永遠かもしれない

 舞台冒頭ではまず出演を控え、誰もいない劇場で物思いにふける漫才師が真面目なタッチで描かれる。漫才師、藤井耕平(前畑陽平)は過去に自動車事故で恋人と実姉と漫才の相方を失い、心に深い傷を負っていることが明らかになる。亡くなった彼らは妄想のように頻繁に甦り主人公の前に現れる。ここのところはちょっとジェイムズ・サーパーの「虹をつかむ男」やそれを下敷きにしたウディ・アレンの「ボギー!俺も男だ」を思い起こさせるのだが、実はこうした設定がこの後展開していく舞台の重要な鍵を握ることになる。
 この舞台では劇中劇ならぬ劇中漫才として実際に耕治と彼と新コンビを組む坂野小梅(篠塚茜)の漫才が披露される。この漫才のネタの最中に予想もしないキッチュな物語が挿入されていく。次から次へとネタを脱線し、延長、反復を繰り返す。観客はそこに、忠臣蔵や「タッチ」を思わせる高校球児のベタな青春物語やキャッツ・アイや時間旅行もののチープなSF、海猿、白雪姫、サザエさんなどのパロディが展開させるが、重要なことはそこにはなくてこの次から次に展開されるベタな物語群がいずれも漫才のいわゆる「のりつっこみ」の「のり」に当たる部分がビジュアル化され肥大化したものだということである。
 それぞれに展開される物語や場面はいずれもそれなりに工夫され、面白く見られはするのだが、シベ少的本質はそこにはなくて、どうしてか耕平の妄想のなかで展開する物語のなかに巻き込まれてしまった小梅が漫才を進行させるためにその物語を終わらせてその結果「なんでやねん」のつっこみが入るために奮闘するのだが、その頑張りに反して物語は次から次へと逸脱を繰り返し、しかもまどろっこしいばかりに執拗に反復される。そしてそのことが結局、この芝居は永遠に続くかもしれないと思わせる。こういう構造を構築することで通常の演劇のドラマツルギーを根底から突き崩してしまっているのが、この集団の真骨頂なのである。