JCDN原稿 LUCY/KOTA Project@京都芸術センター

LUCY/KOTA Project@京都芸術センター
 日本の山崎広太とオーストラリアのルーシー・ギャレン(Lucy Guerin)が互いに相手の国でオーディションにより集めたダンサーにより、それぞれ現地に滞在して製作した作品を持ち寄り初演した。
「Setting」は日本人のダンサー(赤松美智代、森井淳)にLucy Guerinがインタビューをして、そこから立ち上げていった一種のドキュメント的な作品だった。ムーブメントやコリオグラフのシステム的なところから構想したというより、異文化コミュニケーション自体が主題のようで、2人のダンサーのうち森井は英国の留学経験もあり、英語がかなり話せるのに対して、赤松美智代がほとんど話せないことから、舞台にはダンサー以外に通訳の女性も一緒に上がり、赤松が舞台上でアドリブで森井にする質問に対して、森井が英語でそれに答えたのを同時通訳のように舞台上で日本語に訳したりと、舞台上での英語・日本語の交錯を観客にも分かりやすい形で補足してみせた。
 タイトに構築された「作品」というよりは日本における振付家とダンサーの交流を綴ったLucy Guerinのエッセイ風日本滞在記のような趣きもあり、そのほのぼのとした感じは好感の持てるものであった。ただ、これを「ダンス作品」という風に考えた時には物足りなさも残った。振付に関しては一見、ダンサーが自分の動きで動いたものを振付家がサンプリングして拾ったように見えるが、実は振付家からはかなり細かい動きについての指示がでていたということを後から出演者に聞いた。だが、Lucy Guerinという振付家が普段どんなムーブメントを基調として作品をつくっているのかというのはこの作品からだけからだと分かりにくいきらいもあった。
 普段は作品を作る前に「こういう作品にする」ということを決めているのに対し、「今回は日本でダンサーと会っていろんなことを聞き、滞在している時に感じたことも含め、そこで感じたことを作品にした」とLucy Guerinはアフタートークで語ったが、そういうアプローチの違いがこの作品の方向性に大きく反映した、と思う。
 それゆえ、この作品を日本の観客がどういう風に受容するかというのは少し複雑なところがある。これはあくまでオーストラリア人の彼女が「私の感じた日本はこうだったの」という風に語りかけてるような作品であり、オーストラリアの観客はその同じ土俵で作品を共有できるが、日本人にとってはそうではないからだ。
 日本人である私にとっては日本に遭遇してこんなところがLucyにとっては面白かったんだ、「へー」という感じで、それが意外に思えることも納得できることもそのなかにはあるのだけれど「外国人の目から見た日本」を作品を通じて観客である私たちは見せられ、「それは表層的な見方じゃないの」とか、「そういう風にいわれればそうだよな」とかいろんなことを考えさせられる。
 質問の多くは2人のダンサーに対する個人的なことだし、日本をことさら意識しているつもりはないのかもしれない。だが、結果的にはそういう風に見えることも確かなのだ。例えば花嫁衣装を着るところを再現する場面。少し前に赤松が小さい時になにになりたかったのかという質問に「お嫁さん」とこたえた場面に続くので、個人的なことのイメージ化といえなくもないが、ウエディングドレスでないのはLucyの選択だろう。「Setting」は通訳の女性がただ通訳するだけでなく、舞台上にいろんなものを置いていき、それがしだいにある種の美術インスタレーションのような形を現しはじめることにあるが、そのイメージが私にはある時には「いけばな」、ある時に石庭を連想させ、これが象徴的にLucyが感じた日本のイメージを表しているように思われた。
 一方、山崎広太の「Chamisa4℃」はより個人的な山崎自身のイメージを投影した作品だった。山崎の振付家としてのよさに舞台空間にダンサーを複数配置しての空間構築力の高さがあるのだが、ソロ作品が多かったこともあって近年の作品ではそれがあまり出てなかったのがこの「Chamisa4℃」ではひさしぶりにそれを堪能することができた。
 山崎にとってはこのプロジェクトは国際交流よりもひさしぶりにいずれもバレエを主体にした高い技術を持つ粒ぞろいのダンサーたちとの共同作業の場を与えられたということに大きな意味があった。振付はかなり細かい部分までが「振り移し」であって、これらのダンサーたちがこれまでの経験である程度処理できるコンテンポラリーダンス的な動きと「舞踏」をベースにしたゆがんだ身体や静止ないし、微細な動き、痙攣的な動きのミクスチャーである。山崎の振付が面白かったのはそうした要素の指示をダンサーに与えた後でそれを「舞踏の型」に無理やりはめ込むことはしないで、それぞれのダンサーがそれまでつちかってきた自分自身の身体性のなかでの処理をまかせていたことで、そこに結果として「舞踏でも西洋流のコンテンポラリーダンスでもないなにか」が生まれていたように思われたことだ。
 舞踏的身体を持たない西洋のダンサーが舞踏の振付家の作品を踊る時にありがちなのは表面的な形だけを真似ることで「ニセモノ舞踏」みたいな作品になってしまうことだが、山崎のはそうではなくて白人のダンサーが持つ彼ら特有の身体のありかたは生かしたままで、そこに振付として舞踏表現の特徴のうちのいくつかの要素を盛り込んでいった。山崎は日本でも自分の持っている身体とは大きく異なるバレエダンサーに積極的に振りつけたり、最近はセネガルのカンパニーとの共同作業によりアフリカ人のダンサーに振りつけたりしてきたが、そうした経験が生きて、このような作品が可能となったのではないか。
 空間構成という意味合いでいえばこの作品ではきわめて効果的に鏡が使われていた。実際に舞台上に存在しているダンサーのほかにそのダンサーの姿が鏡に映って、その両方が観客の目に同時に映る。それに加えて、照明がこの作品では非常に短い時間の間に複雑に変化していく、ということも試みられ、この2つが相互作用することで、時間に合わせて刻々と変化していく非常に複雑な空間のイメージの変容が騙し絵的に舞台上に立ち現れた。
 逆に疑問があったのはダンサーに英語でいろんなせりふをしゃべらせていたこと。ナラティブ(物語)の構造がある作品ではないので、日本での上演ではせりふは時に重なったりして、聞き取れないことで音的なものに解消されて、私が見る分には気にならなかったが、言語テキストは意味性をともなうため、英語圏の観客にとってはかなり印象が異なり、本来意図していたものとのズレが生じるのではないか。この作品では言語テキストとダンスの動きとの関係性が厳密に規定されていないため、そのあたりが気にかかった。せりふはいらないのではないか。