チェルフィッチュ「ポスト*労苦の終わり」

 チェルフィッチュ「ポスト*労苦の終わり」(作演出岡田利規)を横浜STスポット(3月21日ソワレ)で観劇した。昨年1年間にわたり、「今もっとも刺激的な舞台を作るのはチェルフィッチュ岡田利規だ」と会う人会う人に言い続けてきたのだが、それが岸田戯曲賞を受賞。今回は受賞後初の舞台として注目されたなかでの公演となった。
 平田オリザ岩松了長谷川孝治松田正隆ら90年代の「関係性の演劇」の影響を受け90年代末には五反田団の前田司郎、ポかリン記憶舎の明神慈、ポツドール三浦大輔ら先行する作家たちと志向性の異なる若手劇作家が登場した。ただ、ここでもスタイルとして会話劇的な体裁をとるという共通点は見られた。
 岡田の場合も現代口語を舞台にのせるという意味では先に挙げた前田、三浦と共通する問題意識から出発している。前田、三浦が舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築したのに対し、岡田のアプローチには会話体において「ハイパーリアリズム」、演技・演出においては「反リアリズム」というところにその特徴がある。
 チェルフィッチュはハイパーリアルにそれまでの既存の演劇が捉えることができなかったような現代の若者の地口のような会話体に迫っていく。だが、その方法論はそれまでの現代口語演劇の劇作家たちがそうであったような群像会話劇ではない。モノローグを主体に複数のフェーズの会話体を「入れ子」状にコラージュするというそれまでに試みられたことがない独自の方法論により構築されるまったく新しいタイプの「現代口語演劇」である
 「ポスト*労苦の終わり」もそのスタイルを踏襲した舞台で、ここでは役者が舞台に登場して「これからはじめます」と客席に向かって語りかけると、そこから舞台ははじまる。この客席に向かって語りかけるモノローグはブレヒトの異化効果やシェイクスピアの多用した傍白を連想させるが、こういうモノローグ的なフェーズと会話を自由自在に組み合わせてテキストを構成としているのが大きな特徴だ。作品のなかで提示される出来事は多くの場合、伝聞ないし回想として語られ、リアルタイムにいまそこで起こっていることとしては演じられない。断片化されたエピソードは実際に出来事が起こった時系列とは無関係に行きつ戻りつしながら、ループのような繰り返しを伴いコラージュされたテキストのアマルガム(混合物)として提示されていく。
 「ポスト*労苦の終わり」はこれから結婚しようとしているカップルと結婚が破たんしたカップルと2組のカップルそれぞれの関係性を微細に描写していくことで結婚とはなんなんだろうということについて観客に考えさせる芝居ということができるかもしれない。
 ただ、主要人物の4人を1人1役で特定の役者が演じるというわけではない。例えばある場面をある俳優が語るとすると、そこには「その時の自分」と「その時の会話の相手」、それから「その両方を俯瞰する第3者としての自分」といういわば地の文的なフェーズがテキストには混在している。これをひとりの俳優が演じわけていく。そうすることで演じる俳優と演じられる対象との間にある距離感を作るのが、岡田の戦略で、さらに舞台では同じエピソードを違う俳優が違う立場から演じ、これが何度も繰り返される。
 複数の俳優が同じある人物を演じることで、それぞれの人物について、実際に舞台上で演じられている人物の向こう側に自らの想像力である人物像を再構成するという作業が舞台を見ている側に要請される。こういうインターテクスト的な読み取りが観客それぞれの過去の経験を想起させるような形で想像力を刺激されるのが、岡田の舞台の魅力だ。
 方法論こそまったく違うが、私にとっては見る側の内面の鏡のような形で舞台が存在し、おそらく観客の数だけの多様な読み取りが可能な開かれた舞台という意味である時期のピナ・バウシュの舞台を思い起こさせた。8月にはびわ湖ホールでの新作公演も決定しており、これは関西の舞台ファンは必見といえよう。
(演劇コラムニスト 中西理)