宮部みゆきとシベリア少女鉄道と京大ミステリ研

 宮部みゆき「心とろかすような」を読んで初めて気が付いたのだけれど、このシリーズって(ということは宮部みゆきのデビュー長編「パーフェクト・ブルー」も)犬の一人称描写で書かれていたのね。というようなことをわざわざ書いたのはこの短編集を読んでいて京大ミステリ研時代に先輩が書いた犯人あてにやはり犬の一人称描写で書かれていた「犬は知らなかった」という作品があったことを思いだして懐かしくなったからなのだ。この短編集の中にも犬である主人公が気が付くある匂いに人間たちが気が付かずいらいらするという件があるのだけれど、ほとんど記憶はあいまいになっているのだが、似たような趣向がその犯人あてでも出てきたことが思いださせて、それで逆に「パーフェクト・ブルー」を読んだ時にはそうした印象がなかったのはどうしてなんだろうと思ってちょっと不思議に思った。
もちろん、叙述に関していえば宮部みゆきの場合はその後に連作短編として財布の一人称描写などという超絶技巧もやっているし、前述の「犬は知らなかった」などは京大ミステリ研の犯人あて史上に残る変なことをやってる作品だったので、犬の一人称描写なんてのは序の口といってもいいのだけど。


 そういえば話は変わるけれど、京大ミステリ研出身のミステリ作家に変に細かな描写に気を使った作品が多いのを不審に思っている人は多いと思うにだけれど、これはミステリ研で当時やられていた犯人あてにそういう種類のものがすごく多かったせいがあると思う。通常のフーダニットのパズラーとミステリ研で当時やられていた犯人あての大きな差はそこにあって、具体例を出して説明しないとなかなかイメージを結びにくいと思うのだが、状況が全て分かっても犯人だけは当たらないというミステリ研内で「挑戦状トリック」と呼ばれていた作品群などはその典型といっていい。

 しかも、私が在籍していた当時では単純なパターンでは簡単に見破られてしまうので一般人から見るともうかなり屋上屋を重ねるような複雑怪奇なパターンが試みられていた。

 これは犯人あてのようないわば森博嗣流にいえば境界条件が限定されたところで、それでも読者(犯人あての場合には解答者)にあくまである種の意外性を追求していくと、盲点もその一見限定されているかに思える限定条件そのものに求めるしかないなくなってくるからで、特にミステリ研でやられていた犯人あてではあらかじめ解答者の便宜のために登場人物表を提示しておいて、犯人はかならずその中にいますというルールで展開されていたため、解答者はあらかじめ当然探偵役や叙述者も含め登場人物表に掲載されている人物は同等に疑うというということが習慣づけられている限りにおいて、本質的に意外な犯人というのは犯人パターンの中にはありえないからなのだ。市販で手に入る作品でということになると綾辻行人の「どんどん橋」などがその一例になるのだが、あれは私が卒業した後で発表された犯人あてだったとはいえ、別に孤立したパターンというわけではなく、先に挙げた「犬は知らなかった」もそうなのだが、異なる方向性において、あの種のちょっと変なことを試みた作品群がかなり多数あって、あれはそこから必然的に生まれるべくして生まれた作品だといっていいのである。もちろん、あの作品に関してはそれを袋小路への道だと批判した人の意見ももっともだと思う点もあるのだけれど(笑い)。

 こんなことを書きだしたのはほかでもない。シベリア少女鉄道の芝居を見た時に京大ミステリ研がやっていた犯人あてと同質の志向性を感じてしまったからである。もちろん、シベリヤ少女鉄道がやっているのはミステリ劇でもなんでもないのだが、その骨幹にはある種のトリック(仕掛け)があって、それを具現化するためにそんなことのためにそれだけの苦労をしていったいなんになるんだという無償の情熱を注ぎ込んでいる。そこに私のような人間はついつい共感を覚えてしまうのである。

 もちろん、それは例えば演劇=芸術という立場からすれば単なる無駄である。馬鹿としかいいようがない。だから、演技が下手で見るに耐えないとかそういうレベルで入れないという人を除いてみても純粋に遊戯的なある種の本格ミステリになんの興味も抱けない人がいるようにそれがなんなのだか全然理解もできない、したがって、当然、こんなものを見るのは時間の無駄と思う人が少なくない存在するだろうというのは意外なことではない。むしろ当然なのである。

 この劇団の主宰である土屋亮一がその作品中に仕掛ける仕掛けにはある意味で本格ミステリのトリックに近いところがあるのである。それだけに古典的な本格ミステリの作者は書きはじめて初期のころに大仕掛けな作品を書いてしまった後、しだいにミステリそのもののアイデアはざん新なものは出にくくなってしまいストーリーテリングとかキャラクターとか別のところに活路を求めざるをえなくなるように、彼がこの種の作品をどこまで継続して作り続けていけるのかはおおいに危ぐされるところなのだ。その意味ではシベリア少女鉄道の場合は稚拙なようでもアイデア一本で勝負できている今が旬ともいえそうなのである。

 ただ、なんとも惜しまれるのは今回の作品でいうと演技だけでなく、構成、演出の面などでも隙があり過ぎて、せっかくのアイデアが生かしきれていない場面が多々あることである。ある種の演劇には下手うま、あるいは下手下手の演技だからこそ面白くて、うまくなってしまうと果たしてどうなのかという類のものもあることも確かだが、ことシベリア少女鉄道の場合にはそうではない。アイデアを十全に生かすためには出来れば芝居全体の完成度がより高く、演出面でももう少しメリハリが利いていればとついつい考えてしまうのだ。凄いトリックを思い付く推理作家には往々にして文章や構成が下手でそのアイデアが生かしきれてないようなところがあるのだが、この劇団を見てるとそうした例が連想されてしまうのだ。

 もっとも、これが旗揚げ3回目の公演なのだから、今の段階で多くを望むこと自体が酷というものかもしれない。シベリア少女鉄道の場合、作演出の土屋のなんとも奇抜で破天荒な発想はスケールの大きさを感じさせるし、俳優陣もはっきり言って技術はないけど藤枝真由美役を演じた染谷恵子ら素材としてなかなかいいと感じさせる人材にはことかかない。若手の劇団だけに伸びしろは十分にあり公演を続ければ演技はしだいにうまくなってくるものである。問題はそれまで集団を維持し続けることができるかどうかにかかっている。

 さらに言えば一見この集団のやっていることは現代演劇という括りの中では異端にも見えるのだが、実はそうではない。具体的なことは伏せておいた方がいい側面もあるのでここではあまり書けないのが残念なのだが、これまでの舞台での仕掛けというのは「見立て」「早替わり」などという日本の伝統演劇である歌舞伎で多用された「ケレン」の系譜を引く演出といえないこともない。特にこの「今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事」はクローン人間、タイムスリップという2つの設定を元にして「早替わり」演出を駆使した(あるいはそれをとことんパロディー化した)演出になっており、ストーリーとかテーマよりそれが(というかそれだけが)土屋のやりたかったことだったんじゃないかと思う。しかも、舞台の終盤において、それが「出来る事」からついに「出来ない事」の領域に入っていくことで伝統の「早替わり」演出がどんどん杜撰さを増していくのだが、それが芝居全体の主題と呼応している構造を取っているのがこの芝居の面白いところで、ただそれだけにことにSF仕立てのストーリーをでっち上げてしまうという発想にはちょっと脱帽ものだったのだ。