「ももクロ×平田オリザ」論

 アイドル「ももいろクローバーZ(通称:ももクロ)」と劇作家・演出家、平田オリザ。ともにそれぞれのジャンルで日本を代表する存在である両者が手を組んだのが本広克行監督の映画「幕が上がる」(2月28日封切り)である。全国大会出場を目指す弱小演劇部の少女たちの奮闘を描いた平田の初めての小説作品「幕が上がる」。これをももクロが主演し映画化した。青春映画の巨匠・大林宣彦監督、「AKB論」の共著者などでも知られるサブカル評論家、中森明夫から高い評価を受けるなど評判は上々。青春映画の傑作というだけでなく、「演劇映画」という新たなジャンルを生み出した。これまでも演劇を描いた小説、マンガ、映画などはあったが、「幕が上がる」はモチーフに演劇を取り上げた作品のなかでもこれまでになくユニークなものとなっており、それを生み出した平田=本広コンビに高い評価を与えねばならないと考えている。
 実は「幕が上がる」プロジェクトは映画だけにとどまらず、この後、平田オリザの本領である舞台(5月1〜24日、Zeppブルーシアター六本木)も予定されている。演劇評論家であり、ももクロのファンとしてもたびたびライブに足を運んできただけに今回のプロジェクトは本来なじみの深い世界での出来事だ。今でも「それを語るものとして私ほど適した存在はいない」との自負はあるのだが、実は両者が結び付くことは私にとっては青天の霹靂だった。
 ももクロ平田オリザではもちろんジャンルも違えばコンセプトも異なる。そのどちらもを注目すべき存在として以前から追いかけてきたとはいえうかつなことにももクロがすでに映画の撮影で佳境に入っていた昨年夏の時点でも両者が結びつくという予感は私のなかにはなかった。それは平田オリザももクロはここ数十年のパフォーミングアートのなかで大きく対比される2つの要素「関係性」と「身体性」を担う象徴的な存在で、それゆえ対極に位置するものと考えていたからだ。
 「分野の違う2つの存在を本質を共有するものとして結びつける」という方法論は私が批評の世界で多用してきた手法だ。平田オリザももクロも実はこの手法を使ってそれぞれ論じたことがある。
 平田のロボット演劇をボーカロイドソフトの初音ミクと対比させ演劇批評誌に書いた批評が「平田オリザ初音ミク/ロボット演劇」(シアターアーツ2013年夏号)である。これはスタニスラフスキーらによって提唱され、メソッド演技などとして現代にも通じる内面の再現という演技法を否定し、演出を細かくデジタル化して分節していく平田の演出法が音楽におけるMIDIと同じ論理構造を持っているということを論じたもので、そうだとすると平田のロボット演劇とうのはMIDIの理論的結実である初音ミクと兄弟姉妹のようなものではないかとした論考だった。
 突然だがここで時代はももクロのメンバーがまだ生まれていたかどうかがという、今から20年前に遡る。平田オリザは80年代に国際基督教大学ICU)の仲間らと青年団を旗揚げ、自らの演劇活動を開始するが、現代演劇の世界で本格的に頭角を現してくるのが90年代の半ば。岸田戯曲賞を受賞した「東京ノート」が発表されたのは95年だが、著書として「平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために」(95年 晩聲社)、「平田オリザの仕事〈2〉都市に祝祭はいらない」(97年 晩聲社)を著し、この時代の演劇界のオピニオンリーダーとなった。 
 95年といえば阪神大震災が起こり、オウムによるサリン事件が引き起こされた年でもあるが、60年代後期のアングラ演劇以来続いてきた「祝祭的演劇」に対して祝祭的な事項に事欠かない都市生活においては演劇は劇場において静かにものを考える場であるべきで、都市に祝祭はいらないなどと論じて、「祝祭としての演劇」を否定した。
 それに引き続き昨年は「パフォーマンスとしてのももいろクローバーZ」(アイドル評論誌「ももクロ論壇 アイドル感染拡大」)を書いた。これはよく言われるももクロの魅力である全力パフォーマンスとは一体何なのかということを最近よく見られるポストゼロ年代の演劇・ダンスに顕著なひとつの傾向である身体に負荷をかけるパフォーマンスと対峙させることで解明していこうというもので、実はこの時の裏テーマといってもいいのが90年代半ばの特に阪神大震災以降平田に代表される現代口語演劇が主流となっていたがポストゼロ年代特に3・11を境に世間の好みが祝祭的なものに移行しつつある。それは舞台芸術の世界では黒田育世矢内原美邦、多田淳之介などに代表されるが、そういう世間の空気の変化を象徴するようなパフォーマンスが昨年7月にももクロによって日産スタジアムで行われた「桃神祭」であり、現代の巫女として巨大な祝祭空間を具現させる存在がももいろクローバーZなのだという趣旨で、ここでは「関係性」の平田の対極的的な存在として「身体性」を前面に出すももクロを引っ張り出していたからだ。
 「幕が上がる」はとある地方(映画ではロケ地から静岡県と思われる)にある毎年地区予選敗退の演劇部。最後の大会を終えた先輩たちに代わり、部長として富士ヶ丘高校の演劇部をまとめることになった高橋さおり(百田夏菜子)。「負けたらヤなの!」と部員の前で意気込むさおりだが、悩める日々が続く。どうやったら演技が上手くなれるの?演目は何にすればよいの?「わからないー!」。
 そんな時、学校に新任の吉岡先生(黒木華)がやってきた。元学生演劇の女王だったらしい。美人だけどちょっと変わったその先生は、地区大会すら勝ったことのない弱小演劇部の私たちに言った。「私は行きたいです。君たちと、全国に。行こうよ、全国!」気迫に充ちたその一言で、彼女たちの人生が変わる。演目は「銀河鉄道の夜」。演出兼部長のさおり。演じるのは、看板女優でお姫様キャラの“ユッコ”(玉井詩織)、黙っていれば可愛い“がるる”(高城れに)、1年後輩でしっかり者の“明美ちゃん”(佐々木彩夏)、そして演劇強豪校からの転校生“中西さん”(有安杏果)らの部員たち。吉岡先生と、頼りない顧問の溝口(ムロツヨシ)と共に、富士ヶ丘高校演劇部は、見たことも行ったこともない、無限の可能性に挑もうとしていた。
 映画「幕が上がる」の魅力はもちろん青春を描いた青春映画がとしても素晴らしい出来栄えなのだが、そのほかにもこの映画だけのフックがいくつも用意されていることだ。まず第一に「幕が上がる」は演劇について描いた「演劇映画」だ。名作漫画「ガラスの仮面」に代表されるようにこれまでも演劇を描いた作品はあった。近年では女子高の演劇部を描いた「桜の園」(中原俊監督、1990年)があるが、それ以前を遡れば青春映画であり、アイドル映画でもあり、演劇についての映画でもあった「Wの悲劇」もあった。
 ただ、「幕が上がる」がそうした選考作品と大きく異なるのはこの作品の主役は演出家である高橋さおりであることだ。それまでのほとんど作品では主人公は俳優(たいていは女優)であって、したがって演劇の話ではあるが、それは基本的に「ガラスの仮面」が典型的にそうであるように「どう役になりきるか」という以上の話にはなりにくかった。
 もちろん、演劇にはその以上にいろんな側面があり、脚本をどうするか、演出をどうするかというのは演劇において非常に重要だというのは指摘するまでもない。
 そして、2つ目にこの作品はただの演劇というだけではなく高校演劇というさらに異色な素材を取り扱っている。実はこれは平田オリザが原作の小説を書くに際し、単に小説の素材という以上の大きな意味があった。
 
 実は同様のことはももクロサイドからみてもこのプロジェクトは大いに歓迎すべきものだった。結成時からのグループの目標であった紅白歌合戦出場、そしてその次のターゲットに定めた国立競技場でのライブを成功させたももクロが女性のアイドルグループでは難しいが、嵐やSMAPのように長く続けられるグループを目標として掲げた。実は「パフォーマンス〜」の第2部は「演劇とももクロ」だったのだが、

通常、映画やテレビドラマに登場する演劇場面は関係者からするとまったく魅力がないし、リアリティーがない。それは演劇を知らない映像系の作家が演劇の場面も演出し、演技がいたらないところを編集やカット割でごまかしているようなことが多いからだ。唯一(といっては言いすぎかもしれないが)の例外が「Wの悲劇」でこれは劇中劇のシーンを劇中に演出家役で出演していた蜷川幸雄が監修して見ごたえのある舞台場面を作り上げている。 
 
 
 実はこの映画には「本物」「生」を追求するがあまり、映画としてはつじつまが合わなくなってしまったこともいくつかある。そのひとつが映画のラストシーン近くで吉岡先生の稽古場の場面に静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督である宮城聡と看板女優である美加理が登場して、一瞬映るだけにもかかわらず忘れがたい印象を残す。実は吉岡先生の手紙の場面では「東京で出会った若い演出家が大きな舞台を任されることになって」というくだりがある。この部分は原作では大学の先輩の若い演出家が「演出助手を務める大きな舞台で女優を一人探している」となっていて、その舞台を演出するのは「皆さんも名前を知っている、本当に有名な演出家さん」とあるのだが、ここが映画では「若い演出家が大きな舞台を任されることになって」と変わっていた。宮城はどう考えても「若い演出家」ではないので、ここは明らかに矛盾している。本当なら最初のセリフを取り直した方がいいのだが、吉岡先生の手紙のくだりはこの映画において撮影現場に奇跡が起こった場面のひとつで撮り直せない。稽古場の場面も同じ。そこで矛盾に目をつぶってともに残したと考えられる。喜安浩平の脚本が演出家としてどういう人を想定していたか不明だが、緻密なようでいて「生」の素材が重要な時には無理やりなアクロバットも辞さない。それもこの映画の魅力といえるかもしれない。