アバンギャルドを受け継ぐ矜持感じた維新派「キートン」

アバンギャルドを受け継ぐ矜持感じた維新派キートン

 中西 理<演劇コラムニスト>

 維新派キートン」(大阪南港ふれあい港館駐車場内野外特設舞台)を観劇。新国立劇場で上演された「nocturne」のレビュー(http://www.pan-kyoto.com/data/review/47-04.html参照)に「ここからはじまった変容は維新派の舞台をこれまでのヂャンヂャンオペラよりアート性の高い次の新たなスタイルに変えつつあるのか。それが気に掛かる舞台だった」と書いたのだが、今回の「キートン」は野外劇ではありながらお囃子・下
座音楽としてのヂャンヂャンオペラに代表された祝祭的な要素は希薄で「ハイアート」への志向がはっきりした舞台であった。
 キートン=サイレントという主題はあるとはいえ、特に前半部分などは映画や美術作品のレファランス的引用(サンプリング)という美術的な要素への傾注が全体を支配していて、内橋和久の音楽もアンビエントな曲想が主体で環境音楽的に背景に退きながら、全体を下支えしている感が強い。
 こうした印象は舞台美術に今回、黒田武志が参加していて、そのテイストによるところもあるが、その以上に今回黒田に美術を委嘱したということも含めて、舞台以前に元々、大阪教育大学で美術を専攻していた松本雄吉の美術家としての側面が色濃く出てきている舞台になってきているということにその原因はあるのではないかと思われる。
 維新派の舞台は単語を羅列したテキストを音楽のリズムに合わせて群唱するいわゆるヂャンヂャンオペラの形式を主体として、最近の作品ではそこにいくつかの台詞が挿入されていくような形式を取ってきたのだが、サイレント映画喜劇王キートンを主人公としたこの舞台ではそういう台詞さえほとんどなく、すべてが身体の動きと美術も含めたビジュアルプレゼンテーションの連鎖により進行していく。冒頭の映画館の場面(「探偵学入門」からの引用)からキートンをイメージさせる場面や実際のキートン映画からの場面がちりばめられて展開されていくが、この舞台ではそれに加えて、ビジュアル版の入れ子構造のようにシュルレアリスム系絵画(デ・キリコルネ・マグリット)を思わせる場面や構図がそこここに展開される。
 シュルレアリスムだけにとどまらずパフォーマーが途中で背中に背負って登場する便器のようにマルセル・デュシャンから引用(もちろん、「泉」である)も散見される。キートンが花嫁に追いかけられる場面はもちろん映画「セブン・チャンス」ではあるのだけれど、デュシャンの「大ガラス」とも関係あるらしい。車輪で遊ぶシーンもデ・キリコの絵画からの引用であるとともにデュシャンのレディメイドからの2重の引用でもある。
 さらにいえばデ・キリコを思わせる舞台美術は黒田によればキリコではなく映画「カリガリ博士」のイメージから構想したものらしい。
 ほぼ同時代とはいえ、ジャンルの異なるキートンデ・キリコデュシャンがここで出揃うことはこの作品が松本にとっては単にキートンにとどまらずアヴァンギャルドアートが息づいていた20世紀初頭(すなわちこれはキートンの時代にもなるわけだが)という時代を憧憬する想いを傾けたオマージュとして構想されたからではないか。そして、ここには21世紀初頭というほぼ100年の時空を超えて前衛芸術において彼らの精神を受け継ぐという松本の表現者としての矜持がこめられていた。


P.A.N.通信 Vol.54掲載