砂連尾理+寺田みさこ「I was born」ACT原稿

 砂連尾理+寺田みさこ「I was born」をこまばアゴラ劇場で見た。「明日はきっと晴れるでしょ」「男時女時」「「loves me ,loves me not」などこれまでの砂連尾理+寺田みさこ(じゃれみさ)の作品のテイストは日常性のなかに表れる男女の微妙な関係性をコミカルな場面も交えて、提示していくというもので、そうした作風について以前「じゃれみさ」はダンス版夫婦漫才*1だと書いたのだが、この「I was born」は松田正隆の戯曲が原作であるためか、そういうものとは少し違うアプローチの作品となった。
 この作品でまず目立つのは寺田みさこの柔軟性と強靭性を兼ね備えたダンサーとしての特異な身体性で、冒頭の場面で寺田はしばらくの間、頭にダンボールの箱をかぶり顔を見せないで、しかも上半身も上着を羽織って、身体のラインをあまり見せないで演技を行うのだが、そのことで逆に唯一見えているくるぶしや腿といった脚の部分がいつも以上に強調されることで、普通の人間を超えた「超人形」としてのその姿を露わにする。
 その脚は赤いハイヒールを履いており、そこにはフェティッシュな記号としてのエロス性が匂うことは否定できないのだけれど、それがそれほど生々しくは感じられないのは鍛えられた脚の筋肉の微細な表情までがここで見えてしまうことで、生身の人間の女性の脚というよりは「モノ」のようにも感じられたからだ。
 もちろん、この後の部分ではそういうところだけではなくて、じゃれみさ特有の諧謔性を見せて、ユニゾンで掛け合いするところもあるのだけれど、冒頭の場面から最後の方の壊れた人形のような振りで踊るところまで、今回の寺田の作品のなかでのイメージは私に強く、押井守の映画「イノセンス」やそのイメージの源泉となったハンス・ベルメール球体関節人形を連想させるようなところがあったのだ。
 松田正隆の戯曲(「Jericho」「石なんか投げないで」)が原作とクレジットされているのだが、実はこの作品は昨年の7月に京都で初演されてから、今年の6月には寺田みさこと劇団衛星の俳優、Fジャパンによるデュオ作品として再演されていて、その間に大きな変容をとげている。これまでの作品でもじゃれみさの場合、最終的な完成形に向かって、再演のたびに大きな変更が加えられることはあったのだが、この作品の場合、初演では松田原作のテクストのどの部分がどのシーンになったのかという対応関係がかなりはっきりと分かったのに対して、2度にわたる再構成によりほとんど原型をとどめないほどに作品が変化していて、もはや具体的な素材として松田の作品が残っているのは「Jericho」に登場する包帯でぐるぐる巻きにされた女の場面ぐらいといってもいい。
 それゆえ、この作品に関しては本当は松田正隆は原作というよりはinspired by MASATAKA MATSUDAというぐらいのクレジットが適当とも思われる。もっとも昨年の初演と比べると言語テクストの具象的なイメージやナラティブ(物語)に引っ張られるところがなくなった分だけ、ダンス作品としての完成度は格段に上がった。さらに今年の6月の再演との比較でいえば舞台奥の黒い壁に白いチョークでパフォーマーの動きに合わせて、絵のようなものを描いていくというアイデアなどそのまま活用された場面はいくつかあるのだが、寺田の相手が砂連尾に代わったことで、2人のパフォーマーの関係性には大きな変化が生じて、じゃれみさならではの風味がより濃厚なものとなった。
 今回の作品での寺田の特異な身体性を「超人形」と最初に書いたけれど、その特異性はそれとはまったく異なる身体である砂連尾理が舞台上に共存することによる一種の対比によっていっそう際立ったものとなる。ここにこのデュオにおける砂連尾の存在の重要性がある。さらにこの「I was born」が原作離れはしていても松田正隆的なるものを体現するという意味でも砂連尾が今回出演したことは決定的な意味があった。
 というのはすべての作品がそうであるとはいわないが、松田作品のひとつの特徴としてヒロインは感情移入可能な日常的な存在であるというよりは「永遠の憧憬としての彼岸の存在」であるということがあって、松田自身の作風は長崎弁の日常会話劇である「紙屋悦子の青春」「海と日傘」「月の岬」といった作品から、詩的で幻想的なイメージの連鎖による近作の「王女A」「パライゾノート」まで大きな変容をとげたかに見えるが、「彼岸の存在としての女性」と「ニュートラルな視点としての男性」との対比という関係性がその根幹にあることは変わらないと思われる。例えば時空劇場ではこれをそれぞれ内田淳子と金替康博が担っていたわけだが、今回の「I was born」ではそれがそのまま寺田みさこ、砂連尾理の関係にパラフレーズされるものとなっている。
 もちろん、この作品で描かれるのはかなり日常性とはかけ離れたイメージの世界ではあるが、前回の上演でFジャパンが演じたのは「ニュートラルな視点としての男性」というよりはやはり「もうひとつの彼岸」であって、舞台のなかでの彼のまるでおもちゃでも見せられているような存在感は面白くはあったのだが、松田正隆世界の体現という意味では今回の寺田と砂連尾の組み合わせの方がやはり的を得ていたのではないかと思う。
 そしてなんといっても寺田みさこ。ダンサー、パフォーマーとしての新境地をこの作品では見せてくれた。さらに演劇とは異なるダンスというアプローチでこれまでどうしてもぬぐいきれなかった内田によるヒロイン像とはまったく違うヒロイン像を提示してくれたのは松田作品の上演史上でも特筆すべきことだと思う。 

*1:『act』(あくと)一号「男時女時」レビュー