「ニブロールと現代日本人の身体」 Web版講義録

【日時】2008年10月23日(木)p.m.7:30〜
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて

 セミネール「現代日本演劇・ダンスの系譜」と題して連続レクチャー&映像上映会をスタートさせました。今回は「ダンス編」の第1回ということになります。取り上げるのはニブロール(nibrollです。

 第1回は「演劇編」ということでチェルフィッチュを取り上げました。ただ、実際にはこのダンス編・演劇編というのはいわば便宜上のものでそれほど大きな意味があるわけではありません。特にこの最初の2回、チェルフィッチュニブロールはそうです。
 というのは一応、チェルフィッチュ岡田利規は演劇畑の人。それに対してニブロール矢内原美邦コンテンポラリーダンスということになっています。それはそれで間違いではないのですが、実際には彼らの活動領域はそういう既存のジャンルに対してボーダレスなものです。
 だから岡田利規の場合、小説も書いていて大江健三郎賞を受賞している*1のですが、それだけではなくて前回言ったように演劇として作ったその舞台がダンスの世界でも評価されたり、実際に「クーラー」というダンス作品も制作してそれがトヨタコレオグラフィーアワードというコンテンポラリーダンスの振付家のためのコンペ(公開競技)にファイナリストとしてノミネートされたりするということもありました。
 一方、今回取り上げるニブロール矢内原美邦も同様にジャンルクロスオーバーな領域で活動しています。彼女の活動領域は最近はコンテンポラリーダンスにとどまらずに演劇上演のためのプロデュースユニット「MIKUNI YANAIHARA PROJECT」によって「演劇作品」も上演しており、昨年はその上演作品「青ノ鳥」*2がなんと岸田戯曲賞の最終選考作品に残りました。
 さらにチェルフィッチュが現代美術の大規模総合展である横浜トリエンナーレに正式招へいされたり、ニブロールの場合はその映像作品が国内外の大規模な展覧会に招へいされるのがもはや普通のこととなっているようにどちらも現代アートの世界からの注目も集めています。関西でもチェルフィッチュ国立国際美術館の招きによりそのロビーでも上演されました。これからお見せするのは「This is part of the video of the Japanese Group Off Nibroll's exhibition Dry Flower at Taipei Artist Village 」とクレジットがありますから、ニブロール台北市台北アーティストビレッジで行った映像インスタレーション(あるいは映像公演)の動画です。

 ニブロールはこんな風に舞台芸術だけではなく、映像作品も制作していて、それらは各所の美術展やアートイベントに出展されています。
 逆に観客も少なくとも東京では演劇とコンテンポラリーダンスの観客はかなりの部分で重なり合ってきました。つまりボーダレスな表現が増えるにしたがい面白そうなものなら演劇、ダンス、映像、クラブイベントとなんでもも見に行く観客がいるというのは普通のことになっています。
 これに対して、関西ではまだまだ観客のタコツボ化現象が目立ちます。相当以前のことですが、そとばこまちから独立して上海太郎舞踏公司を立ち上げた時にダンスと演劇の両方の要素を持つ作品をやれば両方の観客が来て、動員が増えるのじゃないかと思って、(ダンスパントマイムを)はじめたが結果としてはどちらの客も来なかったと嘆いたことがありますが、ダンスを見る人が演劇も見る、あるいは逆もまだまだ一般的なことでないのが現状です。
 作り手としては関西には維新派ダムタイプというジャンルボーダレスな活動領域を持つ集団としては世界に誇れる存在があるにもかかわらず、観客はまだまだ保守的である印象が強いのです。演劇の観客には食わず嫌いせずにもっとダンスも、ダンスの観客にはもっと演劇も、そして両者ともにもっと現代美術などをはじめとするほかのジャンルにも目を向けてほしい。そのことがこのセミネールをはじめた大きな動機にもなっており、さらにいえばブログ「大阪日記」を運営している理由にもなっているのです。
 前置きはこの程度にして本題に戻りましょう。ニブロールコンテンポラリーダンス、なかでもマルチメディアパフォーマンスというジャンルに入ります。そのことを説明するためにここでまず日本におけるコンテンポラリーダンスの現状はどうなのかというのを紹介します。
 参考資料として「日本のコンテンポラリーダンス」という表題の解説を掲載しておきます。これはポルトガルのダンスフェスティバルが日本ダンス特集を企画した際のパンフ用の文章として執筆したものなので、外国人向けを想定して書いたものですが、日本人が読んでも分かりやすくまとまっているのではないかと思っています。

 欧米の目から日本のコンテンポラリーダンスを見た時には山海塾(SANKAIJUKU)、勅使川原三郎(SABURO TESIGAWARA)+KARAS、ダムタイプ(Dumb Type)が代表的なイメージとなるかもしれない。だが、現在の日本のコンテンポラリーダンスの全体像を俯瞰して眺めた時、実はこの3つの集団がそれを代表する傾向のものかというとかならずしもそうではない。
 いささか逆説めいた言い方になるが、日本のコンテンポラリーダンスの特色はひとことでこれといえるような特色がないこと。およそ現代において考えられるダンスにおける様式が「いま・ここ」で同時に共存している様式的多様性、なんでもありのカオス状態が日本のコンテンポラリーダンスの特異な状況なのである。
 最近の大きな特徴として東京を中心に既存のダンステクニックとは一線を画した通常の意味でのダンサーとしての経験を持たなかったり、バレエなど欧米において正当とみなされるテクニックを持っていても、それをいっさいださないようなダンスの流行がある。ここでは既存のダンスの枠組み自体を問い直すというような実験性が、60年代のアメリカのポストモダンダンスのような前衛的な身振りにおいてではなく、ポップやキッチュなファッション性をともなってなされている。そうした流れを代表するカンパニー・振付家として、珍しいキノコ舞踊団(伊藤千枝)、康本雅子イデビアン・クルー井手茂太)、ボクデス(小浜正寛)などが挙げられる。
 日本のコンテンポラリーダンスにおけるもう1つの大きな流れは映像・美術・音楽など他分野のアーティストとのコラボレーションによるマルチメディアパフォーマンスのグループである。舞台芸術作品だけではなく、大規模な美術展覧会への映像インスタレーションの展示など分野を超えた活動で注目を集めているニブロール矢内原美邦)がその筆頭といえるが、他にも海外公演でのツアーを中心に作品を発表し、映像・音楽・照明などの高度なスタッフワークとソリッドでアグレッシブなダンスが「日本の今」を感じさせるレニ・バッソ北村明子)、押井守の映画「イノセンス」を思わせるようなメカニカルでいてどこか懐かしさも感じさせる特異なビジュアルワークを見せてくれるBABY-Q(東野祥子)などがいる。こうした集団は明らかにDumb Typeの作り出した流れの元に出発してはいるが、Dumb Typeがどちらかというと美術系の作家のコラボレーションによるアートパフォーマンスの色合いが強いのに対し、これらのカンパニーの作り出す作品はよりダンスパフォーマンスに重点を置いたものとなっています。
 他のアジアの国と比較しても日本のコンテンポラリーダンスは特殊な状況にある。それは日本のコンテンポラリーダンスが日本にもともと存在していた伝統的な舞踊・演劇(歌舞伎・能・日本舞踊)とダンスとしての技法においてまったく切れてたところから発祥していることと関係があるかもしれない。ここが例えば同じアジアの国でも、伝統的民族舞踊と西洋舞踊の融合を志向しているように見える中国、台湾、韓国、インドなどのコンテンポラリーダンスとの大きな違いなのである。
 それではそれはただの輸入品で西洋のダンスの物真似にすぎないのでしょうか。ダンスに限らず他の文化、あるいは産業製品においても例え最初の技術ないし、コンセプトを外から取り入れたとしてもそれをいつの間にか換骨奪胎し、日本独自のものに変質させてしまうのが、日本の文化の特徴(例えば一例を挙げればポルトガルから最初に火縄銃を輸入して数十年もたたないうちに日本では銃を完全に国産化、一時は世界の銃の数の半分が日本に存在していたとも言われる)で、それはダンスにおいても変わりません。

 日本のコンテンポラリーダンスとして西洋でもっとも知名度の高い舞踏(BUTOH)は西洋人の目に東洋的なもの・伝統的なものと映るかもしれない。しかし、舞踏は土方巽(TATSUMI HIJIKATA)というひとりの天才的なダンサー・振付家の手により生み出されたものだ。低い重心、ゆがんだ身体のありようなどその特徴は日本の伝統舞踊との関係は直接にはない。アメリカのモダンダンス、ドイツの表現主義舞踊などの影響を受けながらも日本において独自の発展をした現代舞踊(GENDAI BUYOU)出身の土方がバレエに代表される西洋舞踊へのアンチテーゼとして構想したオリジナルの現代ダンスなのである。舞踏以外では勅使川原三郎もいずれも西洋のオリジンであるバレエとマイムの技法を学んだ後、それらを換骨奪胎して、世界に類をみないユニークなムーブメントのダンスを独力で生み出した。
 舞踏は日本のコンテンポラリーダンスのなかでも依然として大きな流れを形成しているが、なかでも始祖というべき土方が去り、大野一雄(KAZUO OHNO)も老齢のために公演活動が困難になっているなかで、彼らと並ぶ第一世代でありながら、世界中の公演活動を積極的におこない、そのエネルギッシュな活動ぶりが異彩をはなっているのが、笠井叡Akira Kasai)である。
 先ほど土方という天才がひとりで作り上げたと書いたことには反するようだが、笠井は土方の弟子ではなく、舞踏創世記から土方とはまた異なるアプローチでダンスにとりくんできた。その作品は静かで非常にゆっくりとした動き、足は地面についたまま低い重心で踊るなどといった「舞踏」といわれたときに連想するような動きとはまったく違う激しい動きである。オイリュトロミーの影響や独自に生み出された呼吸法など独自のメソッドもあるが、なんといっても特筆すべきは年をへても衰えないそのエネルギー。勅使川原三郎の例を見ても、ダンサーの表現は年齢とともに成熟していくのが普通だが、ことこの人に関しては年を感じさせないそのアバンギャルドな軽みに脱帽せざるをえない。
 舞踏系では山海塾や白虎社、大駱駝艦といった土方直系の弟子であった第2世代に続き、第3、第4の世代の活躍も目立つ。白虎社出身で京都に本拠を置くMassami Yurabeもそのひとりだが、即興色の強いソロダンスを得意とする彼の特色は通常舞踏が持つグロテスク・奇怪といったイメージとは一線を画し、流れるようなエレガントな動きの連鎖をそのダンスにおいて生み出していくことだ。
 舞踏出身ではありながら、現在はともに舞踏の伝統的なスタイルからはやや離れてバレエダンサーに振り付けるなど、勅使川原に続く日本のコンテンポラリーダンスの代表的な振付家・ダンサーと見なされているのが、伊藤キム(Kim Itoh)、山崎広太(Kota Yamazaki)。ともに自分のカンパニーでの振付も行いながら、ソロダンサーとしても卓越した個性を見せてくれるという共通点を持つ。
 伊藤は自らの活動のみでなく、カンパニーでダンサーとして活動していた白井剛(TSUYOSHI SIRAI)、黒田育世(IKUYO KURODA)が自らのカンパニーを設立して独立、ともに国内外の振付賞を相次ぎ受賞するなど若手有望株に成長するなど、日本のコンテンポラリーダンス全体の底上げにも貢献している。しかも、彼らは伊藤のスタイルを踏襲するわけではなく、例えば黒田の場合はバレエ団所属のバレエダンサーでもあるということから、伊藤から受け継いだ舞踏的要素とバレエの動きをミクスチャーした激しい動きの群舞で独自性を見せたり、白井の率いる発条トは映像・音楽などを駆使したマルチメディア系の作品で高い評価を受けるなど、舞踏の枠組みからは離れたものとなっている。
 山崎広太もまずそのソロダンサーとしての爆発的な身体能力の高さが魅力であるが、舞踏に加え、バレエや最近ではアフリカのカンパニーとの交流によって、アフリカンダンスの動きも取り入れるような柔軟性を持っている。
 一方、フランスなど海外のアーティストとの交流や海外の留学経験により、欧米流のスタイルを踏襲しながらも、そこに独自のテイストを付加した作品を創作しているグループもあり、今回のフェスティバル参加カンパニーであるMonochrome Circus(坂本公成)、Ludens(岩淵多喜子)、J.A.M. Dance Theatre(相原マユコ)らが挙げられる。
 京都在住でありながらフランスを拠点に作品を製作しているヤザキタケシやイリ・キリアンの弟子筋でNDT出身の金森穣もその活動に注目しなければならない振付家である。これらの振付家の特色はMonochrome Circusはコンタクトインプロビゼーション、金森穣はコンテンポラリーバレエと欧米流の技法を踏襲しながらも、日本人特有の表現の繊細性において欧州やアメリカのダンスとは違う個性を見せていることだ。
 特にMonochrome Circusは出前ダンスの「収穫祭」というコミュニティーアートとダンスの中間形態の新たな表現のありかたを模索。最近ではDumb Typeの照明家、藤本隆行とのコラボレーションやフランスの振付家、Didier Théronへの作品の委嘱など単独のカンパニーとしての枠組みを超えた多彩な活動を展開しており、そのボーダレスな活動形態が今後どのような舞台成果を生み出すのか注目している。

 つまり、ニブロールは日本のコンテンポラリーダンスのなかではダムタイプに代表されるマルチメディアパフォーマンスの系譜に入ります。その作品はダンスの振付家・演出家である矢内原美邦だけでなく、集団のなかには矢内原と同等の共同制作者として、オリジナルの音楽、映像、照明、衣装といったそれぞれの分野を担当するアーティスト*3が外部スタッフではなくて、すべて集団内にいて彼らのコラボレーションによって作品が創作されていくという形になっています。以上がニブロールコンテンポラリーダンスにおける位置づけですが、それではこれから具体的にはそのどこが面白い、あるいは刺激的と考えるのかについてこれから述べていきたいと思います。
 第一回のチェルフィッチュについては少し復習するとあの時、私はキーワードとして「現代口語演劇」「関係性の演劇」「身体表現」「異化効果=ブレヒト」などのキーワードを挙げたのですが、今回のニブロールではまず「ノイズ的身体」(あるいは桜井圭介氏の用語である「コドモ身体」)を挙げておきます。「コドモ身体」については『「ダンス」という「コドモ身体」 ニブロール論のための準備として』*4という論考に簡潔にまとめられているのでそちらを参照していただきたいのですが、桜井圭介氏によれば「コドモ身体」(=制御不能なアンコントローラブルな身体)ということになります。「コドモ身体」という言葉は誤解によって言葉だけがひとり歩きして、「子供みたいな身体」と単純に混同されていたり、あるいはコチラの論考では桜井氏自身が

珍しいキノコ舞踊団なんかも、これまではそれを評するに「カワイイ系」とはいうけど、「直截」に、「端的」に言ったら、まさに「コドモ」のダンス、ってことだよな。なんかみんな忘れたフリしてるけど、彼女たちのお歳、は言わなくても結成から数えて10年は経ってるわけで、少なくともティーンの少女たちではない。でもやっぱり「カワイイ!」としかいいようのない身体がそこにはある。それを僕たちは「コドモな!」というふうには意識してないふしがある。

などと意図的に「コドモ性」と「コドモ身体」を混同させるようなことを書いて*5
いたりします。珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝はコンテンポラリーダンスの世界に「コドモ性」を持ち込み、それは例えば奈良美智村上隆の世界と通底するところがあるのですが、キノコのダンサーが実年齢は違っても作品のなかではコドモのように幼く見えるというような擬態がそこにあるとしても、バレエによって幼少から訓練されている彼女らの身体は決して「コドモ身体」(=制御不能なアンコントローラブルな身体)とはいえません。それは制御不能というよりもその独特な脱力ぶりも含めて振付家の伊藤千枝により厳密に構成・振付・演出されたもので、そこには制御不能性が介在する余地はほとんど存在しないからです。
 ニブロールに戻りましょう。ニブロールのダンサーも一見、コドモのように見えるということはあります。矢内原美邦自身もそうだし、常連で出演しているたかぎまゆなど背も小さいし、珍しいキノコ舞踊団同様に「コドモ性」もそこにありますが、ニブロール=コドモ身体と考える理由はそこではありません。やはり、私としてはいろんな意味で紛らわしいので、ここからは「コドモ身体」という言葉の使用をやめて、私独自のテクニカルタームである「ノイズ的身体」と呼んでいくことにしたいのですが、ニブロールが「ノイズ的身体」であるのは次の理由からです。

 興味深いのは矢内原の振付で特徴的なことに動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではそれを身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていたことだ。
 ダンスの振付と一応、書いたが、通常「振付」と考えられている「ある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していく」というのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の独自性なのだ。もちろん彼女の場合にも最初にはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるが、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく(典型的にはW・フォーサイス。彼は彼の常識はずれの身体的負荷を持つ振付を具現化するためにサイボーグとさえ称される超絶技巧を身体化できるフォーサイス・ダンサーを育成した)のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだ。そして、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに矢内原の狙いがあると思う。
 ここで思い起こされるのはチェルフィッチュ岡田利規が言葉と身体の関係性のなかから生まれてくるある種の乖離(ずれ)の重要性というのをやはり強調していたことだ。それに至るアプローチの方法論としてはまったく異なるというか、逆のベクトルを持っているようにも思われるこの2人のアーティストが結果的に同じようなものを求めているのは興味深い。これは偶然ではないという気がしてならないし、「ノイズ的身体」という考え方があるとすると、これは「現代の身体」を考えていくうえでひとつのキーワードになりうる問題群かもしれない。(PAN通信「3年2組」レビュー)

これはPAN-PRESSというフリーペーパーに以前書いたミクニヤナイハラプロジェクト「3年2組」のレビューなのですが、上記のうち『「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出す』というのがニブロールのダンスとしての肝(きも)で、こうしたことを無意識にやっている振付家・ダンサーはそれまでにもあった*6が、それを確信犯として行ったのが矢内原美邦のダンスの新しさなのだと私は考えています。
 もっとも実はここで書かれたようなことがニブロールにおいて特に顕著であったのは「NOTE」までであり、これからお見せすることにしている「no direction」ではそれだけでもなくなっていますが、それでもそういうことを念頭において見ていただければここでもそういうことが試みられている場面が随所にあることがうかがうことができると思います。
「no direction」2007
 
 矢内原美邦の表現にはこの「ノイズ的身体」の部分だけに限らずに暴力的と称させる部分が随所に出てきます。それはなぜなのかということを聞かれて以前、神戸アートビレッジセンターのアフタートークのなかでの彼女が答えた答えがいまでも印象に残っています。「それはそういう世界の方が私にとってリアルだから」という風な答えでした。それは「NO-TO」という舞台で、実はその時に矢内原が平田オリザの「東京ノート」という作品について語った言葉が今でもすごく印象に残っています。実はその作品を最初に作りだした時には平田オリザの作品のことは知らなかったのだけれど、作品の表題が「ノート」だったせいで、いろんな人から関連性を聞かれ、気になって見に行った。それで、面白かったし、いろいろ考えさせられることもあったけれども、結局思ったのは「これは私たちにとっての今のリアルとは明確に違う」ということだったと言った。そのことがすごく印象的だったわけです。
 というのは平田オリザの「東京ノート」の世界は当時の世相というか気分を明らかに反映したもので美術館を舞台にしたその静謐な世界は喧騒に満ちていた80年代演劇に比べて90年代の半ばのポストバブルの時代をリアルに映しており、観客である私たちもそれを共有していた。そういうことがあり、例えば小説でいえば保坂和志とか、ジャンルが違っても感性を共有する感覚があったのですが、2000年代の半ばオウム真理教事件とか阪神大震災とか「9・11」の同時多発テロ事件とかをきっかけにある時期をきっかけに明らかに時代の空気が変わり、そこで描かれる世界は欧州の戦争という崩壊の予感を含みながらも、スタティック(静的)なものではなく、よりノイズに溢れた暴力性を感じさせるものであり、それは例えば小説でいえば舞城王太郎などの登場に象徴されるものでした。そしてニブロールは特にそのころの時代において東京の「いま・ここで」をリアルに写し撮っている表現として見ていく時、そこでは「制御不能性(=アンコントロール)」というのがカギを握っていると思われたからです。
MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.1「3年2組」
 
ニブロール

2003年ダンスベストアクト1位

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040201

ニブロール「dry flower」

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040228

ニブロール「no direction,everday」 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061029

ニブロール「ロミオORジュリエット」 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20080119 

ミクニヤナイハラプロジェクト

MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.1「3年2組」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050717

http://www.pan-kyoto.com/data/review/58-04.html

MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.2「青ノ鳥」(STスポット)http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060702/p1

MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.2「青ノ鳥」(吉祥寺シアター)=wonderland http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=736&catid=3&subcatid=4

ノイズ的身体

三浦雅士「身体の零度—何が近代を成立させたか」書評 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060617

MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.1「3年2組」舞台上で加速するノイズ的身体/矢内原美邦プロジェクト「3年2組」 http://www.pan-kyoto.com/data/review/58-04.html

永遠なる未完成に向かって/CRUSTACEAの「GARDEN」http://wwwsoc.nii.ac.jp/aict/myweb1_034.htm


コドモ身体

ダンスについての対論 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20051220

参考文献


「ダンス」という「コドモ身体」 ニブロール論のための準備として=桜井圭介

http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/shabi.html

「コドモ身体」ということ コンテンポラリー・ダンスにみる「歴史と記憶」(?)=桜井圭介

http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html

桜井圭介氏と武藤大祐氏(美学・ダンス批評)のネット対論

http://d.hatena.ne.jp/mmmmmmmm/20051204

ニブロール「NOTES」=門行人氏による批評文

http://kado.seesaa.net/article/16930372.html
 

*1:岡田利規 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社2007年2月刊)

*2:MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.2「青ノ鳥」(吉祥寺シアター)=wonderland http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=736&catid=3&subcatid=4

*3:矢内原美邦=振付・演出、矢内原充志=アートディレクター・ 服飾デザイナー、高橋啓祐=映像、スカンク=音楽・作曲家、滝之入海=ギャラリスト・画家、伊藤剛=プロデューサー

*4:「ダンス」という「コドモ身体」 ニブロール論のための準備として=桜井圭介http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/shabi.html

*5:「コドモ身体」ということ コンテンポラリー・ダンスにみる「歴史と記憶」(?)=桜井圭介 http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html

*6:JCDNの「踊りに行くぜ!!」などに出演した複数のダンサーの痙攣系の動きなどにこれが散見された。