維新派論 〜演劇・ダンス・音楽・美術のはざまで〜

長らく維新派を率いてきた松本雄吉氏が6月死去したことにともない追悼の意味もこめて維新派最終公演「アマハラ」(2016年10月17日観劇)は上演された。公演会場となった平城宮跡は生前から松本がこだわり公演会場にしたいと執念を燃やしていた場所であり、本人が亡くなった後の追悼公演の形だったとはいえ、この場所での公演を見られたことにはいろんな意味での感慨があった。

 松本雄吉が食道がんで亡くなったのは6月 18日。病状のことは知人から内々に聞いていたので覚悟はしていたのだが、それでも知らせを受け残念でならなかった。この稀有のアーティストに生前聞いておきたいことがまだ数多くあったからだ。

 維新派をこの目で初めて見たのは大阪・南港での「虹市」(1992年)だった。それから24年の歳月が経過した。もっとも「日本維新派」誕生は1970年。それからさらに22年遡る。私は長い歴史のわずか半分を知るだけだ。その意味では松本雄吉ならびに維新派を語る語り手としては適当な人間とはいえない。

 しかし、それでも松本の死を契機として維新派というこの特異な集団の生み出した作品群について再び論じたいと考えた。それはいろんな意味で重要な存在であったのにもかかわらず維新派のことはこれまであまりにも論じられてこなかったと考えているからだ。いまこそこの集団の生み出した作品群について「それが何だったのか」について考えたい、そうせねばいけないと思う。

 もちろん維新派についての批評がこれまでなかったわけではない。多くの人がその舞台を劇評で取り上げている。それをあえて「論じられてこなかった」と書いたのはそのほとんどはいわゆる「劇評」であり、主として作品の筋立てや主題(モチーフ)について論じたものだったからだ。

 もちろん、それも作品にとって重要な要素だ。作品ごとに松本を取材し話を聞けば「今回の作品は喜劇王バスター・キートンを取り上げた」(「キートン」)、「ブラジル移民の話に材をとった」(「nostalgia」)などと答えもするだろう。

 しかし、私が観劇を開始してからの二十数年を取ってみても松本雄吉ならびに維新派は様々な実験を繰り返してきた。それこそが松本が亡くなった今改めて取り上げるべきことではないか。維新派は演劇・ダンス・音楽・美術といった表現領域を時に越境し、時に融合させていくものだった。単純に演劇作品として評価したのでは捉えきれないような広範な視線でそれを行った。「壮大な野外劇を上演する集団」などとよく紹介される。間違ってはいないが、この集団の特異性はそこにだけあるものではない。それが継続的に作品を見続けるなかで浮かび上がってくるのだ。

 維新派を論じる際には前衛色が強かった初期の維新派(日本維新派時代を含む)を音楽監督に内橋和久が加わり大阪弁ラップによる「ヂャンヂャン☆オペラ」の様式が定着した「少年街」(1990年、東京・汐止)以降と比較して論じることが多い。

 自分で目にしていない前期の維新派についてわずかの映像と伝聞だけでは多くを語ることはできないが、実は後期の維新派、「ヂャンヂャン☆オペラ」と一括りにされている「虹市」以降でも相当に大きな様式の変遷はあった*1。この間維新派にとって継続的に大きな問題となってきたのは物語と身体表現がどのように関連づけられて作品化されるべきなのかという問題だった。誤解を恐れずにもっと単純にいえば「演劇とダンスの関係」といってもいい。

 「虹市」以降は「青空」(94年・95年)、「南風」(97年)、「水街」(99年・2000年)と続くが、この時期の作品の特色は映画のセットを思わせるようなと評された林田裕至の舞台美術との組み合わせにより、演劇的な要素が色濃いことだ。大阪弁の単語の羅列により、変拍子(5拍子・7拍子)の音楽に乗せて、パフォーマーたちが群唱する「大阪弁ラップ」が公演ごとに試行を繰り返して、アンサンブルあるいは群唱のスタイルはこの時期に固まっていくが、それが基調低音を形成はするものの、この時期には通常の演劇に近い演技・セリフ回しにより物語が綴られるという色合いが強かった。

 この時期の維新派のもう一つの特色は祝祭性だ。当時、維新派の公演は大阪南港の野外特設劇場で行われるのが通例だったが、それは単に舞台芸術を上演する「劇場」というのにとどまらず、劇場周辺に忽然と姿を現した屋台村や屋台村にある仮設の舞台で芝居が始まる前から連日複数のバンドやミュージシャンが参加して行われていたフリーコンサート。それはある種アジールのような祝祭の場であり、維新派はいつでもその中心にあった。そして、「ヂャンヂャン☆オペラ」の「ヂャンヂャン」に象徴されるかのように維新派の舞台もきわめて祝祭性の強いものであった。

 その祝祭性を演出するのに大きな役割を果たしていたのがで、映画のセットを思わせるようなと言われたその美術は音楽監督の内橋和久がパフォーマーとともに生演奏で作り出した。維新派の世界は松本雄吉が紡ぎ出す世界ではあるけれど、音楽監督としてほぼすべての作品に曲を提供し公演時には生演奏で参加した内橋和久の存在は大きい。

 











 
 
  
 
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