劇評講座・ままごと「わが星」2

演劇批評 「わが星」
 公演日2015/06/02 劇団「ままごと」 公演場所「三鷹芸術劇場 星のホール」

坂崎 誠

一 前提「演劇とは何か」と靖国神社
 「わが星」は演劇か?という柴幸男のままごと新聞の記事があります。私にとって「わが星」は演劇であり、そして、「芸能」の演劇です。そのことをこれからこの批評で明らかにします。
先日、鈴木忠志東浩紀がゲンロンカフェで対談(注1)を行いました。その中で、演劇には「芸能と芸術」があることを鈴木忠志は指摘しました。芸能とは社会のコミュニティーを支えるためのものであり、芸術とは社会から差別化されるものである(差別化されるようにしむけるものである)。「わが星」が芸能の演劇であると認識するに至ったのは、その論によるものであります。ここで、演劇とは関係のない靖国神社を私の批評に突然出しますが、結論から述べますと、私にはちいちゃんと星、そして靖国神社に祭られている英霊が同じように見えるのです。そして、それが芸能の演劇に通じています。私がそう感じたのはなぜかを、私の経験から述べます。
私は2011年3月11日のあと、数週間後に皇居の回りを一生懸命走り続けました。ジョギングは始めての経験です。何かそうしなければならないような衝動があり、毎晩午後12時を過ぎても帰宅したのち走り続けました。50代半ばの中年にはつらくとも、東北の被災のイメージを払拭するために走り続けました。そんな、私が次に遭遇したのが7.25なのです。2011年7月25日昼食後電話を左耳にあてて聞いていると音量がどんどん小さくなり続ける。電話器を何度も操作して音量を上げるがすでにMAXであったのです。右耳に受話器を変えてやっと左耳の聞こえが悪くなったのがわかりました。突発性難聴でした。次の日、嘔吐で目が覚め、その日から2週間の入院。入院先は東京逓信病院、その時の自宅は番町、偶然にも逓信病院と番町の間に靖国神社があったのです。退院後もまっすぐ歩けない状態とひどい耳鳴りが続いていましたので、退院後リハビリのために毎早朝自宅から靖国神社までを散歩しました。その時に靖国神社に興味を持ち、数冊の靖国神社に関する本を読んでおります。しかし、その本で記述されている内容の中で、息子を戦場で失った母親が靖国神社を訪問し、後悔から至上の幸福感を得るように変貌していく記述が実感として分からなかったのです。それはたぶん私が市ヶ谷方面から靖国神社までの散歩をしていたからでしょうか。市ヶ谷から靖国神社への道はなぜか、うら寂しいのです。
その後、東京逓信病院で検査する前に九段下駅から靖国神社に立ち寄りました。靖国神社は荘厳で神聖な場所、特別な場所でありました。しかし、市ヶ谷からの靖国神社を知っている私は感動するまでにはいたらなかったのです。

二 「あゆみ」
 今回の「わが星」は柴幸男の作品との二回目の出会いであります。一回目は青年座の「あゆみ」(演出は柴幸男)でした。「あゆみ」では、俳優の足と脚の動きだけを私は注視しました。この作品は脚と足の動きで表現されるべきだと考えていたからです。小さければ幸せだ、普通の人の中に美しい人生があるのだ、だからその自分たちだけの小さな悩みと幸せのなかに人生の真実がある。それへの謳歌と単調な別れへの哀惜の情を何度も繰り返し提示されました。たぶん、日本以外での出来事は彼らの人生には見なくてもいいもので不要なのでしょう。残念ながら、繰りかえし多くの演者により表現される子供役から老人役まですべての演技がほとんど個性のない歩みに見えました。それが延々と続き、最後には演者が役を演じ切ったということで感極まって泣き出しました。私は柴幸男の演劇に強く疑念を持つようになりました。なぜなら、観客は自己満足のために感情をぶちまけている演者を観たくないと強く思ったからです。

三 踊りその他
  舞台中央に白いサークルが描かれている。そこに照明を当てて場面、場面を表現しようとしている。私の好みの誂えでありますが、その白いサークルの周りを、ただ手を挙げて、走り回るだけで到底私には踊りには見えませんでした。身体性を感じることは全くありません。前回の「あゆみ」と同じく単調で私にとっては無意味な時が経過していきます。そして、ちいちゃんの声を聴いて「わが星」との関係は終了したように思われました。良質な「芸能」演劇は子供に対しても大人と同じものを提供する必要がありのではないでしょうか。この声は子供の声がこうであろうと大人が考えた声で底意地の悪い大人が誰かに媚びるために考案した声に思えてなりません。かわいいと言われたい大人の声であり、子供の声ではないように聞こえるのです。
また、「わが町」の舞台監督のような方がカウントダウンをします。演者と観客の双方向性を作るために実施されているのでしょうか。私には全く効果がなかったようです。マイクから発せられる音声はインタラクティブにはなりえないものです。聞こえなくてもマイクを使う必要はないと思います。
観客と演者をつなぐのは呼吸である筈です。観客は演者の呼吸を感じ、演者は観客の呼吸を感じる。その時、あるものができるのです。私はそれが演劇であると思うのです。
 
四 モチーフの反復
 単純でわかりやすくモチーフを反復させる手法とそのやり方には多分現代の最新の演劇技術が内包されているのかもしれない。しかし、モチーフが陳腐であり反復されたところで何ともなく、また矮小化され、記号化された家族のセリフに何の興味が持てるのでしょうか。また、完全に肯定化され、美化され、記号化されることによりこの劇は何かを無視しているように私には思えます。自分たちの小さな幸せが大きな幸せに通ずるのだから自分たちの幸せ以外は考えなくてもいいのです。人生そのものも、この大きな幸せに通ずるものにつながればいいのです。と、繰り返し連呼されているように思われました。私は演劇での身体性とはことばによって記号化されて捨て去られたものを丹念に拾う作業であると考えています。
最近、私は2度靖国神社に参拝しました。どうしてこの小さな神社に246万柱の英霊が収まっているのか不思議であったのですが「わが星」を観劇して納得した次第であります。明治神宮靖国神社の7倍の面積で森の中に存在し、祭られているのは2柱であります。靖国神社への最初の訪問は市ヶ谷側からであったので靖国神社の西側に存在する家屋などに違和感を感じており、この神社の存在を私は矮小化していました。時々参拝しては何故日本人が靖国マジックにとらわれるのか不思議であったのです。本を数冊読み調べもしました。それでもあまりよくわからなかったのです。ある日、雪が降りました。その時も東京逓信病院で検査の必要があり、九段下から逓信病院に行く前に靖国神社にしっかりと参拝したのです。まだ降雪は続いており早朝からの雪を宮司たちが掃いているそのうえにまた小雪が降り続いているような日でした。九段下から中に入るとその荘厳さに息をのみ、その広大で神秘的な空間に魅了されました。その時も、私は息子を亡くした母親の幸福感に至る気持ちを想像することはできなかったのです。今回「わが星」を観て、その母親はそうなるべく反復訓練されていたのであり、私はその反復訓練を嫌悪しているのがよくわかったからです。私は、星が消え去って永遠の存在になることと、兵士が戦死して英霊になるプロセスが類似して感じられるからです。

五 結論 「わが星」は芸能の演劇
「わが星」の観劇後にも靖国神社の母親の気持ちは依然わからないのですがそうさせるシステムが存在することを理解しました。今ある人生は小さいが美しいそれを守るため守っていくためには何をしてもいいという。かわいいわが子や自分自身を捧げてもいいというコミュニティーの存在を強固にしていく企みが理解できました。これを子供たちが演ずることでもっと強固な日本、所属するコミュニティーや宗教団体への忠誠心が作られる。だから、「わが星」は芸能の演劇だと思います。
この度、批評を書く前に、星という項目をネットで検索してみました。すると、宇宙科学研究所キッズサイトに到達しました。そこには、『地球や火星や土星などの「惑星」は、自分で核融合反応を起こして光ったりはしていないので、「死」はありません。----また、軽い星、例えば太陽は、超新星にはなりません。』と記述されています。
宇宙科学研究所キッズサイトの記述を読んでいない子供たちに最後に消えて爆発するちいちゃんと違って自分たちの惑星(地球)は冷えてなくなるだけ、恒星(太陽)は爆発もしなければ超新星とならない星だということを知らせる必要があります。今後も私は批評をしたいと思います。

ゲンロンカフェ 2015年5月23日19:00より鈴木忠志東浩紀、司会:上田洋子「テロの時代の芸術--批判的知性の復活をめぐって」
東浩紀さんより雑誌に掲載予定とのことでした。
宇宙科学研究所キッズサイト
http://www.kids.isas.jaxa.jp/faq/star/st03/000161.html
http://www.kids.isas.jaxa.jp/faq/star/st03/000162.html
 2015/6/4    。