山中透インタビュー「ダムタイプと音楽」

 ダムタイプ(dumb type)の音楽といえば池田亮司のイメージが強いが、代表作である「S/N」をはじめ、活動初期から中期においてその中心メンバーであった古橋悌二とコンビを組み、音楽監督として作品制作を支え、その礎を築いたメンバーのひとりが山中透であった。山中はダムタイプ結成以前からの古橋の音楽仲間としてほかのメンバーの知らない古橋の一面を知る人物でもあった。ダムタイプの系譜を巡るインタビューの第2弾では前回取り上げた照明家、藤本隆行に続き、山中を取り上げ、また違った側面から当時のダムタイプの姿に光を当ててみた。
——山中さんがダムタイプの活動に参加することになったきっかけから簡単に話していただければと思うのですが。
 山中透 高校の時から音楽をやっていて、バンドではドラムとかをやっていました。古橋(悌二)のことは大学入学時にはバンド仲間の横のつながりで知っていて、当時からドラムが天才的にうまくて目立つ存在だった。ダムタイプのほかのメンバーは京都市立芸大の出身なのですが、僕は違うのです。大学(関西大学)に入った後はそこで知り合った友人が滋賀に住んでいたために京都を中心に音楽活動をすることになったのです。京都の音楽大学の教授らが集まって作った現代音楽の同好会に入っていて、そこでジョン・ケージの作品を使ったパフォーマンスみたいなことをやっていたことがあり、そこに古橋(悌二)が見に来て知り合いになった。そこで話をしたところ、2人ともパンク・ニューウェーブロックやイギリスのアバンギャルドジャズロックのバンドである「ヘンリー・カウ」が大好きだったことなど聞いている音楽の趣味が近かったのもあり、意気投合し、一緒にバンドをやることになったのです。当初はエレクトロニックポップ系のバンドで最初は4人組でORGと言ったのですが、その後、メンバーが1人抜け、古橋のほか女性と3人でノンジャンル・アルタネーティブ系バンドのアール/スティル(R-Still)になりました。
ヘンリー・カウ

 一方、古橋は京都市立芸術大学入学後、バンド活動と並行して、学内の「座カルマ」という演劇集団に所属していて、演劇の方にも興味を持っていた。そのうちパフォーマンスの方に目が向きだして、ダムタイプの原型みたいなことをやりはじめた。その関係でビデオ作品も制作して、その音楽は自分で作っていたのだけれど、プロトタイプの作品を制作してみるとあまりにもしんどい暗い作品になってしまったため、それで手伝ってくれということになって一緒にやることになりました。
——実際に活動に参加したのはどこからですか?
 山中 古橋と一緒に音楽活動はしていたけれども、ダムタイプ(当時はダムタイプシアター)は京芸(京都市立芸術大学)の学生の集団と思っていたので積極的にかかわろうという気はなかったのです。曲を最初に作ったのが「風景収集狂者のための博物図鑑」のサウンドトラック。その後、「庭園の黄昏」から本格的に作るようになりました。ところが、本公演を見に行ってみると、僕自身が作った音楽をかけ間違っていたり、曲が途中で止まったりしたため、「僕がオペレートしようか」ということになったのです。オレンジルームでやった「睡眠の計画 #3」(1986)からは音響もやるようになりました。
 ダムタイプの音楽はほとんど山中透/古橋悌二の共同創作の形をとっていましたが、これは古橋は音楽以外のこともやっていたこともあり、原型みたいなのを僕が作り古橋のところに持っていき、それを古橋が最終的にまとめていくような形態が多かった。もっとも実際の形態は多様で音楽だけを取っても、その時作った曲がその時は使われず別の作品で使われることもあえば、僕が持っていった曲が最初から作品に取り入れられていて、パフォーマンスの土台となっていることもありました。
 ダムタイプとの関係というのは私の場合は古橋との関係で、ほかのメンバーがやるように作品制作のためのミーティングに参加したことはなかったし、そうする気もなかったのです。というのはこと音楽に関しては話ができるのは当時のメンバーのなかでは古橋だけで知らない人が多かったので、古橋以外のメンバーと話し合うことにあまり意味がないことが多かったからです。

——ダムタイプが共同創作といっても要素によって違いはあったということですね。
 山中 そうです。例えば「pH」という作品ですが、これは最初のシーンにドイツの作曲家であるマニュエル・ゲッチングという人の「E2−E4」という曲が使われているのですが、これはニューヨークのクラブシーンではよく明け方にかかっていた曲。実は「Pleasure life」(1988)のワールドツアーを通じてニューヨークやロンドンのクラブシーンにどっぷりと浸かることになったのだけれど、その当時そこで遭遇したクラブ・ダンスミュージックの方がそれまで作ろうとしていた当時実験的とされていた音楽よりも先鋭的ではないかと感じ、古橋と(パフォーマンスに使う音楽も)「このままではいけない」と思い、それで「pH」ではそれまであまり舞台には取り入れられることのない最先端のクラブカルチャーサウンドを取り入れることをひとつのテーマとしました。
マニュエル・ゲッチング「E2−E4」

 日本にはその時点でほとんどクラブシーンがなかったので、大阪で活動していたシモーヌ深雪らも誘って、後の「DIAMONDS ARE FOREVER」のようなオーガナイズしたワン・ナイト・クラブなど夜の活動をはじめたのも当時のことでした。
 87年ごろにインドのゴアに行ったメンバーが持ち帰った音源でヨーロッパのクラブで最近こんなのがよくかかっているということを知り、それが後にニュービート、あるいはハウスと呼ばれるようになる音楽だったわけですが、何が起こっているのだろうと興味を持ったのです。それで88年にはニューヨークの公演中でもクラブに行っていたのですが、初期のハウスミュージック全盛の時代でした。いろんな曲をミックスして同時に流すと個別に聴いたのとはまったく別種の音が聴こえてくる。視点を変えると同じものでも見え方が変わる。そして今これをやっておかないとと思い「pH」でこれを試そうとしました。「S/N」で「アマポーラ」の曲に合わせて、爆音をかけているところも、そういうことの延長線上にあります。
ナナ・ムスクーリ「アマポーラ」

 ただ、そういうことは舞台作品の場合あまり分かってもらえないことが多くて、音楽がたとえ先鋭化していってもあくまで舞台の一部としてしか受けとられていない。こちらとしては「pH」をひとつのライブだと思ってやっていた。しかし、いくらライブだと言ってもそう思って見てくれる人は少ないし、それまでの作品とは全然違う表現なんだということが分からない。結局、「pH」は2年以上ツアーをやってしまったのだけれど、それで内心もうダムタイプはいいだろうという風に思いはじめました。ツアーばかりで自分の作品を作る時間がないし、次第に集団にいる意味がないんじゃないかと考えはじめたからです。
——その次の作品が「S/N」で結局これにも参加なさいましたね。
 山中 「pH」の後がホテル・プロ・フォルマと共同制作した「エニグマ」でこれには最初、古橋も参加しました。ところが、途中から体調を崩して帰国。メンバーのそれぞれに「実は自分はエイズで……」というHIV感染を告知した手紙が届いたのです。それで私には「次の作品も音を一緒にやりたいからよろしく頼む」と……。これではここでやめるというわけにもいかなかったことは確かです。
——山中さんは古橋さんとはもっと近しい存在でしたから驚かれ、ショックを受けたのではないですか? 
 山中 そうですね。メンバーには衝撃的なことだったのですが、実は私は古橋になにかが起きたのではないかと薄々気がついていたのです。元々、私と古橋はツアーの最中にも頻繁にクラブに出掛けていたのですが、「pH」のツアーの時の古橋の遊び方はむちゃくちゃで尋常じゃなかったのです。ドラッグもやっているみたいで、本番中でも朝まで帰ってこなかったり、自分をコントロールできないようでした。体調もよくなくて、発熱もよくあったみたいで、僕の知り合いにも「HIVポジティブ」っていう人が出てきていたこともあり、もしやと思って心配してはいたのだけれど、僕は気をもんでいただけで何もできなかった。だから、やはりそうかとつらかったけれども意外ではなかった。ただ、そういう古橋の夜の生活を多少とも一緒したのは僕だけで他のメンバーはそれほどいかなかったからそういうことも知らず、ショックは大きかったと思います。
 
——「S/N」はどんな風に作られたのでしょうか?
 山中 「S/N」のコンセプトはゲイ/ストレートの対立項として進行していく。もともとのコアメンバーには(古橋のほかに)ゲイの人はいないし、自分の性的志向について悩んだ人もいなかったため、私自身としては理不尽な作品だと思うこともあったが、コンセプトには口をはさまなかった。ただ、(今考えると)パフォーマンスの純度を上げるためにはそういう単純化も必要だったかもしれない。
 ダムタイプをやめることにしたのはこの作品の途中で古橋が亡くなったことと、途中から池田亮司が手伝ってくれて、やめる機会が来たと感じたからです。ただ、実際にはその次の「OR」も池田亮司と私がそれぞれ曲を提供し、サウンドスケープはすべて私がやっていて、音響オペレーションも2人でやっていました。そして、「memorandam」の最初のツアーにだけ参加してそこで抜けることになりました。
ダムタイプ「OR」

ダムタイプ「memorandam」

  
——それではダムタイプから離脱したのは他のメンバーと折り合いが悪くなってというわけじゃないのですね。
 山中 それはないです。ダムタイプでやるということはなくなりましたが、今でも個々のメンバーとは付き合いがありますし、一緒にやったりもしていますから。ただ、シーンができて、それに音をつけるというようなことはやりたくなかったので、音楽について僕の個人的な手法を理解をできる人がいなくなってしまったのは大きかった。特に「OR」をやって分かったのは古橋(悌二)の不在が大きくて、それまでいかに作品を古橋を通してしか見ていなかったかというのが浮き彫りになりました。
——ダムタイプ退団後はオン・ケン・センと仕事をしていて、これは今も続いていますがこちらのきっかけは?
 山中 最初は2000年のツアーの最中に半年ぐらいヒマができて、この時に声をかけられて、シアターワークスのワークショップに参加したのがきっかけでした。指輪ホテルとグラインダーマンとのコラボレーションに参加した後、中国、タイ、スウェーデンのダンサーらが参加した「グローバルソウル」というダンス作品、谷崎潤一郎の「細雪」を原作にした「シノワズリー」という演劇作品の音楽を担当しました。

 2006年にシンガポールで制作した「ディアスポラ」という作品は今年(2009年)夏にスコットランドのモスリム系の家庭で育ったアーティストと共同制作した20分ほどのシーンを付け加えてエジンバラ国際フェスティバルで上演しました。
——高橋匡太とのコラボレーションユニット「flo+out」もありますよね。
 山中 こちらは2000年にパリでフランス人の企画したフィルムフェスティバルが最初でした。「flo+out」というのはいろんな意味にとれるようにとこうしたもので、一応、「浮遊的な」という意味ではあるのですが、「だます」「あざける」というような意味も含まれています。今年もせんだいメディアテーク高橋匡太インスタレーションの展示をした際に作曲および音響を担当しました。このところ毎年1作品ぐらいのペースで続けているのですが、こちらはパフォーマンスとしてやる時でも(舞台作品ではなくて)美術インスタレーションに近いパフォーマンスをやりたいと考えてやっています。2010年は4月にミラノで建築家の人とのコラボレーションによりインスタレーションを予定しています。

——今年はMonochrome Circusの「緑のテーブル」「レミング」の音楽も作りましたね。
 山中 「緑のテーブル」の音楽をやることになったのは振付を担当したじゅんじゅん(水と油、じゅんじゅんSCIENCE)に東京で「flo+out」の公演を手伝ってもらったことがあって、その縁で一緒にやりませんかと頼まれたのがきっかけでした。その時に坂本公成とも出会って、まあ彼の方ではダムタイプ時代から私のことを知っていたようなのですが、彼から新作「レミング」の音楽も依頼されました。こちらは急に話が来たこともあり、リハーサルが見られなかったこともあり、クリエーションは大変だったのですが、面白い状況になっています。Monochrome Circusとは来年(2010年)春にはワークショップをしようかという話も進行しています。
——ダムタイプないし元ダムタイプのアーティストとのコラボレーションもけっこう多いですよね。
 山中 ダムタイプパフォーマーの薮内美佐子とは2007年1月に芦屋市立美術博物館でやった美術家、松井智恵とのコラボレーション「PICNIC」で一緒にやりました。彼女たちは一緒に作品作りをしていてすごく楽しくて、今もっとも楽しく仕事できる美術家です。実は現代音楽のアーティスト、山本将士と共同制作で中ホール以上の規模で現代オペラ・音楽パフォーマンスを制作しようと準備を進めていて、私は演出を担当。これに彼女らも参加してもらうつもりだったのですが、これは相手の音楽家が体調を崩してしまい予定が先延ばしになってしまいました。
 パフォーマーだった田中真由美とはヴォーカルのおおたか静流による音楽ユニット「UN(ユーン)」というのをやっていて、田中はテルミンとキーボードを担当してライブ活動をしています。彼女はダムタイプには「pH」から参加してもらったのですが、元々私がよく通っていたレンタルレコード店で働いていた店員で、そこで知り合って古橋に紹介してダムタイプのメンバーに入りました。
 ——高嶺格のパフォーマンス作品にも音楽で参加していらっしゃいましたよね。
 山中 アイホールで彼が制作した3作品のうち2作品のクリエーションに参加しました。音楽を提供したりもしていますが、本当は彼の場合は全部自分でやった方が面白いと思うので、音楽も自分で作ればいかがですかと言っています。ただ、今年夏に制作した作品については「一緒にやりたい」と彼から話はあったのですが、その時にはオン・ケン・センのエジンバラ国際フェスティバルのツアーの方が先に決まっていたので手伝うことができずに残念なことをしました。