ポかリン記憶舎「煙の行方」

 90年代半ば以降の日本現代演劇を振り返ると群像会話劇の形式でその背後に隠れた人間関係や構造を提示する「関係性の演劇」が大きな流れを作ってきた。平田オリザ岩松了宮沢章夫らがその代表である。2000年代以降それを凌ぐ大きな流れをつくっていくのが「存在の演劇」である。「舞台上の俳優ならびにその関係性が醸し出す空気をただ見せていく」というもので、明神慈もそのひとりである。
 微妙に現実からずれた世界。まったくの異世界ではなくて、微妙な距離で現実との接点を持っている世界を描き出し、そこから醸し出される「そこはかとない空気のようなもの」を観客に共有させる。彼女はそれに「地上3cmに浮かぶ楽園」と名づけた。この芝居では台詞と台詞の間には非常に長い間(ま)があって、台詞以上にその間の台詞のないところでの俳優の演技が重要な意味を持つ。時には間と間のあいだにポツリポツリと台詞がおかれ、その中には極端に長い間もあり、それがスタイルの特徴をなしている。
 多くの場合、語られるのは「異界との邂逅」であり、それは近代会話劇というよりは能楽やバレエのような古典劇との近親性を感じさせる。演出的にも世阿弥の複式夢幻能に近い劇構造を持つのだ。「回遊魚」において非日常的な身体を具現化する実験が試みられたことにより、明神慈は群像会話劇のスタイルから様式化された身体表現へと大きく舵を切った。「舞台上の俳優とその関係が醸し出す空気をただ見せていく」(=「存在の演劇」)という新たなフィールドを想定し、そこに補助線として明神を置き、太田省吾の沈黙劇へのベクトルを引いた時にそこに新たな演劇の地平が立ち現れてきた。ここに明神の作家としての重要性がある。
 「悲劇喜劇」2001年10月号の「明神慈論」において「回遊魚」という舞台を取り上げ、ポかリン記憶舎のことをこのように書いた。実はこの時の文章は半ば予言的な意味合いも含めて書いたのだが、今回京都の須佐命舎で上演された「煙の行方」という舞台を見てあらためて、この文章を読んでみると、その時にはまだ開かれつつある可能性でしかなかったことがこの空間において見事なまでに具現化している。それは確かにこの5年間の明神の確かな歩みを表していた。
「煙の行方」は日舞の教室の待合室が舞台。部屋のまんなかあたりに金魚の入った水槽が置かれた机が置かれていて、ここに入れ替わり立ち代り、浴衣姿の女たちが現われて、火照った身体を休ませながら、ぽつりぽつりと会話を交わす。暑い夏の雰囲気を持った芝居で、その意味でも京都での夏公演に相応しいものだった。
 冒頭の文章で取り上げた「回遊魚」という作品を終えた後ぐらいから、明神は本公演のほかに「和服美女空間」という台詞はほとんどなく、和服を着たパフォーマーアンビエントな音楽のなかでただ漂い浮遊するような姿を見せていくパフォーマンス色の強い公演を開始したのだが、そこで試みられたポかリン記憶舎ならではの「和装の身体」の追求はこの「煙の行方」において、その極端に長い間の台詞と台詞のあいだを埋める身体表現としてそころどころで挿入され、渾然一体の妙味を感じさせた。身体表現とは書いたが、明神の見せるそれは立つ・座る・歩くといった着物を着ての所作を基本としたシンプルなもので、コンテンポラリーダンスのような動きでもないし、舞踊劇である歌舞伎や日舞の所作とも異なる。ただ、そこにはシンプルだからこそ美しいという立ち振る舞いの原点のようなものが提示されていて、そこには明らかに日舞とはまた違う新たな和の美を提示しようという明神ならでは美意識が隅々まで貫かれている。
 「煙の行方」は明神慈の脚本としては台詞のやりとりが笑いを引き起こす場面もあるなど、会話劇の色合いが強いものではあるが、そうした女の子同士の一見たわいのないやりとりの背後で提示されるのは「微妙な距離で現実との接点を持っている非日常」でそれを象徴させる存在が芝居の後半で登場人物たちによって、とりざたされるこの屋敷に住み着いているらしい「(座敷)わらし」と少し前に亡くなったらしい「日舞の先生の夫の霊」の存在である。
 こうした異界のものたちは俳優のだれかがその役柄を演じるというような形で私たちの前に実際に姿を見せることはないのだが、4人の女優たちがここで作り出した「そこはかとない空気」のなかに確実にその気配を顕すのだ。
 そして、日常から離れて、「舞台にそれがいるかもしれない」と観客に思わせる空気を構築していくのが、台詞の調子ひとつ、俳優の細かな動きにまで計算をしつくし、構築した、隙を見せない明神の演出が生み出すイリュージョンである。
 今回の舞台では会場となった須佐命舎という場所の面白さも明神が作り出した「不思議空間」に「そこだけが持つ場の力」により興趣を添えた。普段、和装関係の展示などに使われているというこの場所を公演の場として選んだ明神の慧眼ぶりには感心させられた。舞台奥にはガラス戸を通して、中庭が見えるのだが、日本庭園の石庭さながらにこの庭までも舞台装置の一部に組み込んだような「見立て」が見事で、この場所と出会えたというだけでも今回の公演をした意味があったのじゃないかとも思った。
 私が見たのは夜の回だったが、庭にも照明が仕込んであって、それが庭を照らし出すことで生まれる景色が浴衣姿の女優たちの独特なたたずまいと相まって、舞台上に幻想的な雰囲気を生み出した。この日は芝居の最中に突如雷鳴が鳴り響き、夕立の激しい雨が降りだした。野外劇ではないとはいえ、この劇場ではない空間は舞台下手の扉が外に開いていたり、窓から雷光や雨が見えたりと半野外のようなところもある場所でもあり、若干そのためにところどころ台詞が聞えにくくなった部分ができたなど、明神が当初考えていた演出プランとは違ってしまった部分もあったかもしれない。だが、そこが生ものならではの魅力で、私の目には芝居が始まった後、突然降り出したその雨は芝居のなかの「異界のものたち」が召還した絶妙の舞台効果のようにも思われた。
 この舞台の底をはじまりから終わりまで流れるのは「水のイメージ」で、それは「金魚鉢の水」「コップに入った涼しげな飲み物」「プールの話」と形を変えながら、何度となく変奏され、終盤触れられる突然、初潮を迎えた少女の血がプールに広がっていき、煙のように消えていくという鮮烈なイメージを通して、女性という性の持つ根源的なエロス性が水とのかかわりのなかで波紋を広げていくのだが、だからこそこの日雨が降ったのは偶然ではなく、必然だという風に私には思われてならなかったのである。