イデビアン・クルー「ウソツキ」( 1998年11/15=新宿パークタワーホール)

 新宿・パークタワーホール (1998/11/12-15 4ステージ) 全自由前売り3000当日3300
 振付:井手茂太 照明プラン:田島佐智子 音響:高梨史生 衣装協力:長谷川えつこ
 出演:金谷綾子、川村奈実、斉藤美音子、志小田綾子、角谷牧子、本田和子 本橋弘子、上野正輝、小山達也、中村達哉


 この作品は全体が4つのパートに分かれている。こうした構成は前作「包丁一本」と同じであるが、内容と印象はずいぶんと違う。全体的にダンサーの動きにすきがなくなり、イデビアン独特の動きを生かしながらも完成度がしだいに高まっていることが感じられた。半面、観客に緊張を強いる部分が増え、変なものをみたと単純に笑って帰れるものではなくなっていることも確かで、この当たりにもイデビアンの今後の方向性を占う鍵がありそうだ。

 いきなり、顔まで黒づくめ、黒の覆面にタイツ、お尻の部分だけにおなじみの名前入りの白のブリーフを付けたダンサーが登場する。これが第1部。この黒づくめのダンスが妙に気にかかる。身体を小刻みに痙攣させるような動きや腕を交互に上下させ、くねらせる動きなどはいつものイデビアンの動きだが、顔が完全に隠れてだれがだれだか分からないのがいつもと違う。こうした違いは普通に考えれば、顔を隠すことで身体の動きを強調することと、身体およびダンスの抽象性を増すことに狙いがあるようにも思われるが、この場合はどうもそうとは思えないので困惑させられる。いつものように白パンツに名前がでかでかと書かれている限りは抽象的な身体や運動などというものからイデビアンのダンスが相変わらず遠くにいるのは明白であるからだ。

 単純に言えるのはフィリップ・デュクフレにも似たような趣向があったが、黒ずくめのダンサーらが動くとなんとなくアニメを見ているようでもあり、変でおかしいということだ。

 第2のパートではピアソラアルゼンチンタンゴが流れ、2〜4人が組みあわされてのダンスとなる。この部分は一番、従来のイデビアンのダンスがそのまま踊られているところである。途中、カルパッチヨとかカルボナーラとかいい加減な掛け声をかけながら楽しそうに群舞しているのに笑ってしまう。そして、重要に思われたのはこのパートでダンサーが覆面を取って素顔になって出てきた時、いつも以上に顔の識別に気をかけるようになったし、妙に顔のついたダンサーが先ほどと違って生々しく見えたことである。ひょっとしたら、最初のシーンの覆面はそのシーン自体への効果もあるが、覆面を取った後の顔がいつも以上に裸体性として現れることを狙った部分もあるのかもしれない。しかも、その時に流れる音楽がピアソラであることもよりいっそうの生々しさを強調させる。

 そして、第3のパートは次々とダンサーの間で変化していく関係性を見せていく。基本的なパターンとしてはここで見せられるのは仲間外れの構造のようなものである。ちょっと油断しているうちに皆と同じことをやっていたつもりのダンサーはいつのまにか仲間はずれになっている。この時のリアクションがくすくす笑いをさそう。しかし、一方でここは無音の中で演じられるため相当の緊迫感も感じる場面であり、以前のように簡単に笑えるものではなくなっている。関西の公演であまり笑う観客がいなかったと不満の声を聞いたのだが、確かにこれは笑っていものかどうか迷う表現であることは確かである。 また、シーンは面白いのだが、根本的な疑問も感じた。これってダンスなのだろうかということである。これまでもイデビアンでは関係性を見せていくようなシーンはあったけど、もっと踊っていたのではなかったか。ダンスの振付の中に取り入れられた仕草性を通じて関係性を見せていく。これがイデビアンのひとつの特徴でもあった。

 しかし、ここではもはや井手茂太はダンス的な動きを振り付けることさえしない。かといってこれはどう考えても演劇とは言えないし、ピナ・バウシュのようなタンツテアトルとも違うものだ。例えば私は上海太郎舞踏公司を純然と演劇に分類しているのだが、それは例え言葉を使っていないにせよ、イデビアンと比べるとははるかに具象的な表現であり要素として演劇に分類できる部分が作品の基幹を占めていると考えるからである。 もちろん、上海太郎の場合は表現手法としてダンスパントマイムを駆使しているので当然、作品にはダンスの要素も入っているのだが、あくまでそれは「ダンスを要素として持った演劇」と考えている。

 それに対して、イデビアンの振付には仕草性のようなものがふんだんに取り入れられているとはいえ、基本的には「仕草性を要素に含んだダンス」というのがこれまでの見方であった。これはイデビアンの場合、パントマイムとは違って仕草性そのものに固有の意味はなく、そこから喚起されるイメージの方が重要だからだ。もちろん、このパートでも全くダンス的な動きが排除されているわけではないが、ここまで踊らないものをダンスといっていいのかというのはこのシーンも見ながらずっと考えてきたことだ。もっとも、これをダンスと呼ぶか、演劇と呼ぶかは問題ではなく、こうした表現を射程に含めるためにダンスと演劇の概念をどこまで広げられるかが問題なのだといわれればその通りではある。いずれにせよ、ここで表現されているものがなんと呼ぶのが適当であれ、純粋に「イデビアン的なもの」であることだけは間違いないからだ。

 しかし、一方でこの後再びピアソラに乗せて踊られるダンスというのが、「包丁一本」ですでに片りんは見せていたとはいえ、イデビアン特有のムーブメントのオリジナリティーは残しながらも、極めてまっとうに見えるコンテンポラリーダンスなのが気になるのだ。これで余計に前のパートとの対比が際立って見えるのだ。このシーンではイデビアンとしては珍しく足を上げてターンするようなきわめてダンスっぽい振付もある。もちろん、そうしたいかにもモダンダンス的なテクニックを使ったダンスは夾雑物として挿入されるイデビアン特有の動きにより分断されたりするのではあるが……。

 イデビアンの現在の多面性はおそらく、この4つのシーンのバラエティーにあるのだろうし、そう簡単にどれか1つの方向性に収れんしていくようなものではないのかもしれない。しかし、こうした両極端の要素を織り交ぜた作品を見せられるとより、ここからどちらの方向に行こうというのかが気になってしかたがない。第4のパートのような舞台を増やしていくのが世界的に認められるには早道であろうし、その中でも井手の才能は十分発揮されているのだが、あえてそれに背を向けていばらの道を行くのかどうか。確かに3番目のパートには今までのダンスにも演劇にもない新たな表現への息吹が感じられ、それを完成へと近付けることは魅力的なのだが、その分それは困難な道でもあろうと考えざるをえないからである。