エジンバラ演劇祭観劇リポート2

 国際フェスティバルのもうひとつの特徴は毎年、若手の劇作家に新作を委嘱し、ワールドプレミアで上演することだ。今年見たなかではスコットランドのPlaywrite(劇作家)・Directer(演出家)であるAnthony Nielson(アンソニー・ニルソン)の新作をNational Theatre of Scotlandが上演した「Realism」(Royal Lycem Theatre)がそういう舞台であった。よく出来てはいるが保守的な舞台が目立つエジンバラ演劇祭の演目のなかではこれは非常に斬新で面白かった。表題は「Realism」だが、英国で主流のリアリズム系の作品ではないことは幕が開いた瞬間に現れた舞台美術を見ただけで分かる。フロア全体に砂漠のように砂がしかれていて、そこにソファとか、冷蔵庫、ベッド、洗濯機といった家財道具が時には半分砂に埋まるように置かれている。しかも、舞台は傾斜がけっこうきつい八百屋になって、向かって奥の方が高いので、ベッドやソファなどはほとんど斜めになってそこに埋まっているのだ。このセットにはちょっとベケットを思わせるところがあった。

 主人公と思われる男(Stuart McQuarrie)がガウン姿で上手のソファに寝そべって、もうひとりの砂の上でサッカーボールのリフティングをしている男と会話を交わすところからこの芝居ははじまる。ビジュアルはかなりシュールなのだが、会話には日常的なところもあり、しばらくするとこの奇妙な場所はガウンの男が暮らしている部屋だということが分かってくる。この部屋には立ち代り入れ替わり奇妙なキャラが訪ねてくるので「これはおそらく現実のことではなく、この男の夢か妄想のなかの出来事ではないか」というのが了解される。シーンのいくつかは本当にばかばかしくて、スラップスティックやナンセンスなコントを思わせるもので、劇場では笑いの渦が起こっていた。

 一例を挙げればテレビの討論番組のパロディーのようなシーンで主人公の男はまるで大統領か首相の演説のように「煙草について反対しない」と熱弁する。「煙草がいけないという人は身体によくないというが、それではなぜそういう人たちはジャンクフードに反対しないのか。身体に悪いものはすべて禁止すべきだ。すべてのジャンクフードを禁止しろ」。大論陣を張って主人公が演説しているうちに舞台にはしだいにスモークが充満してきて(煙草の煙を意味しているのであろう)、演説する男以外の出演者はみなゴホンゴホンと咳をしながら舞台からはけていなくってしまう。
 ある場面はこんな風である。主人公のところに下着姿のセクシーな女性が訪ねてきて「いやらしいことしましょう」と誘惑され、さらにもうひとり同様な女性が現れ、このふたりにいろいろいやらしいことやらせようと妄想しはじめるのだが、いざそれが実現しそうになると、望んでもいないのにもうひとり主人公をよく知る女性が現れ、それを見てジャマをはじめる。それで主人公はことを起こそうという気持ちがなえてしまって、自分の想像の世界から彼女を追い払おうとするのだが、どうしても追い払えない。
 男の妄想(夢想)を舞台に乗せるという意味ではまず連想したのはジェイムズ・サーバーの小説「虹をつかむ男 ウォルター・ミティ氏の秘密の生活」に登場する夢想家、ウォルター・ミティだが、ここでの夢想はもう少しシリアスだ。どうやらこの主人公には「死」の恐怖が重くのしかかっているようなのだ。モチーフも芝居が進行すればするほど、そういうイメージに近づいていく。病気の発作のようなもので倒れた男は助けを呼ぼうとするが逆に登場人物のひとりによって殺されてしまう。実はそのシーンの前に年配の女性がやはり同じような発作で倒れる場面があって、この後の登場人物総登場で行われる葬式の場面では同じ人が背中に羽をつけて、舞台上で宙吊りになったままこの葬式に参加する。それでそれは彼の母親で発作で道で倒れたまま亡くなったんだということが分かる。そして、彼の一連の恐怖もいつか自分も同じようになるのではないかという不安を抱えていることからこういう妄想が起こってくるということもそれとなく示されるわけだ。
 こんなスタイルの芝居はどこかで見たことがあると考えていて、ハッと気がついたのはナイロン100℃KERAのことだった。「死」という重い主題を扱いながらもそれをシリアスにではなく、あくまでナンセンスなコント風のシーンを連ねて見せていく。この手つきが例えば「カラフルメリィでオハヨ」でKERAがやってみせたタッチとすごく似通っているのだ。そう考えると突然なんの脈絡もなく、黒塗りした男たちが演じるミンストレルショーが舞台上に現れ、チャールストンを踊りまくるシーンとか、さきほどの3人の女性のシーンなどはいかにもKERAが好みそうなギャグなのである。
 NielsonがKERAの舞台を見たはずもないし、偶然の一致だろう。ただ、Nielsonは1967年生まれ。1963年生まれのKERAよりは少し若い世代に属するが、大きくいえばモンティー・パイソン的な悪ふざけの表現に直接、間接的な影響を受けた世代でもある。同じようなものを面白がる感性が共有されているのかもしれない。そういえばNielsonは欧米では珍しく、作・演出を両方担当する作家で、そのせいでかどうかは分からないけれど、稽古初日に脚本が耳をそろえてあるというタイプではなく、少しずつ現場で俳優との共同作業によって舞台を作っていくらしい。当日配られたパンフによれば本が遅いとは直接は書いてはないが、舞台は本番が近くなってもなかなか出来上がらず、関係者をやきもきさせるというようなことが書かれていた。そういう意味でもこの2人は同類なのかも(笑い)。舞台を見る限り本人以外が演出するのはかなり難しそうなのだが、この舞台が翻訳されたのをKERAの演出で見てみたいとも思った。
 面白かったのは基本的には一幕劇なのだが、エピローグにあたる部分で幕が下りると半透明の幕の向こうに透けていつのまにかこちらはものすごくリアルなダイニングキッチンの部屋があって、そこで主人公の男が朝食を食べている。そこに妻も少しだけ姿を見せ、3人の女性の場面でジャマしてたのは彼女だというのがここではっきり分かる。こちらが「現実」で、だから、それまでのがこのさえないサラリーマンの妄想だったことが分かるという仕掛けである。この部屋のセットが吊られていたのが降りてきたわけだが、この突然の出現にはびっくりさせられた。
 一方、定番の演目としてはシェイクスピアとチェホフが毎年上演される。今年はロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(The Royal Shakespeare Company: RSC)が、2006年4月から1年間にわたり、シェイクスピアの全劇作品を上演するという画期的な企画「Complete Works Festival」をスタートしており、日本からもこの企画に蜷川幸雄が「タイタス・アンドロニカス」で参加しているが、エジンバラではペーター・シュタイン演出の「Troilus and Cresida(トロイラスとクレシダ)」がRSCとエジンバラインターネショナルフェスティバルの共同製作で上演された。 
 トロイ戦争を題材に扱っていて、この有名な物語をシェイクスピアが作品にしているのだから、もっと知られていてもいいはずなのに意外なほど知名度が低い。それはシェイクスピア作品としては極端に実際に上演されることが少ないためのようで、日本ではシェイクスピアシアターによる全作上演も含めて過去数度しか上演されただけ。全作上演だからこそ現れた「珍品中の珍品」といえるかもしれない。
 トロイ戦争を扱っていて、登場人物もギリシア側ではアキレウスユリシーズ、メネラオス、トロイ側はヘクトール、パリス。英雄勢ぞろいで有名人にことかかない。そんな芝居がなぜあまり上演されないのだろうと疑問に思っていたのだが、実際の舞台を見てみると理由はすぐに分かった。この芝居ではトロイラスとクレシダを中心とする恋愛についてのやりとりとトロイ戦争におけるギリシア側とトルコ側の思惑を描いた歴史劇的な部分が同時進行していくが、どうもその2つがバラバラのままで、まったく関係のない2つの芝居を同時に見せられているみたい。全体としての印象が散漫なのである。
 「マクベス」「オセロ」のようにカタストロフィーに向けてすべての要素がなだれをうって進んでいくような爽快さはないし、かといって喜劇的な部分はあるとはいえ、可笑しくて笑える部分も少ない。この舞台は途中休憩も含んで上演時間3時間半という大作でもあり、正直言って途中の場面では退屈してしまうことが否めなかった。トロイラスとクレシダのやりとりにしても本来ならば初期の作品である「ロミオとジュリエット」でさえ、そのやり取りに軽妙なレトリックの冴えを見せていたあのシェイクスピアの片鱗もうかがえない。これが同じ作者によるものなのかどうかも疑わしく感じるほどなのだ。
 シェイクスピア学者もこの芝居の解釈には困ったようで分類としては意味が分かるようで分からない「問題劇」などというジャンルを捏造して、ことをすませようとしたみたいではあるが、そもそも「問題劇」ってなんなんだ。それは「よく分からない」ということなんじゃないか(笑い)。 
 そんな風な難物を押し付けられて貧乏くじを引かされた感のある演出家、ペーター・シュタインだが、なんとかこれを面白く見せようという工夫の跡は涙ぐましいほどで、そういう意味では健闘していた。

 ひとつは上の写真の戦闘シーンのようなスペクタクルな演出で、この斜面は舞台に最初からあるのではなく、上からまず壁のように降りてきて、それがいつのまにか舞台上で傾いて、丘のようになる。こうした巨大な舞台美術も含め、ビジュアル面におけるサービス精神はなかなかのものであった。
 より重要なのは道化の扱い方である。この芝居にはトロイ側とギリシア側にそれぞれ道化的な人物がでてきて、これがシェイクスピア特有のいわゆる「傍白」を多用するのだが、今回のシュタイン演出ではそこのところに工夫を凝らしていた。ある場面では傍白が歌になって、舞台上で突然歌いだしたり、さらにそこにいるのにいないかのように他の登場人物の周りをぐるぐると歩き回らせたり、最後には3階席から登場して、客席に向かって台詞を語りかけたり。その演出には異化効果的というかシェイクスピアなのにどことなくブレヒト劇を思わせるところがあった。最近は2003年にこのエジンバラで見たチェホフの「かもめ」などのようにどちらかというと職人的な巧さが目立つシュタインの演出だったが、今回はそこに「ドイツ演劇の受け継いできた伝統」という匂いを感じさせたのが興味深かった。