Monochrome circus「The Passing 01-03」

 京都に本拠地を置くMonochrome circusはいまもっとも脂の乗っているカンパニーだといっていいかもしれない。その充実ぶりはこの1年間ほどを振りかえっても「出会い」を作品化するという「旅の道連れ」(滋賀会館)、フランスの振付家、エマニエル・ユンとのコラボレーション「怪物」プロジェクト(京都アトリエ劇研)、ダムタイプの照明家、藤本隆行とのコラボレーション「Refined colours」「Lost」の東京・長野公演(スパイラルホールなど)、小品集の連続上演「水の家」プロジェクト(ロクサドンタ・ブラック)と互いに方向性の違う舞台を次々と上演してきた。1年に1、2本の新作あるいは1本新作を製作するとそれをツアーなどで回すため、新作の頻度は1年に1本以下となるようなことも珍しくないコンテンポラリーダンスにおいて、この多産ぶりはある意味驚くべきことでもあり、しかも上記の作品はすべて一過性の企画というだけなく、海外や国内でのツアーや再演をにらんだ、ある程度以上のクオリティーの高さを維持したものである。東京公演が少ないことによる知名度の低さ、活動の全体像が東京ではまだ知られていないこと、さらに昨今の東京のコンテンポラリーダンスとは明らかに作品の傾向が違うことが原因かもしれないが、このカンパニーは東京の人気カンパニー、振付家と比較された時に評価がまだまだ低すぎる。もう少し高い評価をされてしかるべきカンパニーだと思う。
 今回の新作「The Passing 01-03」はこのところJCDNの「踊りに行くぜ!!」への2年連続の参加などで小品の上演が目立っていた坂本公成が、ひさびさに試みた長尺の作品。とはいっても1時間ほどの作品ではあり、出演者も4人と多くはないのだが、小品を見慣れた目には大作に見える。舞台美術を「羊飼いプロジェクト」で知られる現代美術家の井上信太が手がけていて、作品自体も一種のコラボレーションとなっている。
 昨年12月の「Crossing vision」という公演でこのうちの一部を「The Passing01」と題して上演してはいるのだが、その時に新シリーズだとして創造したものとはまったく方向性の違うものとなった。「The Passing01」は確かにこの作品にある合田有紀のソロがすでに登場していてそれが強烈なインパクトを残すのだが、その他の部分はまず椅子のかたずけをしているどこかのカフェにギャルソンとして合田が働いている場面からはじまるなど、具象的かつ演劇的な要素を多く持っていて、「The Passing=通りすぎる」という表題とも合わせて、旅の途中で出会った情景のスケッチの作品化のようなものを考えているのかと勝手に誤解していたのだった。
 ところが今回の「The Passing 01-03」は作品を一瞥まず最初にベケットを連想したほど不条理でシュールなイメージの連鎖により作られた作品といっていい。物語も対象がこうであると特定できるような具体的な事物もほとんどない。ファーストシーンでは舞台手前に吊られた幕のさらにこちら側に黒いコートのようなものを羽織った合田が浮浪者のような風にして忽然と現れるが、その動きはどこかぎぐしゃくとぎごちない。しばらくすると、幕の奥に当てられた照明の効果で幕の向こう側もうっすらと透けて見え、何人かのダンサーが踊っているのがうっすらと透けて見える。この後、幕が落ちて今度はダンサー四人による群舞となる。群舞と書いたが動きは二人づつ、あるいは三人、四人によるコンタクトインプロビゼーションの動きを元にようなものだ。元々、このカンパニーは日本各地でもWSを行うなど日本へのコンタクトインプロビゼーションの紹介者の代表的な存在でもあり、それゆえ、坂本の振付には以前からコンタクトの要素が目立っており、即興の要素も強かった。
 ただ、以前の坂本の作品と違うのはこの「The Passing01-03 ―WASH」では即興の要素はほとんどなく、すべては厳密に振り付けられ、コンタクト技法は振付生成のための素材にすぎないことだ。この場面で最初、合田が着ていた黒いコートは次々とほかのダンサーに着せ替えられていくが、そのコートを着ると同時に着せられたダンサーはそこからどこかに逃げ去ろうとするが、そうするとまるでしがらみのようにほかのダンサーがコートのダンサーを取り囲み、押さえつけ、コートのダンサーは逃れることができない。完全に押さえつけられてしまうとコートは剥ぎ取られ、また次のほかのダンサーに着せられ同じことが繰り返させる。相当にアクロバティックな動きや超絶的なリフトの連鎖によりこの場面は構成され、ダンスとしても見せ場は多いが、そのなかで純粋なムーブメントやダンサーの配置の幾何学的な関係性ではない、寓話的な構造がそこから透けて見えてくる。
 完全に意味性にのみ還元するのはダンスの場合、えてして無粋なことにもなりがちだが、ことこの作品に関していえばこの後、井上信太の製作したフェイクファー(偽ものの動物の毛皮)のように見せる美術とその時にダンサーが時折見せる動物の獣性を指し示すような動きや仕草などとも相まって、この舞台のモチーフは人間が根源的に持つ動物的本能(獣性)とそれを抑圧し、飼いならそうとする社会的拘束とのせめぎあいではないのかということが次第に作品の進行に従い納得されてくる。
 もっともダンスと演劇の違いともいえるが、この舞台にはそういう意味性(解釈)には還元されない異なるベクトルを持つ要素が舞台に乗り、そうしたさまざまな要素が同時進行していき、それでいて舞台が成立しているのが面白い。それは例えば合田有紀のソロの横で地面に散らばったコーンを荻野ちよが箒で掃除し、その横では舞台上になぜだか電磁調理器があって、加熱されたポップコーンが音をたててはじけていく。意味としては無茶苦茶で不条理そのものと言ってもいい場面だが、この場面がダンス的なシークエンスとして成立しているように見えるのは最初地面に横たわってなんとか起き上がろうとしてもがいている合田が最後には立ち上がってぴょんぴょんと飛んだりするという一連の動きが加熱されるにしたがって弾けていくポップコーンと微妙にシンクロ(同期)していることで、最後は合田が紙コップに入ったポップコーンをむしゃむしゃとほうばるというオチのような場面でこのシーンは終わるのだが、ここでは合田の演技によりモノにすぎない「ポップコーン」があたかもダンスしているように見えてくるという舞台の魔術があった。