演劇の身体表現とダンス

司会 今日は演劇特有の身体表現にこだわって、作品を作っている三人の演出家(上海太郎、宮城聰、安田雅弘)に集まってもらいました。
 上海さんは言葉なしでも身体表現だけで成立する演劇の確立を目指し、上海太郎舞踏公司を旗揚げしました。宮城さんの主宰するク・ナウカは身振りの俳優と語りの俳優を分離するという実験をしています。一方、安田さんの山の手事情社では、ダンスも含めた色々な身体表現が舞台上で共存するというような意欲的の取り組みに挑戦しています。
 いわばこの三人は現代日本演劇の身体というものを考えるうえで、最前線に立って創作をしているということが言えるのではと思っています。それでまず、皆さんに演劇における身体ということを話し合ってもらう前にそれぞれ、演劇とダンスの身体表現に違いがあるのかについて考えていることを述べてもらいたいのですが。

宮城聰

安田雅弘

上海太郎

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 宮城 うちの場合、動きだけやる人と台詞だけやる人に分かれていますから、動きだけやる人はダンサーを呼んできてもできるようにぱっと見は見えます。でも演技のムーブメントとダンスは違う。ダンスというのは音楽と本質的には同じで、身体を開放していく。つまり、やればやるほど気持ちよくなるというおおもとの構造を持っているわけです。
 逆に言葉というようなものは言えば言うほど気持ちよくなるものではない。むしろ、その本質は我慢をすることで、我慢して、我慢してというのが演技の動きだと僕は考えているんです。我慢というと少し誤解を与えるかもしれないので、言い方を変えれば自分を開放してしまわないで抑制する。例えば一連の動きの流れからこう動きたいというのを動かないとか、そういうことなんですが、演技の場合は九割ぐらいは抑制だと思っている。能なんかも踊っているようだけどほとんど抑制ですね。ただ、能でいえば舞うというときがあって、そのときには足が地面から離れる。つまり、演技の中でもダンスになる部分はある。オペラにレチタティーボとアリアの二分法があるのだけれど、説明的な部分と感情の風呂敷を広げる部分があって、その感情の風呂敷を広げる部分というのは全体のなかでちょっとなんだけど、その部分だけは快感原則に乗っ取ってもいい。
 でも、大半の部分では僕は役者に対しても、ここは踊ってはいけないという風に言っているんです。

宮城聰演出「王女メディア」(ク・ナウカ
 上海 役者は気持ちよくなるなということなんですか。
 宮城 そうですね、大体のところは。十のうち、一とかもっと少ないくらいは気持ちよくなってもいいんですが、基本的にはそうですね。
 上海 僕は少し違う。僕は自分を一応、役者として位置づけているんですが、台詞をしゃべりたくないなと思ったのは何故かというと、とちるのはいやだなとか、忘れたらいやだなというような、苦手意識のようなものがあって、舞台上で気持ちよくなれない。なんとか舞台で気持ちよくなれないと一生、役者をやっていくのもつまらないなと思った時にできるだけ自分を不愉快にさせるものを捨てようと思ったわけです。だから、今の宮城さんの話の全く逆なんだけど、自分が役者をやるからには気持ちよくなりたい。
 それでひょっとしたら、ダンサーは気持ちいいのかもしれないと、思ったわけです。動きでももちろん、いろいろなモチーフを身体の中に入れていったりとかそういう稽古の作業から実際に舞台にでても、段取りをとちるんじゃないかとか同じ様な危惧はあるんだけど自分はそのほうが楽だから。
 そういう意味では自分が舞台に立つのが楽しいから、その楽しさは観客と共有できるのじゃないかと思っているわけです。

上海太郎舞踏公司
 宮城 それは僕も最終的には気持ちよくなってほしいんです。ただ、十のうち九までは芝居というのは筋があるので、それは仮にマイムみたいな身体言語だとしても、人間関係のような部分で、例えばこの人とこの人が敵なんだけどその妹と恋に落ちたというような言語的な説明でしか説明できない部分があって、そのあげくになにか身体的な開放という言葉とは何の関係もない幸福な瞬間がある。滑走路がずっとあって最終的には離陸する瞬間を見せたいのだけど、九割までは滑走路というように考えているんです。ロックコンサートなんかだといきなり離陸して、後はその状態が延々と続くわけで、演劇はそうではないと思うわけです。
 上海 演劇とダンスの違いについて言えば芝居には時間の流れみたいなのがあって、つみ重ね法のようなものがある。例えば箱があって、それを一つ開けると中から別の箱がでてくる。こういう作業を延々と観客が続けていくと最後にこんな小さなものがでてきて、あ、これかという快感のようなものが、芝居のカタルシスになっていく。ダンスはそうじゃなくて、もっとポンと出てしまうもののような気がする。
 安田 今の二人の話を聞いて僕の考えに近いと思ったんですが、上海さんにお聞きしたいんですが、言葉をしゃべっていると快感から遠ざかるような気がして、言葉を捨てたとおっしゃっていたようなんですが。言葉は確かに不自由な部分をすごく持っていると思うんです。台詞をとちるという恐怖はたえずありますよね。毎日、同じことを言っていると、なおさらありますよね。ただ、動きの場合でもそうじゃないかと思うんですが。
 上海 それは個人的な得手不得手なのかもしれません。しゃべりが得意ならば、別の方向に行っていたかも。
 安田 ただ、道具として使う場合に、言葉というものより肉体の方がたぶん直感的に使えるんだと思うんです。つまり、間違いがより少なく使えると思うんです。疲れているとかいうことがなければ。
 上海 あと、間違いが分かりにくいというのはありますね。(笑い)
 宮城 それはそうだ。(笑い)
 安田 それだけ、言葉というのは脆弱な基盤のうえに成り立った技術なんだという気はするんです。人類史の中でも。そして、演劇というのはそれを駆使してやっている。
 僕自身が今の宮城さんの話も上海さんの話も聞いて、目指しているものが近いなと思うのは、最終的に言葉にならないものにしか感動というのはないんだというのは当然のこととしてあるんですが、僕自身は演劇の肉体というのはどこまでも名付けられるものになっていく肉体だと思うわけです。それに対して踊りが目指すべき肉体は名付けられないものになっていく肉体だと思うわけです。演劇というのは絶対になにかの役になるんです。なんでもないものであったとしても、なんでもないものという役なんです。ただ、具体的になんでもないものになれるかというと、これはダンスの方がはるかになりやすい。
 例えば、怒りそのものというのになれてしまう。演劇で怒りという役があったとしてもこれは怒りくんになっちゃうわけね。(笑い)

山の手事情社
 上海 怒りAとかね。(笑い)
 安田 でも、ダンスの場合には怒りそのものなんだなと感じさせるなにかになりやすい。言葉がない分だけ。だから僕はそれはもう逆手にとっているんです。演技というのは名づけられるなにかになるということ。ダンスをするということは名付けられないなにかになっていくということになる。
 うちの劇団で役者に月に何回か発表させるんですが、最初は人間の物まねをさせていくんです。ある時飽きてダンスもやろうぜといってダンスもさせ始めたんです。その時名付けられる肉体になるとダンスって見てて詰まらないなと思った。つまり、怒りちゃんになったらいけないんだなというのが分かったわけです。あるいは喜んだちゃんとか。そうではなくて喜びそのものにならないと見て全然感動的じゃない。
 ただ、僕自身も今の大半の演劇が伝えている内容に不満を持っている人間の一人ではあるわけです。これはたぶん宮城さんも上海さんもそうだと思うのだけど。つまり、演劇が本来伝えられることというのは絶対に戯曲化されないことだと思うわけです。
 今の社会が求めてるのは名付けられた人間がこまっしゃくれてあれこれやっていることではなくて、名付けられないものがどういうものなのかが、舞台表現に適したテーマだと思う。こうした時にいかに名付けられるものたちを寄り集めて、ひねくりまわして、名付けられない、ダンスに匹敵するような空間を築けるかというのが、演劇の課題なのであって、それを宮城さんは言葉と身振りを分けることで実現しようとし、上海さんは演劇人でありながら、言葉を捨てることで実現しようとし、僕は僕でごちゃごちゃやってる。こんな感じじゃないかと話を聞いてて考えたわけです。
宮城 その名付けられるものというのは言葉に置き換えられるものという意味でもないのでしょ?
上海 あいまいさでもないしなあ。
安田 最終的には役というのは人間になっていかないといけないと思うんです。
宮城 人間になる?
安田 つまり、神にはならないでしょ。それに宮城さんはある意味で絶望を感じたわけじゃないですか。人間にしかならない。神さまをたとえ演じたところで、人格的な神になってしまう。
宮城 それは、もっと単純に言えば、等身大を超えられないということ?
安田 超えられないでしょうね。僕はどちらかというと同じ人間がAにもなりBにもなり、その中間のなんだか分からない瞬間もあるという生理感覚を通じて、役者にとっての快感は絶対あるだろうなとは思っているんです。僕はこれをテンションの移ろいと呼んでいるんですが、テンションを八漕跳びのように越えていくことによっての快感。
 でも、それはテレビ俳優のやっていることとあまり変わらないでしょ。下手したら、テレビ俳優のやっていることの方がよほどドラマチックになる。
上海 そのことに関していうとちょうど今回の公演であるシーンでどじょうの役というのがあって、学生服を着たままどじょうになるというシチュエーションでお遊びっぽいシーンを一つ作っておいて、その後のシーンで、サラリーマンの格好をしてるんですが、そのシーンでもう一度、俺はどじょうになるということをやってみたんです。その時に一部の人間にそれはまずいんじゃないかと反対された。普通の人間の役を演じて僕の芝居としてはいつもの芝居よりも割ときちんとしたシチュエーションばかりで構成したものだったので。いつもの芝居だったらそこでいきなりどじょうになっても全然平気なのに、今回はその雰囲気がしっくり来ないように言われたんです。それでも、俺はやりたいからやると言
って本番でいきなりやってみたんですけど。
 その時に人間からどじょうになれるのかという境目のようなものがさっきのダンスと演劇の違いなのかも知れない。だから、今回はかなり演劇に近い方向に寄っていたのかも知れないと今の話で思った。
 少し話は飛ぶかもしれないけど、前の劇団*1をやめて、上海太郎舞踏公司というのを作ろうと思ったときにダンスをずっとやってきた友人と夜中に話していて、ダンサーですごいやつというのはやはり役者をやってもできるんじゃないか。役者的なセンスもあるんじゃないかなあというようなことを話したことがあるんです。そして役者もダンサーのようにきれのいい動きとか、表現力のようなものが持てるんじゃないかと考えて、そういう集団を作ろうと始めたわけなんです。
 で、やりだした時にどうなったかというと例えば空を表現しようということになった時俺は空を見上げた。ところが、もうひとりのダンスをやっていたやつは俺は空になった。そうかおまえは空になるか、俺は見たなあ。(笑い)それがダンスと芝居の違いかなあとかね。つまり、空を見たちゃんになったという。
安田 つまり、空を見た人ですよね。
上海 でも、空になるというのにはすごく引かれるものがあって、なるほど、踊るっていうのはそういう部分があるのかと思って。
安田 演劇で空になってくれというと空くんになっちゃうんだよね。ダサイですよね。空くんがしゃべったら。「みんなを受け入れる
よ」という台詞になったりして。
一同 (笑い)
安田 鳥も飛べるしさ、とか。
一同 (爆笑)
宮城 だけど、それは言葉をしゃべるのが人間だけだから。空は言葉をしゃべらないし、水も言葉をしゃべらないし、石もしゃべらないでしょ。言葉をしゃべっていて、しかも人間以外というのは難しいよね。ありうるのかな。
安田 だから、人間になることしかないだろうと思っているわけです。
宮城 結局、役者っていうことはそこで言葉を引き受けたという意味。言葉を引き受けたということはある意味で等身大になる。
安田 ならざるをえないということです。
宮城 そこがまた微妙なんだけど、大昔、あるいは歌はね……。
安田 あの話をしてくださいよ。昔から戯曲はあるけれど、それは詩だというやつ。
宮城 僕はそれは単純に自我というものが成立していなかったからだと思うんです。つまり言葉を言っていても人間以外のものになれた時代というのがあって。
安田 なるほどね。空になれたんですね。空くんなんてそんな寂しいものじゃなくて。しゃべった瞬間、空になった時があったと。
宮城 だから、ギリシャ悲劇には神さまがでてくるでしょ。言葉をしゃべる神さまがでてくる。ある意味では言葉をしゃべるわけがないんだけど。
安田 神様でも人格を持っていますものね。
宮城 そういう小さな神さまではなくて。つまり神さまといっても一神教的な考えというのはずいぶん後になってでてくるんですね。仏教なんかもそうじゃないし、日本の神さまも違う。原始的な世界では一神教ではないじゃないでしょ。日照りの時もあれば、氾濫する時もあるから、せこいことで復讐したりもする。でも、少なくとも等身大ではない。人間のけたを超えた怒りとか喜びとかをまきちらしたりする。
 ごく最近でもロシアとかはタルコフスキーとかを見てて、自我が弱い世界なんじゃないかと思った。
安田 弱いというのは、悪い意味で?
宮城 両面。一番えらいのはツァーリで、残りは虫けらというか。
安田 合理主義が発達しなかったからでしょ。
宮城 半分、宗教のせいだと思うけど。人間というのを認めてなくて、アリと人間とどこも違わない。神さまとそのほか。皇帝とそのほかという世界だから、そういう土壌だからこそ神秘主義のようなものが生まれてくると思うんだけど。
 そういう種類のことというのは今でも時々オペラ歌手なんかには顕現していると思うわけです。人格じゃない、つまり自我じゃない
ということが。
 一番僕が直接見て感動したのは、ニューヨークのハーレムの教会で聖歌隊の人たち、おばさんたちが歌っているのを見たとき。ソロをとる人は一番、声もでてうまいんですが、そこでは、しだいしだいに盛り上がっていくと自我が融けていく。だから、ソロをとっているからといって、「私がソロをとっている」という感じではない。
上海 なるほど。
宮城 聴いている人もあの人は歌がうまいとか考えなくなってくる。それはなにか神の言葉とか、もっと言えば命の泉みたいなものが聖歌隊の後ろにあって、それがジャーっと蛇口を通してでてくる。歌っている人もそうでない人も一つになっていて、私が、あの人がという感じがそこにはもう存在しない。そうすると、そこでソロをとっているボーカリストはもうソリストではなくなっている。
安田 近代主義におけるね。むしろ巫女さんだよね。
宮城 だからトータリストというか、石とかと同じなんですよ。あるいは森の一本の木とかと。森というものがあって、そこに一本の木があるのと、そこでは同じ状況になっている。だから、言葉があってもそういう状態が実現することはあるのかなと思う。
 僕がよく言うのは例えばキング牧師の演説がなんで成立してたかと考えると、やはりそういうものだったからではないか。つまり、あれを支えるコミュニティーのようなものがあって、今言った教会のようなところに週に一度はひたる人たちだから、キング牧師がアイ・ハブ・ア・ドリームと言っても、この人は希望を持ってていいなとは思わない。むしろ、希望があるという観念というようなもの
がふっと降りてくるという感じだったんじゃないか。
上海 うーん、すごくよく分かる話です。
宮城 だから、これをなんとか演劇でできないかと……。
上海 そのためには助走がいるというという。
宮城 そうです。
上海 自我の話はすごくよく分かりますね。自意識というものが結構、自分を閉じ込めているというか、それのフタをあけてもらってざーと自分が流れ出ていくような感じが、すごく気持ちいいというか、そのために芝居をやっているような部分はありますから。
 だから芝居によって非常にうまく作れたなと思う時はたまにそんな気分になる瞬間が来て、やったなと思いますから。




 

*1:そとばこまち