山田百次(青年団リンク・ホエイ、劇団野の上)インタビュー

 青年団の次世代の作家たちを紹介する連載「青年団・現代演劇を巡る新潮流」の第3弾は山田百次(青年団リンク・ホエイ、劇団野の上)を取り上げることにした。山田は青森県地域の方言(津軽弁、南部弁)など地域語(方言)を多用した群像会話劇により、日本における中央と地方(周縁)の問題に斬り込んでいく。青年団演出部に入る以前には青森県に本拠を置く「劇団弘前劇場」に俳優として10年近く所属。退団し上京後は自らが作演出を務める「劇団野の上」を中心に青森と東京を行き来しながら、演劇活動を継続してきた。青年団生え抜き組の綾門優季、玉田真也と異なり山田はいわばアウトサイダーと言っていい。青年団の俳優である河村竜也が若手公演河村企画に作演出として招いていたため際はあくまで客演の形だったため、青年団演出部に所属したのは今年の初め。キャリアは若い前述の作家たちより浅く、新参ものだが、作品への評価は高く青年団ネクストジェネレーションとしては筆頭格の存在感を見せはじめている。
(インタビュアー/文責は中西理)
中西理(以下中西と略す) 玉田さんが演劇を始めたきっかけは何だったのでしょうか。
玉田真也(以下玉田と略す) 演劇は大学(慶応大学)で演劇のサークルで始めました。仲が良かった友達がそこに入っていてそれで形だけでもいいから入ってくれないかと頼まれたのはきっかけです。
中西 その後、青年団に入ったきっかけはどういうことだったのでしょうか。
玉田 きっかけらしいきっかけはあまりないんです。大学3年か4年のころに「演劇を続けたい」となんとなく思いはじめた。だけどサークルは4年生までで終わりでそれ以上はできない。どうしようと思っている時に知人に青年団を好きな人がいて劇団員を募集していることを教えてくれた。それで「最後の募集」と書かれていたし、ちょっと受けてみようと思って受けたら通ったんです。
中西 青年団は演出部を受けたんでしたよね? 入団試験を受けた当時平田オリザさんのことはどの程度知っていたのでしょうか。そのころ青年団の演出部にいたほかの作家についてはどうだったのでしょうか。
玉田 「見たことはあった」のですが、あまり知りませんでした。平田作品でそれまでに見ていたのは「隣にいても一人」と「眠れない夜なんてない」の2本だけでしたが正直言ってあまりピンとはこなかった。「見たことがあった」という表現が当たっていると思います。平田さん以外の人のことは入る前はほとんど知らなかったです。ちょうど松井周さんがそのころまだ「青年団リンク・サンプル」として活動していて、「あの人の世界」(2009年11月、東京芸術劇場)を見に行ったのは覚えています。
中西 入ってみてどうでしたか。大学の演劇とはだいぶ違うと思うのですが。
玉田 僕は演出部に入って、大学でも演出をやっとことがあったんですが、やり方は同じだったんです。企画責任者がまずいて、そして誘いたい俳優やスタッフを誘ってプロデュース公演をするということを大学でもやっていた。仕組み自体は同じなんですが一番違うのは俳優の質でした。、
中西 特に玉田さんの芝居は戯曲や演出の要請上すごく微妙な演技とか、間とか精度の高い演技が要求されると思います。その意味では青年団の俳優と一緒に作品づくりができるという状況は玉田さんの芝居にとってはすごくプラスだったと思うのですが。
玉田 そう思います。相性がよかったかもしれません。僕の作品自体が青年団に入る前はほとんどほんの1本か2本作った程度。青年団に入って初めて本格的な作演出をやり始めたので、青年団で俳優たちと一緒にやりながら自分の作風が決まっていった。
中西 それでは青年団にいたから現代口語的なものになっていったということでしょうか。
玉田 それはあると思います。もともと僕は大学時代に好きだった作家でいうとケラリーノ・サンドロヴィッチさんとかで、全然この界隈の演劇とは異なるものでした。それから今思い出したんですが、演劇を大学に入るまで見たことがなかったと先ほど言ったんですが、高校生ぐらいの頃にテレビで「劇団演技者。」という番組を見て、そこで今思えばなんですけれどポツドールの「男の夢」というカラオケボックスの芝居があるんですが、それがやっていたんですよね。そのころは演劇なんかは一度も見たこともないし知らないんですけれど、面白いなと思った記憶があります。それがずっと記憶に残っているので、初めて見たというとこれかもしれないです。全然普通のテレビドラマとは違って会話だけで構成されていて、すごく微妙なことをやxっているのに飽きないでずっと見ていられる。
中西 「劇団演技者。」って「モテキ」の監督でポツドール三浦大輔さんの「恋の渦」とかを映画化している大根仁さんが演出だったような……。
中西 映画、音楽、漫画、文学などジャンルは問わないで好きなアーティストがいれば挙げていただきたいのですが。
玉田 お笑いが大好きでした。もともと演劇やるときもお笑いのサークルがないか探したけどなくて、お笑いじゃないけれど演劇でも似たようなことはできるからと誘われて入ったという経緯もありました。
中西 出身はどちらですか。
玉田 石川県です。
中西 それでは関西系の笑いというわけでもないんですかね。
玉田 小学生の頃、「ダウンタウンのごっつええ感じ」というコント番組(フジテレビ系列局で1991年12月から97年11月まで)を食い入るようにみていた。つまり松本人志が笑いの原点です。
中西 それでは笑いに特化したような純度の高いものがすきなんですね。
玉田 ダウンタウンのコントに出てくるものは凄い生々しいというか演技が今僕が接しているような現代口語というか、この人たちは別に現代口語だと思ってやっているわけじゃないと思いますが、すごい日常的なトーンの芝居を常にするんですよ。そのなかで面白いことをやるからそれが好きだったんです。
中西 ということは玉田さんの舞台に笑いの要素が多かったり、それにこだわって芝居作りをしていて、しかもその笑いの質というのがか関係のずれだったり、間尺の悪さというか間の取り方がずれたりしていたたまれないような感じが醸し出されてそれ転換してが笑いになったりするわけですけれど、そういうもののひとつの原点として松本人志さんというかダウンタウンのコントがあるということでしょうか。
玉田 それは確実にあると思います。本当にこういう瞬間あるよねという「あるある」の密度が高くてそれでそれを再現する時の俳優がもの凄い生々しいような普段の状態で出る。それでないと成立しないことをやっていた。そうじゃないと面白くない。
中西 いま青年団にいるからということはあるでしょうが、コントではなく演劇としてやっていることへのこだわりはあるのでしょうか。それとダウンタウンとかだと割りとシチュエーションがエスカレートしていくというようなことがあると思うんですが、玉田さんが今やられているのだとそこまでエスカレートしていくことはなくて、非常に日常的な状況のなかで小さく追い詰められたりしたところで突拍子もない行動に出たり、なんか割りとくすくすという笑いが多いですよね。こうした笑いの出所というのはどういうところからなのでしょうか。例えばこの間の「怪童がゆく」(2016年1月アトリエ春風舎)でいうと冒頭のつかみとしてはあそこでいきなり玉田さんが演じる中学生が出てきて父親とかみ合わない会話を繰り返すという場面があって、それは演劇としては2人の関係がちぐはぐというかうまくいってないということをそれとなく提示するということが目的としてはあるんだと思うのですが、シーンとしてはそれだけじゃなくてそのかみ合わなさ加減がおかしいというか、そこで笑いが起こる。それがこの芝居のトーンを決めている。つまり、ここで笑いが起こるというのは単なる手段以上の価値があるのかなと思うのですが。
玉田 そうですね。手段として、なくてもいいけど笑いを足しているというよりそれ自体がやりたいことだから。つまり笑いをやりたいという言い方をするとまた違うけれどこの感じのこの面白さが書きたいからやっている。だからそれは分けられないとは思っています。これ別に笑いの部分を取ってもいいじゃんとかと言われるとこういう風に書きたくてこういう風に書いたらそれが自然に笑いになるんだからしょうがないじゃないという感じですかね。
中西 笑いにつながるところで、すごく巧妙というか面白いなと思うのはオリザさんが(笑いではない)別のことで言ってるけれど情報の出し入れというか、観客は知っているけれど登場人物は知らないこととか、登場人物の誰と誰は知っているけど残りの人間は知らないというようなことが関係性の中での笑いに転化していくようなところとしてうまく使われているなと思ったんですが。そういうところの作り方のこだわりというのはありますか。
玉田 例えばこの2人が付きあっていることを皆知らなくて、皆最後の宴会で集まってきた時にそれに関係するようなセリフとかがあって、皆知らないからここだけで分かっていることが面白いというようなことでしょうか。
中西 それが微妙に会話の流れの中でシンクロニシティーを起こしたり、ずれたりしますよね。
玉田 普通に飲み会とかで皆でわいわいしゃべっている時に表面上だとなんでもない会話じゃないですか。けど本当は「今の会話の裏側にはこれがある」というようなことは常にあると思うんです。普通に飲みに行ってても。それを書くためにはああいう形になるだろう。その飲み会とかの空気というのはただわーとしゃべっているその場の空気をまず書きたくて……。
中西 それでは普段からそういうのを結構観察とかしているということでしょうか。
玉田 そうですね。それはしています。いつも人を見ています。しゃべっているのを見ているとか、こういうしゃべり方をするんだとか。なんか何でもないことを言ったけど何か変な間だったな。何でこういうリアクションなんだろうとかいうことは事情を知らないと分からないじゃないですか。それでお役さんにその事情だけは最初に教えておく。そうすると「だからこうか」というようにいろんなパズルがはまっていく感じがたぶん見えてくる。それが面白いという風にできるのは演劇が一番向いている。ほかのジャンルよりは向いているかもしれないです。
中西 演劇で「笑い」をやる時にかなり純度の高い笑いを演劇でめざした人は過去にもいたとは思うんです。例えば三谷幸喜さんにしてもケラさんにしても松尾スズキさんにしても「笑い」を志向した演劇をやっていたわけですが、結局それだけでは持ちこたえられなくて他のものを足していくことで演劇として成立するような作風に徐々にシフトしていったと思うのです。玉田さんの場合には「関係性」とかを描いてはいるけれど、それは閉じた関係性であることが多く、その外側の社会的状況とかはそういうことはあえて描かない。それは笑いと閉ざされたサークルの中での関係性を微細に描いていくという風になっている。それで最初に見た時には習作っぽくも感じて、そう指摘した記憶がありますが、何作か見たうえで「怪童がゆく」を見て、これは習作とかそういうものではなくて、かなり純度の高い感じでそういうものだけを追求していく過程でそれに必要のないものを全部意図的に消してしまっているという風に思えてきました。やはり外側というのは意図的に書かない感じなんですか。
玉田 書こうと思ったこともあったのですが、書こうとした時にそれを書くとこっちの面白さが消えるなという風に思った。ここでの関係性を書きたい、ここの細かいコミュニケーションでの面白さを書きたいという時にその背景のような社会的な問題を書こうとすると何か邪魔な感じがするんです。何かしら入れようかと思った時期もあるんですが、そのたびに「これはいるかな」と思いました。結局それをやりたいわけじゃないのに何で入れなきゃいけないいんだと考えるようになりました。
中西 最初に見せていただいたのが中学生だけが出てくる作品でした。その後、中学生に大人が交じっている話の中では割と大人の方の物語としてちょっと社会的なものというか、生活的なものが入ってきてるような部分が感じられました。それがこの間の作品では例えば息子と父親の関係とかはあるのだけれど、これでも実際には奥さんというのが何らかの形で亡くなっているのだろうなというのはなんとなく分かるのだけれど、あまりそれについて詳しいことは書かないじゃないですか。
 息子と父親がいて、奥さんが亡くなっているというのは演劇的にいうとそれだけでもそれだけでもすごく深い主題になりえそうなのだけれど、あまりそこに突っ込まないでああゆう形で展開しているというのは明らかに意図的なものを感じるわけです。
玉田 「怪童がゆく」に関していえば親子の話を突き詰めるよりも大人と子供の対比で見せたいというのがありました。大人らしいような、大人っぽいような話をして例えば最初の方にミーティングのシーンがあったのですが、これで皆大人としての振る舞いをしながら、皆しゃべるじゃないですか。だけど、実はひとかわ剥けば同じだというか、子供の中学生や小学生の気にして生きている「あの子に嫌われたらどうしよう」とか、小さな人間関係を気にしているその感じというのと大人の人たちの感じというのは実は一緒だろうということをまず書こうかと思いました。
中西 そのための仕掛けというのではないですが、まず第1に中学生というのを出して、それが異物としているわけですが、もうひとつブライアリー・ロングが演じるフランス人の留学生というアウトサイダー(外部の人)を持ってきてその2つの要素がいわゆる日本人にありがちな馴れ合い的なインナーサークル的なコミュニケーション阻害させる要因になって、皆がけっこう気まずくなってくるというのを嫌な感じではなくて笑いとして昇華させている。その点で子供と外国の人というのは対照的でありながら、似てるように思ったのですが。
玉田 そうですね。日本人の人たちはもって回ったようなコミュニケーションの仕方をするじゃないですか、「これは分かる」「それも分かっているんだよ」とかいいながら、「それはどうなんだろうねえ」とぼかしたりもして、何が言いたいんだというようなことがある。それで大人としての体裁だけはずっと整えている。それに向かってぱんと突きつけるというか、そこにパンチを食らわすような存在という意味ではブライアリーの役と僕がやっている中学生の役には共通するところがあります。
中西 共同体の外部の人としているという感じでしょうか。あの作品にはひとつの中心というようなものがなくて、恋愛にしても同時進行的に複数のことが進んだりしていますよね。もちろん、一応、いろんな形の恋愛模様を見せるというのはひとつのテーマではあるのでしょうが。
玉田 まあ、そうですね。もともとは恋愛要素をもっと多くしようと考えていたのです。恋愛の話だけで。大人たちが恋愛しているところを子供目線で書くというつもりで書き始めたのですが、しかし、あまりそれだけ書いても面白くないんじゃないかと考えて、恋愛部分を削っていったのです。
中西 意外だったのは最初に出てきた時の雰囲気からすると大学生の2人というのは男の方が女の子のことを好きっぽい感じで出てくるのが2人とも別々の恋愛をしてるというのが面白かった。それに結局先輩が当て馬のようになってひどい目に陥っていくというのが結構笑わせてもらいました。恋愛要素を減らしたというのは最初はそういう関係性でもなかったということなんでしょうか。
玉田 いや、関係性はあったんですが、もっとこことここもさらにとかもっと複雑になっていました。だけど、そこまでやっちゃうと何か、この狭いコミュニティーの中で完結しすぎているだろう。ここにしかこいつらにとって社会がないという感じが強くなりすぎるように感じたのです。それでちょっとそこは薄めたという感じでしょうか。
中西 「怪童がゆく」をやってみての手ごたえというのはどうだったでしょうか。けっこう自分の作りたいものが作れてきているという感触はあるのでしょうか。
玉田 実は作っているときは分らないんです。全然面白くないというものになっちゃうかもしれないとかも思いながらやるんですけれど。本当に本番期間が10日間あってその中で、だいぶいいものになったかなとは思います。
中西 それはどういうことなんですか。お客さんの反応とかも関係があるのでしょうか。それよりは役者の気づきとかなんでしょうか。
玉田 反応もあるんでしょうね。反応でここはこういう風にとられるのかとか、そういうのはお客さんを入れてから初めてどういう作品かというのが分かってくる。
中西 かなり綿密に計算されて書かれているように思うのですが。
玉田 両方ありますね。計算通りに大笑いがとれることもあれば、ここで笑うんだと思ってなかったところで笑いが起こる時もある。
中西 それはどっちも快感なんでしょうか。
玉田 どちらも嬉しいですね。ただ計算通りという時よりもそうじゃないポイントで笑った時の方が意外な分、より嬉しいかもしれません。ここ面白いんだという新たな発見があるので。
中西 表現活動をしていくうえで基本としている考え方というのは何かありますか。先ほどおっしゃられた笑いの話がそうなのかもしれませんが。
玉田 先ほど笑いの話の時に言いましたが「生々しい」風じゃないと笑えないというのがあります。
中西 「生々しい」というのは例えばどういう風なことでしょうか。
玉田 何ですかねえ。リアリティーというとちょっと広すぎるんですが。
中西 「生々しい」と「作り物」という対比があるという感じなのでしょうか。
玉田 たとえばここでしゃべっていて起こっている、この間で起こっているコミュニケーションがある。それを大抵の演劇のセリフとかを見ているとすごい記号化して書くんです。ここでは本当はものすごくたくさんの手が飛びあっているのにそこは書かないんです。そこは書かなくてもっとデフォルメをして書く。それじゃ笑えないし、面白くないよなと思う。そこで起こっている細かいことを書いていきたい。
中西 それでは普通の人が書かないような微細なところとか細部に笑いとかそこだけの魅力のようなものが眠っているのにあまり他の人は追求していないのはもったいないなという感じでしょうか。
玉田 もったいないというか、それじゃ面白くないじゃないと思っちゃいます。












 
 
  
 
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