「ソウル市民」3部作

平田オリザによる「ソウル市民」3部作は非常に興味深い舞台であった。この3部作はそれぞれが独立した作品でありながら、あきらかに同一の形式(最後に明らかに不条理なことが起こって終わることなど)が変奏を加えながら反復されるという特異な構造を持っている。そして、その形式性がちょうどクラシック音楽における交響楽がそうであるようにそれぞれ独立した音楽としてのまとまりをそれぞれの楽章が持っているのにその形式がひとつのかたまりとしての一体感を与えるというような構造を持つ、ここにこの3部作の大きな特徴があった。
 平田オリザの舞台の多くは過去あるいは未来のどこかの瞬間のうちのその対象がもっともビビッドに切り取れる象徴的な1時間強をリアルタイム(つまり実上演時間とその出来事が起こった時間にずれがない)によって提示するという構造を持っていて、それは歴史の流れのような通時的なものではなく、歴史から見れば瞬間にすぎないその1時間を輪切りにすることで、その対象の事物の共時的な構造を拾い上げることにある。
 ところがこの3部作をひとつの作品という風に考えると、それぞれ10年の時をへだてた3つの時を併置することで、従来の平田の方法論ではすくい取ることが難しかった歴史の流れのような通時的な時間を舞台上で提示することが可能となり、その新たな枠組みによって、平田が以前からライフワークとして取り組んできた、朝鮮半島における日帝36年とはなんだったのかという謎に迫る刺激的な試みであった。
 ソウル市民3部作は、最初の「ソウル市民」が日韓併合の前年である1909年、2作目の「ソウル市民1919」が「三・一独立運動」が起こる1919年、そして最後の「ソウル市民 昭和望郷編」がウォール街の大暴落により、世界同時不況が引き起こされ、世界が戦争へと突き進んでいく1929年。いずれもソウル(当時は京城)に住むブルジョアである篠崎家のある1日の午後の日常風景が一場劇の形式でほぼリアルタイムで描かれる。
 冒頭でこの3部作を交響楽に例えたが、まず登場する第一主題が「差別」についての主題である。舞台となる篠崎家は文房具を商う篠崎商店を経営する比較的豊かな商家である。そこに住んでいるのは軍国思想に凝り固まったというのではなく、当時としては開明的な思想の持ち主である家族である。「ソウル市民」3部作では「差別は悪いことだ」ということを自覚している(つもり)の善意の人物たちが登場するのだが、ステレオタイプな悪意や偏見にもとづく差別を描写するのではなくて、善意の人たちのなかに潜む無意識の差別の構造を会話のなかに散りばめていくことで、平田は「差別するのは悪いことだからなくそう」などという単純な善意では解決することができない根深い差別の構造を淡々と提示していく。
 この差別の構造は平田の演劇のなかではある日の午後の茶の間(中央にテーブルが置かれた洋間ではあるが)の2時間弱の時間という歴史の大きな流れから見ればほんの一瞬といっても過言ではない短い時間のリアルタイムの切り取りにおいて示される。この芝居では篠崎家の人々以外にもそこに居候している書生や篠崎家に出入りする取引先の人間、ここで働く女中たち(そのなかには日本人と朝鮮人がいる)といったそれぞれ階級や出自の異なる複数のサブグループが登場し、彼らが交わす会話のなかからその複雑な関係性を浮かび上がらせていくのが、平田の方法論である。「対象の事物の共時的な構造」と冒頭に書いたのはそういうことであり、もちろん最重要な主題ではあるが、「ソウル市民」を単独で見た時にはワン・アンド・オンリーに見えた「善意の日本人たちのなかに潜む朝鮮人への無意識の差別の構造」というのも実はこの芝居を通じて平田が提示したさまざまな関係性のうちのワン・ノブ・ゼムであることが、3部作を通して見ると逆に浮かび上がってくる。
 そのひとつが経済の問題。これがこの物語の第二主題といってもいい。この作品の着想の下敷きとなったのはトーマス・マンの「ブッテンブローグ家の人々」だというのは平田自身が明らかにしていることでもあるが、マンの小説と平田の3部作が共通して描いている主題は旧世代ブルジョアジーの没落である。第1作である「ソウル市民」にも実は日本人、朝鮮人の女中とその縁談の話題などを通じて、実は「日本/朝鮮」の問題以外に「階級」の問題はそれとなく提示されていたが、この問題は3作目の「ソウル市民 昭和望郷編」においてより大きな問題としてクローズアップされてくる。
 1909年の「ソウル市民」では書生に社史を書かせようとするなど、豊かさを享受していた篠崎家の事業はその20年後の「ソウル市民 昭和望郷編」では旧来のノレンの力だけでは立ち行かなくなり、もはやここでは商売が崩壊寸前で、長女との政略結婚による株式投資をなりあいとする新興資本家からの援助に最後の望みを託すのみという状態となっている。さらに青森の富農から嫁に来ている佐江子らとの会話を通じて、平田は朝鮮半島のみならず日本の地方における農民の疲弊と満州での移民の増加など、ここで平田は朝鮮、満州の植民地支配にかけざるをえず、やがては泥沼の戦争に突入していく日本の国内の経済的な苦境もそれとなく提示してみせる。あるいは元書生の朝鮮人でいまは朝鮮総督府に勤務し、ひそかに篠崎家の長女に思いをよせる李齊源という「桜の園」のロパーヒンを思わせるような人物さえ登場させる。
 平田の芝居のもうひとつの特徴はミニマルな集団の関係性がより大きな状況の関係性のいわば縮図として、メタフォールな関係を提示していくことで、その意味では経済的な関係を含め、ここで提示された篠崎家の状況というのは朝鮮、満州と植民地の拡大にその命運をかけざるえない当時の日本の似姿ともいえそうなのだ。植民地主義の悪を理念の問題としてあげつらってみても、この問題が容易に解消されないのはその根底には経済の問題があるからだということを短い作品のなかで平田はさりげない筆致で鋭く提示してみせる。
 そして最後にこの3部作が平田作品のなかでも特異な存在であるのは「ソウル市民」の奇術師、「ソウル市民1919」のインチキ相撲取りと全体としてはリアルなタッチの作品のなかにそうぐわないような奇妙な人物が登場し、しかも物語の最後で謎の失踪を遂げることだ。実はこうした奇妙なキャラクターや不可思議な現象は平田の初期作品ではよく現れ、それは「ここで起こっていることはリアルなように見えても現実ではありませんよ」というひとつの符丁のような役割を果たしていた。しかし、最初の「ソウル市民」はともかく、その形式を踏襲した「ソウル市民1919」、さらに今度は人物の失踪ではなくて、その逆。ひとりのはずの看護婦が2人に増えてしまうという
「昭和望郷編」を考えるとそこには明らかに「現実ではないことの提示」以上のなにかの意味合いが込められていることは明白である。
 その目的のひとつは冒頭で書いたように同一の形式が変奏されながら反復されることにより、それぞれ独立した作品でありこの三部作に統一された大きな構造を構築するという作劇上の仕掛けをつくるということであろう。さらにこの謎めいた人物の失踪ないし、増幅には当時の朝鮮半島の不条理な状況を象徴するかのようにリアルな筆致で描かれた物語に「そこはかとなくただよう不安な気分」を与えるという効果もある。
 ただ、ここにはそういう作劇上のテクニックだけではないメタフォールな意味合いが込められているのではないかという気がしてならない。残念ながら現時点ではそれがなんなのかが判然としないのだが、そこにはこの三部作に平田が託した「隠された謎」が仕掛けられている気がして、それはもう少し時間をかけて考えてみないといけないと思っている。 
 最後に平田は今回の上演を三部作による「ソウル市民」の完結編と位置づけているようだが、三部作を続けて見た印象からいえば「必然的に本来この後に書かれるべき最後の作品があるのではないか」という予感めいたものを「昭和望郷編」から感じた。実は「昭和望郷編」の篠崎家の三人の姉妹と長男の真一の関係にチェホフの「三人姉妹」めいた匂いを感じたということもある。
 そうだとすると次の作品はこの篠崎家の最終的な崩壊の最後の1日を描き出す、平田版「桜の園」となるのではないか。それは長女、寿美子を巡る物語となり、そこには李齊源がロパーヒン的な役割で絡んでくるかもしれない。ここまで書くと これは劇評というよりは妄想の類に近くなってきたが、こういう妄想を抱かせるのは平田がここで行ったことが「桜の園」に喜劇と位置づけたチェホフの問題意識と確実に通底するものを悲劇的な時代の日常を軽妙な筆致で描いて見せた平田の作劇のタッチに感じたからでもある。