がって見えた時には「これがそうか」と少しの驚きはあったものの、芝居自体はあっけなくて「もうこれで終わってしまうの」という感じであった。
 ただ、この公演では2回あった上演のいずれもアフタートークがついていて、ここで作り手側のアンドロイドについての話が聞ける。これはどうやら最近の上演ではトークと上演を組み合わせる方式がかならず組になっている。実はこれが決定的に重要なのだ。短いため、単独で演劇公演としてお金をとって見せるのは難しい事情もあるだろう。実はフェスティバルトーキョーでは公演をはしごせねばならずにトークの部分を聞くことができずに今回初めてトーク(私が見た回は石黒浩氏が登場した)まで合わせて聞いた。その結果、分かってきたのはアンドロイド演劇というのは単に「アンドロイドが登場する演劇」という見世物的なものというのではなく、一種の思考実験。アンドロイドと人間の俳優が同じ舞台に乗って共演することで、私たちが通常無意識である他者に対する認識のあり方について考えさせるものだということだ。さらにこれは平田が考える演劇という仕掛けの見事なプレゼンテーションにもなっていた。
 もう少し具体的に説明しよう。詩を読むアンドロイドと死に至る病に侵された少女の物語。「死すべきもの=人間とそうでないもの=アンドロイドの交流を通じて短い上演時間の間に私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる」。といえば通りはいいが、物語自体は正直言ってステレオタイプだ。SFにはありがちな設定でしかない。石黒の製作したアンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。ちょうど、ロボット演劇「働く私」がそうであったようにアンドロイドはアンドロイドを、人間は人間を演じる。
 どういうことかというと「さようなら」に出ているアンドロイドは人間として出てくるのではなく、アンドロイドとして登場する。それは病気の少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、自分のデータベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するいう機能が付与されている。
 最初、「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女を凝視するが、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりする。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではない。必要があればもう少し人間と誤認させるように登場させることも可能なのだろうが、意識的にそうしてないんだろうということが了解されてくる。 
 例えばアンドロイドの声は本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ロボット演劇「働く人」においては「ロボットはよりロボットらしく」という演出をしてみせたが、それはここでも同じなのだ。
 ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛けの人形のようであったこのアンドロイドが少女との会話を通じて、まるで実際に意識や内面を持ち人間同様に生きているように見えてくるのだ。ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女がアンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。 
 平田オリザの演劇を私が以前に「関係性の演劇」と名付けたのは平田の演劇が現代口語の会話を通じて、登場人物相互の関係性を浮かび上がらせるからで、そこで実際に生きた人間がリアルに存在するように見えるのはその関係性が現実生活において私たちが経験している関係性を反映しているためで、実際には不可視である登場人物の内面のためではない。
 逆に内面などは見えないのだからあってもなくてもいいのだ。これをもって挑発的な表現として俳優をロボットや駒のようなものと例えたのが平田の演劇論だが、このアンドロイド演劇ではもちろんアンドロイドは一種の操り人形のようなもので、内面などないことは明確だから平田が以前語っていたことの証拠としては十分であろう。つまり、私たちはいわば幻というか幽霊のようなものといっていいが、関係性の中に実際には目に見えない意識や内面を見て取るのだ。
 ところでよく考えてみるとこれは実はアンドロイドだけに該当するわけではない。この舞台に登場している俳優にも該当する。俳優についても演じている俳優は役柄の少女の内面が実際にあるわけではなく、脚本と平田の演出というプログラムに従って動いており、そこに差はない。もっとも、アフタートークで説明されたようにこのロボットは実際には舞台の裏側の俳優が遠隔操作しているので、いわばその俳優の「アバター」のようなものと考えることもでき、ますますその間には差がない。
 平田が現在すぐには無理だが、いずれは俳優をアンドロイドに置き換えることも可能だとしているのはそのためだ。