チェルフィッチュ「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」

 「ゼロ年代(2000年代)」の終わりから、「テン年代(2010年代)」の初めにかけて、演劇・コンテンポラリーダンスに顕著な傾向は2つの領域の境界に位置するボーダレスな表現が増えたことだ。最近のwonderlandレビューでも音楽家・ダンス批評家の桜井圭介氏がダンスの側から神村恵カンパニー「385日」を素材*1に「演劇なんだかダンスなんだか分かんないよ」的な演劇やダンスの流行現象を取り上げているが、さらに演劇側の例として快快、東京デスロック、ままごとなど「テン年代」と言われる若手劇団の舞台を挙げることもできる。
 個々の例は個別に精密な検証が必要だと思うが、演劇、ダンスの境界領域の表現が出てくるきっかけはチェルフィッチュ岡田利規ニブロール矢内原美邦の活動であることは間違いないだろう。ニブロールを率いる矢内原が演劇領域で展開する「ミクニヤナイハラプロジェクト」についてはすでにwonderlandでも紹介しており、興味のある人は参照してほしい*2が、今回はチェルフィッチュの新作を対象にこの「演劇・ダンス」問題を考えてみたい。
 「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」は第1部「ホットペッパー」、第2部「クーラー」、第3部「お別れの挨拶」という関連はあるが、独立した短編も捉えることもできる3つの部分から構成されているオムニバス短編集である。それぞれの場面には「ホットペッパー」=ジョン・ケージ(現代音楽)、「クーラー」=トータス(ポストロック)、「お別れの挨拶」=ジョン・コルトレーン(ジャズ)とジャンルの違う音楽が全曲そのまま使用されている。戯曲(テクスト)の構造はほぼそのまま音楽の構造をなぞるような形になっていて、この舞台は全体としては3楽章の交響楽のような構成となっている。音楽と身体所作はある種のダンス作品と同様に重なり合いひとつの表現となる。だが、それは例えばヒップホップのように、直接音楽に対して特定の動きが結びつくという「音はめ」的なものではなくて、音楽(構造)⇔言語テキスト(意味性)⇔身体所作(動き)という風に間接的な関係となっていることには注意しなければならない。
 描かれるのはとある会社のオフィス。下手には机と椅子が置いてあり「ホットペッパー」はここで展開される。いずれも派遣社員である3人の若者が登場し、どうやら派遣の同僚であるエリカさんの送別会の幹事を担当しお別れ会の会場を決めることになった3人のとりとめのない会話がそれぞれのモノローグとして交互に語られていく。
 次の「クーラー」では男女2人の正社員が登場して、「クーラーの設定温度が低すぎる」「犯人は誰だか分かっている」などと延々としゃべり続ける。これは舞台中央がアクティングエリアとなる。
 最後の「お別れの挨拶」は契約を打ち切られた派遣社員エリカさんの最後の出社の朝に会社でしたお別れの挨拶である。論旨もあっちにいったり、こっちにいったりという全然駄目な挨拶なのだが、そのなかに出掛ける時にドアの前に死にかけていたセミをついヒールで踏んでしまった、というエピソードが出てきて、踏まれたセミと彼ら簡単に切られてしまうかもしれない派遣社員らの現状が少しだけ重なるような仕掛けがほどこされている。
 全体としては不況のあおりをうけて、1人の派遣社員が契約を打ち切られるという筋立てなのだが、こういう種類の駄目駄目な若者たちを描かせたら、岡田の活写力は群を抜いている。この辞めさせられる派遣の送別会を同じ派遣だからという理由で「明日はわが身」の派遣の若者たちに自分で決めさせているというシチュエーションに岡田一流の皮肉があるわけだが、だからと言って自分はなんとかしたいという気概も危機感もなく、ある種の諦念だけがあり、思わず「自分の送別会のお店のタイプの希望、みんなでちゃんと伝えあって、把握しておいたほうがいい」などと提案してしまうような登場人物たちのどうしようもない情けなさに思わず笑ってしまった後、少し哀しくなってくるのだが、これが日本の凋落の現実を象徴しているとも思うのだ。
 岡田の舞台のジャンルボーダレスな特徴は出世作となった「三月の5日間」が演劇評論家より先に一部の舞踊評論家らの熱狂的な支持を集めたことからもうかがい知ることができるが、今年(2010年)発表された2つの新作「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」と「わたしたちは無傷な別人であるのか?」はそれぞれまったく異なるアプローチでありながらそういうボーダレス的特徴は強まっており、演劇とダンスの境界領域での新たな表現の可能性を探る試みとしてきわめて興味深いものであった。
 チェルフィッチュの特徴のひとつは俳優がたえず手や足をぶらぶらさせたり、落ち着きなく動き続けているという独特な演技スタイルにある。ここがダンス的とも評されるところで、一見無造作にだらしなく動いているように見えて、実は細かく演出された動きであり、そこには日常の身体の持つ不随意運動のようなノイズを俳優の演技にとりいれようという狙いがある。これは日常的な身体のあり方を舞台に取り入れようと試行錯誤してきた最近のコンテンポラリーダンスの成果の演劇への応用と見て取ることも可能で、そこにこの集団が演劇よりも先に一部の舞踊評論家により注目され、ついにはトヨタコリオグラフィーアワードにノミネートされるなど一定の評価を受けた理由がある。ノイズ的な動きもこれまでの演劇だったら、「やってはいけないこと」の典型なのだが、そこには現代人の身体と言葉の乖離という現象への岡田の鋭い問題意識がうかがえる。この絶妙のミクスチャーがチェルフィッチュを同世代の劇作家たちのなかでも飛びぬけてユニークな存在としているところだ。
 「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」はこうした不随意的ノイズをさらにデフォルメして拡大したようなところがあり、その意味ではその立ち位置は「三月の5日間」などより、ダンス的な要素は強い。これは「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」が変則的な作られ方をしたのとも関係があるかもしれない。というのはこの作品は3つの部分が最初から全部あったのではなく、まず最初に「クーラー」が2004年に制作され、その後、やはり「ホットペッパー」が単独の作品として吾妻橋ダンスクロッシングで発表され、最終的に最後の部分が付け加えられて、現在の形になった。そして、「クーラー」はもともとダンスの企画に参加した岡田が「ダンス作品」として構想、制作した。
 チェルフィッチュの独自の身体論は興味深いが、一部の舞踊評論家のようにそのことだけに拘泥することにはやや違和感を感じる。というのは私はチェルフィッチュの本質は演劇であり、その身体論はチェルフィッチュ独自の言語テキストと不可分なもので、あいまってはじめて意味を持つものだと考えるからだ。
 先にも書いたようにこの舞台での身体所作は「三月の5日間」などと比べると言語テキストからの独立性は高いが、その基本的な動きは台詞と演技で示される「演じられる人」のリアリティーを補佐するためのもので、動きのみを独立して切り離せるようなものとは言い難い。欧州ツアーの劇評でダンスと見なされることが多いのは字幕が入るにしても日本語が聞きとれる場合とそうでない場合では見え方に偏差がでてくることが否めないからではないか。
 主題的にも岡田は「フリータイム」(2006年)、新国立劇場に書き下ろした「エンジョイ」(2008年)とロスジェネとも呼ばれている若者世代の置かれた不安定な雇用労働状況を背景とした作品を発表しており、この作品もそれに準じたもので、そういう意味では「クーラー」など個々の場面を取り上げればダンス的な要素は強くても基本的には演劇の範疇にはいる舞台だと思う。
  
 岡田の芝居は「超リアル日本語演劇」などと言われ、この「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」も若者特有の地口をふんだんに取り入れたところなど「三月の5日間」などで言われた特徴を受け継いでいる。その第1の特徴は平田オリザ以降の現代口語演劇の劇作家たちがそうであったような群像会話劇ではないことである。それはモノローグを主体に複数のフェーズの会話体を「入れ子」状にコラージュするというそれまでに試みられたことがない独自の方法論により構築されるまったく新しいタイプの「現代口語演劇」なのだ。
 チェルフィッチュではよく役者が舞台に登場して「これからはじめます」と客席に向かって語りかけるところから舞台がはじまる。この客席に向かって語りかけるモノローグはブレヒトの異化効果やシェイクスピアの傍白を連想させるが、こういうモノローグ的なフェーズと会話(ダイアローグ)を自由自在に組み合わせてテキストを構成していくのが大きな特徴だ。作品のなかで提示される出来事は多くの場合、伝聞ないし回想として語られ、リアルタイムにいまそこで起こっていることとしては演じられない。断片化されたエピソードは実際に出来事が起こった時系列とは無関係に行きつ戻りつしながら、ループのような繰り返しを伴い、コラージュされたテキストのアマルガム(混合物)として観客に提示されていくのだ。

 ここでブレヒトの例を出したのはおおげさな物言いに聞こえるかもしれない。しかし、実は岡田自身も刺激を受けた劇作家として、平田オリザと一緒にブレヒトの名を挙げており、まったく的外れなものというわけではない。平田の方法論と対峙し、それを超克するためのモデルのひとつがブレヒトだったことも確かのようなのだ。つまり、岡田はもともとは平田オリザの強い影響のもと演劇活動をスタートさせたと語っているから、そういう中で平田の引力圏から離れ独自の演劇を模索していくためにはそのぐらい大上段の存在が必要だったのだということも言えるかもしれない

 例えばある場面をある俳優が語るとすると、そこには「その時の自分」と「その時の会話の相手」、さらにそれに加えて「その両方を俯瞰する第三者としての自分」という小説でいう地の文的のような階層の異なるフェーズが岡田のテキストには混在している。これをひとりの俳優が連続して演じわけていくわけだ。そうすることで演じる俳優と演じられる対象(役柄)との間にある距離感を作るのが、岡田の戦略で、さらに舞台では同じエピソードを違う俳優が違う立場から演じ、それが何度も若干の変奏を伴いながらリフレインされる。
 岡田の舞台のアフタートークク・ナウカの宮城聰はチェルフィッチュのスタイルをピカソキュビズム絵画の傑作「アビニョンの娘たち」になぞらえた。その発言は本質を鋭く突いており、非常に興味深いものだ。ピカソは「アビニョンの娘たち」で本来は同時には見えないはずの複数の視点から見た対象の姿をひとつの画面に同時に置いてみせた。岡田の舞台では複数の俳優が同じ人物を演じることで、それぞれの人物について、複数の視点を提供し実際に舞台上で演じられている人物の向こう側に自らの想像力である人物像を再構成する作業を観客にに要求する。それはある時は上から、ある時は横からと見え方を変えてリピートされ、それを見る観客はインターテクスト的な読み取りによって「そこで起こったことがなんだったのか」を脳内で再構築することになる。これが岡田の作る舞台がそれまでの演劇と決定的に異なるところなのである。
 以上がこれまでいろんな媒体に折にふれ書いてきた「三月からの5日間」から「労苦の終わり」「目的地」「フリータイム」などに対する説明ということになるが、このうちそれぞれの人物への複数の視点のようなものは「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」では薄れていた。
 実は今年発表されたもうひとつの新作「わたしたちは無傷な別人であるのか?」は「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」では捨ててしまった複数の視点やインターテキストな読み取り、脳内での再構成といった要素を重視した作品であった。
 新作「わたしたちは無傷な別人であるのか?」ではその岡田があっさりと生命線とも言うべき口語文体の台詞を捨ててしまう。
 岡田の方法論は90年代以降の群像会話劇中心の日本演劇の流れを根底から変えてしまうほどインパクトがあり、興味深いものであったが、私は以前からその方法論が口語文体を使う時にその言葉が現代の若者特有の口語文体であるということに若干の危惧を覚えていた。というのは実は身体表現も台詞回しもそういう口語体に基礎づけられたものである限り、チェルフィッチュの方法論の特異性が生かされるのはその言葉と合致したような登場人物が描かれる時だけで、登場するのが例えばフリーターとか学生とかじゃなくて、40代〜50代のサラリーマンだったりしたら、岡田が表現したような様式で演じるのは不可能とは言わなくてもアンリアルであり、あの方法によるハイパーリアリズムが展開できるのは実はそれにふさわしいような人物のみが出てくるような世界だけではないかという疑問からなのであった。

 つまり、リアル/アンリアルというのなら、岡田の芝居に出てくるような若者が実際に東京にはいるのと同様に平田オリザの芝居に出ているような人たちも実際にいるわけで、この差は演劇が古い新しいではなくて、どういう人物を描くのかという選択に過ぎないのではないかということなのだ。

 事実、自ら脚本を担当した以外の他人の脚本を演出した舞台において、あまりいい評判を聞かなかったこともある。全部を見ることができたわけではないが、安部公房「友達」の舞台を見た感想では岡田の方法論は離れがたく密接に岡田の書く特異な戯曲のスタイルと結びついているため、岡田が自分流に書き換えてしまうのでなければほかのテキストにこれを適用するのは難しいのではないかと思えた。

 この疑問はまだ解かれぬままに私の中にあるが、この「わたしたちは無傷な別人であるのか?(以下無傷と略)」はそういうことを置き去りにして、これまでのチェルフィッチュとはまるで違う方法論によって展開していく。

 まず、これまでのチェルフィッチュでは第三者の伝聞という形で一人称の台詞が語られるためにそこではすべての台詞はモノローグなのであり、話者は「私」なのだった。ところがこの「無傷」ではほとんどの台詞は台詞でさえなく、まるでナレーションのように「幸福な人がいました」というように三人称で状況描写あるいは情景描写として語られる。つまり、この芝居において岡田はハイパーリアルと言われた口語体を捨て去ったというだけでなく、特に前半部分について台詞のほとんどは「○○があって、それでどうした」というような出来事と光景のみが語られるのだ。

 ここでの台詞はほとんど脚注やナレーション、情景描写に近いが、興味深いのは台詞をしゃべる話者が「この人」と言う時に多くの場合、対象となる人物を演じる俳優が別にいる。ところがその人物を演じる俳優は通常の意味で人物を演じるということはほとんどしないで、ちょうどチェルフィッチュの俳優がこれまで台詞を言いながら、あるいはほかの人の台詞を聞きながらしていたように小刻みに手足を揺らしていたり、あまり意味のないような動きをしている。ここでの動きが唯一これまでのチェルフィッチュの方法論との共通項といっていい。だが、同じく無意味に見えるような動きをしても、この「無傷」では動いている俳優は台詞を言っておらず、ほかの俳優が話す台詞の内容とも直接は関係ない動きをしている。そのため動きは演劇的な意味性とはむしろ切り離されていて、微細かつ微妙な動きはある種のダンスと近いものとなっている。しかも、この対象となる人物は物語の後半部分で3人の女優が交互に「台詞」「動き」を担当して、同じ人物のことを演じていく。そんな風に役割が固定してないのも、チェルフィッチュのこれまでの方法論を受け継いでいると言えるのかもしれない。
 ナレーション的な部分はもちろんだが、この芝居の主人公は前半から描写されている若い夫婦で後半にはその夫婦を訪ねてくる妻の会社の後輩であるらしい若い女性との会話にもほとんど棒読みに近いような言い方をさせていて、それまでのチェルフィッチュにはあった口語体の微細なニュアンスなどがすっかり抜け落ちてしまっているというのが「無傷」の大きな特徴である。
 この結果見ている観客にどういうことが起こるかというと「台詞」の俳優は舞台上で次第に透明化していき、その言語テキストの意味性だけが残り、逆にその言語テキストで規定された状況を参照項としてそれを手がかりに微細な動きを続けている俳優の「動き」そのものを注視するようになる。もちろん、言語テキストを使っているから、そこに舞台のなかの演劇的な要素は無視できないものとしてあるのだが、実はこの部分の「言葉」と「動き」の関係はダンスにおける「音楽」と「動き」の関係に近い。
 もちろん、この「無傷」には単純とはいえ、ある若い夫婦が最近できたばかりの高層マンションの上層階に自分たちの部屋を最近手にいれ、そこに妻の会社の後輩が訪ねて食事をする。そして、そのことで妻の方が幸福な中にもそこはかとなく生きていることの不安を感じるという物語の枠組みはある。けれども、この舞台はその見ている時に感じている面白さのほとんどが、細かな動きをしている俳優の動きそのもののディティールにあって、「台詞」はあくまで透明なものとしてそれを飽きずに見せ続けるための仕掛けのように私には感じられた。だから、インタビューなどでは岡田自身は物語を重視したとしていたが、この作品からはダンス的な要素をむしろ強く感じた。
 この2作によって試みられたことはまったく方向性は異なるが、どちらも「三月の5日間」で試みたことの延長線上にあり、その表現領域を広げる行為であった点では共通している。
 岡田の最近の発言などを聞いているとどうやら本人は現在は今後の可能性を「無傷」で試みたことの方により強く感じているようだが、チェルフィッチュ特有の口語表現の魅力はむしろ「ホットペッパー」の方にあり、こうした口語表現を完全に放棄してしまうのは惜しまれる。いずれにせよそこからどんなものが新たに生まれてくるか。注視していかなければならないであろう。