青年団とSPAC 2つの「変身」を巡って

 平田オリザ青年団主宰)と宮城聡(SPAC=静岡県舞台芸術センター芸術総監督)。今や日本を代表する演劇人となったこの2人のライバル物語から本稿を始めることにしたい。現代口語演劇による「関係性の演劇」で平田がその後の現代演劇の流れに大きな影響を与えたのは1990年代半ばのことだ。宮城(当時ク・ナウカ主宰)は平田、山の手事情社の安田雅弘、花組芝居加納幸和とともに【P4】という若い演出家の集まりを結成。当時2人は仲間でありライバルでもあった。著書「都市に祝祭はいらない」で演劇の祝祭性を否定した平田に対抗するように宮城は舞台における祝祭的な空間の復活を論じた。インタビューで「生命のエッジを感じさせるような宗教的な場が失われてしまった現代社会において、それを実現できる数少ない場所が演劇で、だからこそ現代において舞台芸術を行う意味があるのだ」と強調。「祝祭の演劇」を提唱し平田の演劇観を批判した。当時演劇界の一部からは「俳優はロボットと変わらない」などと挑発的な発言を続ける平田に対する感情的な反発はあったが、宮城のような理論的反論は珍しく貴重だった。ここ20年の日本の現代演劇の流れを振り返ったとき、それぞれが標榜する演劇観の相違とも相まって、この2人の関係は現代演劇にとって大きな意味合いを持っていた。
 その後90年代末に平田の現代口語演劇は多くのフォロワーを輩出し、現代演劇の主流となっていく。対照的に、宮城の主張はリアリティーを次第に失ったかに見えた。そういう状況が大きく転換したのはポストゼロ年代(2010年代)に入ってからのことだ。まずは柿喰う客、ままごと、木ノ下歌舞伎、悪い芝居など若手劇団に演劇の祝祭性(カーニバル性)を重視する劇作家・演出家が相次ぎ現れたこと。3・11を契機に生と死という根源的な問題と向かい合った作り手たちは舞台を祝祭空間として見せ始めた。この動きは昨年夏に宮城率いるSPACが世界最高峰の演劇フェスティバルとされるアビニョン演劇祭で祝祭音楽劇「マハーバーラタ」を上演、それが現地で高い評価を受けたことで決定的なものとなった。これらの一連の出来事は私に日本の現代演劇に大きな転換期がやってくることを予感させた。
 アビニョン演劇祭についていえば芸術監督(ディレクター)が交代し、宮城と以前から懇意でお互いにその才能を認め合う関係にあったオリヴィエ・ピィが就任したことが大きな後押しとなったことは間違いない。もちろん、宮城をはじめSPACのスタッフも毎年のようにアビニョンをはじめとするフランスの演劇祭を訪問、そこでの上演作品を静岡での演劇祭に招へいするなど地道な努力を重ねてきた。それゆえの今回の成功ではあるが、数年前に平田にインタビューした際には近いうちにアビニョン演劇祭で「ソウル市民」3部作の一挙上演を目指すと明確に語っていた。平田もアビニョンをひとつの標的としていたことは間違いない。その意味ではアビニョンという同じ目標を巡る競争で宮城が逆転勝利を収めたと言えなくもない。
 そんな状況のもとで平田はカフカの小説を原作にキャスト全員がフランス人俳優というアンドロイド演劇の新作「変身」を上演した。ロボット演劇プロジェクトの一環ではあるが盟友である大阪大学石黒浩教授が開発した新たな人型ロボット「リプリーS1」を除けば「ふたりのベロニカ」でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞したフランスの国民的女優、イレーヌ・ジャコブをはじめキャスト4人が全員フランス人である。フランス語での上演。内容も最初からフランスを中心にしたツアー公演を睨んでフランスの観客を意識したものになっていたからだ。この作品がそのままアビニョンで上演されるかは別にして、私の目にはこれは宮城の成功に対する平田の反撃の狼煙にも見えたのだ。
 カフカの「変身」だったのも象徴的だ。「変身」上演は初めてだが、「ある日ふと目覚めてみると○○になっていた」というモチーフ(主題)は「ある日ふと気が付くと転校生になっていた」という女子高生21人による群像劇「転校生」やある朝起きたら夫婦になっていた男女と、離婚の危機にある彼らの兄と姉の姿を通じ、夫婦のあり方を描いた「隣にいてもひとり」など平田の作品に繰り返し出てくる。それだけこだわりの強い主題だからだ。
 「ある朝グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹のとてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた」というのがカフカの「変身」の始まりだ。これを平田は「朝起きてみると突然自分が人型のロボットに変わってしまっているのに気がついた」という風に変えた。
 シアターアーツ編集部から「境界の不安」という特集テーマを提示した時にまず思い起こしたのが、平田の「変身」だった。というのはカフカの原作に「人間と非人間の境界線はどこか?」ということを読み取り、「その境界線は実はないんじゃないか」という不安が現代人のアイデンティティーを揺さぶるというのがこの舞台の主題ではないかと思ったからだ。
 ロボット演劇・アンドロイド演劇は今回が第6弾。新作ごとに実験を重ねている。演劇作品であるとともに石黒教授のロボット研究のプロジェクトの一環でもあるからだ。平田の舞台では基本的にアンドロイドはアンドロイド、ロボットはロボット、人間は人間を演じるのだが、この「変身」はそうではない。それまでの作品とは決定的に違うところがある。、
 「さようなら」「三人姉妹」に登場した「ジェミノイドF」は本物の人間の女性そっくりに作ってあり、一瞬だけ見たなら人間と見間違えることがある。これに対し、「リプリーS1」は見かけからしてスケルトン(骸骨)の人形のようにしか見えない。彼がグレゴールであると名乗っても家族はどこかにいる本物のグレゴール*1がそれを操って悪戯をしていると思いそれをグレゴールだとは認めない。しかし、ロボットと話を交しているうちに次第にそれをグレゴールとして受け入れ接していくようになる。
 この間の関係性の変化を微細なまでの描写で提示するのが平田の「関係性の演劇」の真骨頂である。つまり、この舞台では平田はこのグレゴールをアンドロイド(ロボット)とも人間とも提示せず、ただ周囲の家族の関係性とともに描写していく、その結果観客は最初デク人形のようにしか見えなかったそれが人間のように見えてくるのを追体験することになる。
 ところがこの関係性は後半部において医者である下宿人が登場、家族とグレゴールの間に介在することで大きく変貌していく。家族の妹と母、おそらく父も、アンドロイドがグレゴールだと信じているが、下宿人はそうでないからだ。彼は共同体のなかで信じられていることを共有しない他者の代表だ。脳外科の彼は「最後に残るヴァイタルなものっていうのは、脳しかなくなっちゃうんですね、いまのところは」といってグレゴールの頭にモノを扱うように乱暴に触れる。その時にそこに居合わせた家族と一緒に観客である我々も神経を逆なでされるような気持ちにさせられる。それはアンドロイドをいつの間にか機械以上の存在と見始めているためだ。ただ、逆にこの医者にとってはこの現象は戦争で息子を失った後でそれを受け入れることができないなど家族の方に問題があり、集団的な狂気に陥いっているという風にしか認識ができない。
 このことは家族にある種の精神的危機をもたらすが、他者である彼を追放することでかろうじて「境界の不安」を乗り越え、きわどい安定を取り戻す。ただ、平田はそれを肯定するわけではない。この芝居には人物設定上の大きな仕掛けがあった。それはこの医者を「祖父がこの国に来たのは、五十年以上前」と移民の子孫としてしていることだ。そういう風に考えればこの「変身」は現代フランスに起こっていることの縮図のようにも読み取れてくる。
 実は観劇の時点(昨年10月)では問題の重要性にうかつにも気が付かなかった。だが、その後フランスで起こった連続テロ事件やイスラム国による日本人殺害事件などを前提として考えると他者をどのように受け入れながら自己のアイデンティティーを保つのかという平田の提示した問題は他人ごとではなく、我々の喉元にもつきつけられた問題なのだということが感じられる。 
 まったくの偶然ながら平田の「変身」に対して宮城もSPAC版のカフカ「変身」を企画、上演した。構成・演出はで「カンパニーでらしねら」を率いる小野寺修二(元「水と油」)である。小野寺版の「変身」も平田版とは全く異なるアプローチながら従来、不条理文学とされていた「変身」のテキストに人間のアイデンティティーの危機の問題を読み取っている。
 もっとも、時期的にも内容的にも平田版を参照したとは思われない。小野寺が差別化を意識したと思われるのはスティーブン・バーコフ演出版「変身」であろうと思われる。小野寺はもともとパントマイム出身だが、マイム的身体表現を駆使して、観客にグレゴールが変身したという「毒虫」の姿を連想させるというのがバーコフ版「変身」の特徴。主役であるグレゴールを演じるにわたり、両足を左右に広げて頭の後ろにつけたり、その体勢のまま鉄枠のような舞台装置にぶら下がったりといったマイム的な技法が駆使されている。バーコフ本人の主演で初演された後、日本では宮本亜門、最近では森山未來が演じたものが話題作となり、舞台版「変身」といえばこのバージョンというのが定着した感がある。
 今回の小野寺版の「変身」では特定のひとりの演者がグレゴールを演じるということはない。複数の俳優が次々と入れ替わりながらグレゴールを演じ継いでいく。これは「3月の五日間」で岡田利規、あるいは「あゆみ」で柴幸男がとった方法論と類似したところもある。特定の俳優でなく次々と入れ替わることで、それぞれにとっての「グレゴール」を個々の観客の脳裏に想起させることがひとつの狙いだ。
 原作である小説に対して平田は設定を翻案したというだけでなく、形式を会話劇に変更したが、小野寺は小説そのままというわけではないにせよいわゆる会話文だけの戯曲形式ではなく、地の文も入った小説のようなテキストを用いてそれを朗読する俳優と言語テキストに呼応するようにセリフは発せずに身体所作でそれぞれの役柄を演じる俳優に分離した。ムーバー(動く俳優)とスピーカー(語る俳優)を分離する宮城独特の演出法をマイム表現に取り入れて組み合わせたものでその際にムーバーは特定のひとりがグレゴールを演じるのではなく、複数の俳優が同時に同じ役を演じたり、1人の役を別々の俳優がリレーのように演じ継いだりするなど様々な演技方法を組み合わせた。
 ただ、それ以上に決定的に重要なのは変身後のグレゴールの姿のグロテスクさなどはここではグレゴール役の俳優の演技によってではなく、周囲の人間たちのリアクションなどによって表現していることだ。ここで観客はグレゴールの「変身」はその醜い姿の変貌がそのまま表現されることによってではなく、周囲の人間がグレゴールを醜い毒虫のようなものと受け取り、気持ち悪がったり、目を背けたりすることを目撃することで想像力が喚起されることで提示される。そして、原作との大きな違いを指摘するとすると小野寺版「変身」ではグレゴールの死は直接は描かれない。家族、特に妹がそれをどこかにいなくなってほしいものと見なすことによって、死んでしまう。ここで描かれるのはいささか古典的な枠組みながら人間は人間として認識されることで初めて人間となることができ、人間であるかどうかの定義はあくまで他者が規定するものだという認識だ。それが崩れる時にいわばアイデンティティーの危機が到来し、不安が生まれる。SPAC「変身」は語りと身体表現を駆使することでそれを提示した。
 そうだとすると「人間であるかどうかの定義はあくまで他者が規定するものだという認識」では小野寺と平田は共通している。ところが与えた結末と正反対といえる。平田の「変身」ではグレゴールが絶望の余り「僕の電源を切ってくれないか?」と家族に嘆願する。しかし家族はその決断をくだせない。母親はグレゴールに「大丈夫・・・私たちは、どこにも行かない。お前も、どこへもやらない」と話す。これは他者からの認証が得られないという絶望的な状況のなかに一見、小野寺は文字通りに絶望を見て、平田は希望を見ているようにも見えるがそれほど単純なものではないかもしれない。小野寺版のラストで息子のことをいなかったものとした父母は今度は妹の将来に希望を託すたくましさを見せる。死んだグレゴールの立場からすればこれは残酷なことだが、これは私たちがあらゆる困難や絶望のなかで生き抜いていく生活の知恵と考えることもできる。
 平田は物語の最後で宮沢賢治の「月天使」という詩を引用している。そこでは賢治は「もしそれ人とは人のからだのことであると/さういうならば誤りであるように/さりとて人は心であるというならば/また誤りであるように/さりとて人は/からだと心であるというならば/これも誤りであるように/しかればわたくしが月を月天子と称するとも/これは単なる擬人でない」と詠っている。この詩も正解はひとつではなく様々解釈ができそうだが、それは平田版の「変身」字体が異なるレイヤーが重なり合うように多様な解釈に同時に開かれている構造を持っていることと響きあっている。
 いささか比喩めいた物言いであることは認めなければならないが、そういう響きあいは平田と宮城の関係そのものにも感じられる。「変身」の上演が重なったことは単なる偶然の符合と言ってしまえばそれまでだが、「変身」のラストで平田は賢治を引用。再演した「暗愚小傳」にも宮沢賢治本人が登場する。さらには平田の小説を原作とした2月28日公開の映画「幕が上がる」でも「銀河鉄道の夜」が劇中劇使われるなど最近の平田の周辺は宮沢賢治づくしといってもいいほどなのだが、今春のSPACの宮城演出新作も宮沢賢治原作の「グスコーブドリの伝記」であった。その映画「幕が上がる」は偶然SPACの本拠地である舞台芸術公園がロケ地となった縁もあり、宮城本人が美加理らSPACの主力俳優とともに出演することにもなるなど奇縁はただの偶然ではかたずけられないほどだ。平田の反撃開始で2人のライバル物語の次のページはすでに始まっているが、そこにはどんな新たな展開が待っているのだろうか。
 

 



 
 
 
  

*1:本作ではグレゴワールとなるが一般に耳慣れたグレゴールと表記する