マレビトの会「血の婚礼」

 マレビトの会は劇作家、松田正隆の率いる劇団である。今回は初の試みとして松田戯曲以外の上演に挑戦した。シリーズ「戯曲との出会い」vol.1と題しガルシア・ロルカの「血の婚礼」を松田が演出、上演したのである。
 松田が優れた劇作家であることは岸田戯曲賞を受賞した「海と日傘」、あるいは映画にもなった「紙屋悦子の青春」、平田オリザ演出で上演された「月の岬」といった戯曲の完成度の高さを見れば一目瞭然。いまさら私が指摘するまでもない。松田が「もう自ら演出はしない、劇作家として生きていく」と「劇作家宣言」をして時空劇場を解散したのが1997年。その後、7年の時をへて再び自分の劇団としてマレビトの会を設立したのが2004年4月であった。
 月日のたつのは意外と早いものでもうそれからも4年がたつ。それは松田にとっては長崎方言による会話劇から一種の詩劇を思わせるより前衛的な劇作様式への変貌とも機を一にした。その過程で必然的に生まれてきたのが新たなスタイルの戯曲に合致した新たな演出・演技スタイルの探求の試みであり、特に近作の「アウトダフェ」「クリプトグラフ」といった作品でマレビトの会ならびに松田の新たな方向性はより明確なものとなってきた。
 マレビトの会のスタイルは松田の戯曲に合わせて作品ごとに変化する。その試みは試行錯誤の連続といっていい。だが、これまでの舞台はいずれも松田の戯曲を上演したため、どうしても劇作家、松田の構想を舞台上で実現するのに演出家、松田が力を注ぐ。演出が戯曲に従属する色合いが強かった。自らの劇作のくびきから放たれ自由になることで演出家、松田がどんな世界を紡ぎ出せるのか。「戯曲との出会い」という企画が興味深かったのは、私には今度はこれが松田の「演出家宣言」と感じられたからだ。
婚礼の日、花嫁がかつての恋人と逃げ出した。花嫁を連れ去った男は花婿の父親と兄を殺した一族の人間だった。やがて逃げ道もなく、後戻りもできない二人の先には、運命の死が待ち受ける……。マレビトの会のホームページには「血の婚礼」のあらすじがこんな風に紹介されている。婚礼の日、花嫁が恋人と逃げ出すなどというと私などはついついダスティ・ホフマン主演の映画「卒業」を思い出してしまうのだが、こちらの方はそんなさわやかな青春物語などではなくて、最終的には花嫁の恋人も花婿も殺し合いにより両方が死んでしまうなどまさに血の匂いに満ちた悲劇である。
 当日のパンフに書かれた演出ノートでも「ロルカの『血の婚礼』には、登場人物たちの行動の根拠に得体の知れない土着性があり、そこに私は惹きつけられる。その得体の知れなさは、遠く離れた日本に住む私に理解できないわけではなく、ある意味とても共感できるもののように思えてならない。私の生まれ育った集落には、その土地に染みついてとれない血縁によって人間の運命が定められているということを今でも信じている人々がたくさんいるからだろうか」と松田は語り、これまで彼が作品で繰り返し追求してきた「長崎の島における閉ざされた共同体における濃密な血縁が引き起こす悲劇」と共鳴しあう要素をこの「血の婚礼」が持っているということがあるが、もうひとつの理由として演出家としてテキストである戯曲に対峙する際にどのような演出的な方法論をそこにほどこしていても、戯曲の持つ力が雲散霧消はしないようなシンプルで力強いテキストが必要で「『血の婚礼』にはそれがある」との判断もあったようだ。
 前衛的演出とは書いたがよくある構成演劇、テクストをばらばらに解体してしまって、再構成するということはない。若干のテクストレジスト(カットや再構成)はあっても、原戯曲の台詞はほぼそのまま使われる。ところが「血の婚礼」は最近でも白井晃演出による森山未來ソニンの主演版が上演されるなど本来は大劇場の公演にも絶えうるメロドラマ的な大衆性も兼ね備えたものだが、松田演出によるマレビトの会版の「血の婚礼」はそうした他の上演例とは大きく異なる印象を与えた。
 俳優は台詞をそのまましゃべると書いたが実はそれは字句のことであり、松田演出では台詞は人間の感情が自然に発するような通常のアクセント、イントネーションではなく、意図的に平板に発声された。すべての俳優は話し相手でなく、舞台正面の客席側に正対して語る。しかも今述べたのはあくまで基本の形式であり、実際には個々の俳優と役柄ごとにそれぞれが違うスタイルで演技、台詞回しを行った。その台詞はある役柄の場合はすべてスペイン語で語られたり、俳優が語らず、テープレコーダーに録音されたものが台詞として聴こえてきたり、不統一な形式があたかもコラージュのように舞台上で展開されていく。これが松田版の「血の婚礼」であった。
 テープから聴こえる台詞について言及したが、さらにこの舞台では音が単なる音響効果の範囲を超えて舞台に侵犯してくる。芝居の冒頭。天井にはPETボトルがいくつかひもで吊るされている。そこからはポタ、ポタと音を立てて水滴がしたたり落ちているが、その下には大きな金だらいが置かれ、そこに落ちる水音を反響させている。この音はすべての水が落ちきるまでやむことがなく流れ続ける。
 さらに音響としてスピーカーから時折、爆撃音のような音やフリージャズの演奏のような不協和音が大音量で流れ、これらは物語に通底する不穏な空気やかつてロルカ自身の身に起こった不幸な出来事*1を連想させる。時に台詞と完全に重なってそれを覆いつくし、観客の耳に台詞をほとんど聞きとれなくする役割も果たしている。
 ブレヒトの異化効果に近いが、観客は台詞を聞き取れず、ときには突飛な台詞回しや奇妙な演出に集中を殺がれ、物語に単純に感情移入して没入できない。そこには自明のものとして俳優に張り付いて安っぽいメロドラマになってしまいかねない台詞を意図的に引き剥がすことで、戯曲が本来潜在的に持っていた言葉の力を取り戻そうという狙いがある。しかし、その反面、松田のきわどい狙いは感情移入したい観客にとってはフラストレーションを引き起こすことになりかねない綱渡り的な危険をはらんでいる。
 さらにマレビトの会の公演としても異色のことだが、この公演のキャストは公演会場となったアトリエ劇研で昨年松田が行ったワークショップに参加した若手の俳優らが中心。最近のマレビトの会の公演には常連となっている俳優たちは主役の花嫁を演じた筒井加寿子を除けばほとんどキャスティングされていない。そういうなかで目立つ存在となっているのが広田ゆうみで、これまでの舞台経験のキャリアという意味では広田、筒井の二人が飛びぬけていて、経験の浅いほかの俳優らとは大きな技術的な落差があることは舞台を少し見ただけですぐに分かるほどだ。
 ク・ナウカ山の手事情社、地点といった「語りの演劇」の系譜の劇団を連想するのだが、しばらく見ているうち今回のマレビトの会とはスタイルにおいて大きな違いがあることが分かってくる。というのは「語りの演劇」はそれぞれが独自の台詞術を獲得し言語テキストを身体的な表出として舞台に提示する。その場合、ク・ナウカの美加理、地点の安部聡子のようにそれぞれそのメソッドの規範となるような俳優がいることが多い。ところが、マレビトの会の舞台にはそうした規範がいっさいない。
 確かに母親役の広田の演技は舞台上で独特のフレージング(台詞回し)の技法を見せ、様式において安定感を感じさせるが、それはあくまで個人的なものであり、その演技が規範となるという風にはなっていない。常連俳優である筒井も同様であり、この舞台には地点やク・ナウカに見られるような様式的な統一性はいっさいない。むしろ、松田の興味はテンションや語りの技法においてそれぞれにバラバラな演技、身体のありようをコラージュ、あるいはパッチワークのように張り合わせることで同時に舞台に乗せることにあるように思われた。
 実はこれにも先行例はなくはない。先ほど「語りの演劇」の例に出した山の手事情社の安田雅弘が現在の「語りの演劇」の様式を確立する前に試みていたラジカルな演劇的実験「ハイパーコラージュ」がそれである。「ハイパーコラージュ」は安田が構想した新しい演劇様式の呼称で、「状態がさまざまで、様式的にも異なる複数の演劇的要素が同じ舞台に立ち同時多発的に並存する」、というものだ。実はこの「血の婚礼」の前にこのwonderlandの矢内原美邦プロジェクト「青ノ鳥」のレビュー*2にもこれと同様なことを書いたので、「また世迷言を」と思われても困るのだが、単なる思い付きというわけではないことの証左として挙げておきたいのはこの「状態がさまざまで……」という特徴は「血の婚礼」の前の「クリプトグラフ」にも見られた。その時にも「これはハイパーコラージュではないのか」との指摘を松田自身にも上演が終わった後の雑談でしたが、「血の婚礼」と「クリプトグラフ」ではやり方は違うし、山の手事情社がかつて試みたものとも様式は似ていない。だが、ここには以前、安田が試みて途中で挫折した未知の演劇の可能性探求と同質の問題意識が含まれているのではないかと思ったからである。
 もっとも、「ハイパーコラージュ」はかつて安田が道半ばにして断念、「四畳半」による「語りの演劇」という別の方法論に転換していったことでも分かる通りにそれほど簡単に実現できるものではない。例えば今回の場合、まず問題となるのは松田が提示した「様式的に異なる複数の演劇的要素」には稚拙でほとんど素人に見える演技も含まれることだ。松田はどうやらそれを放置して広田のように既存の技術を持つ俳優と同じ舞台に乗せることに躊躇がない。乱暴な言い方をすればこの舞台には「うまい人」「下手な人」が一緒に舞台に出ているという風に見え、その分、舞台としての完成度が低く見える。ところがそれがただ下手な稚拙な舞台かというと、確信犯としてやっていることが明らかなので簡単に切り捨てるわけにもいかない。
 ただ、今回の場合、今現在できてるかは別にして、マレビトの会に固有な演技スタイルを試行錯誤で探りにいくという意味での実験というのではなくて、コラージュの素材としてなんらかの技術のある俳優の演技もそれがない人の単なる佇まいも同等の重さで面白がっている。それをそのまま張り合わせてコラージュした。美術や映画(映像作品)の場合はそれでも作品になるけれど、果たして演劇、あるいは舞台芸術の場合それでちゃんとした作品になるものなのかどうか。「テープの声」「音響」などを生身の俳優と同じ重さで作品に使うのはいいとしても、俳優の演技にはやはりよりブラッシュアップされた取捨選択やある程度の方向付けが必要ではないのかとも思ったのだ。だから、今回の舞台については私の現在の評価はこの舞台自体には疑問も感じるし、松田の考えた可能性がこの舞台で実現したとは思わない。けれども実現されてない領域の可能性がより現実化した時、そこからなにが生まれてくるかの期待は非常に大きかった、ということになるだろうか。
 前述したようにマレビトの会の公演はいまのところ毎回、その方向性が違うということもあり、今回の公演がどんな風に次の公演にフィードバックされるのか、されないのか。まだ、未知数ではあるのだが、松田の実験精神には今後も注目していきたいと思う。

*1:1936年、内乱の雰囲気が高まるなか、ロルカマドリードから故郷グラナダへ戻る。数日後、モロッコフランコが反乱軍を指揮し本土へ侵攻、スペイン内戦が勃発する。ロルカは友人のファランヘ党員の家へ逃げ込むが、8月16日、友人の留守中に逮捕、県庁舎に連行される。8月19日早朝、グラナダ近郊の村アルファカールで三人のレジスタンスたちと共に銃殺された。 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から引用

*2:MIKUNI YANAIHARA PROJECT「青ノ鳥」http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=736&catid=3&subcatid=4