『身一つ』の『娘道成寺』、木ノ下歌舞伎「娘道成寺」「隅田川」@こまばアゴラ劇場


 歌舞伎の現代劇化を目指し活動している木ノ下歌舞伎(木ノ下裕一主宰)は劇団設立10周年を記念し、昨年(2016年)から「木ノ下“大”歌舞伎」と題し、過去に好評であった同劇団の演目の連続再演企画に取り組んでいる。こまばアゴラ劇場で上演された「隅田川」「娘道成寺」(1月18日ソワレ、22日マチネ観劇)もその一環である。現代化した歌舞伎舞踊を日本を代表するコンテンポラリーダンスの振付家・ダンサーが製作、自ら演じるソロ作品を2本立てで上演した。
 きたまり(KIKIKIKIKIKI)の演出・振付・出演による「娘道成寺」はソロダンスとしてはまれな完成度の高さだった。コンテンポラリーダンスという表現の奥深さを見せつけた。木ノ下歌舞伎による「娘道成寺」は2008年のが初演。木ノ下歌舞伎の舞踊作品の代表的な演目としてこれまで再演をするごとに演出、振付を変えて繰り返し上演されてきた。上演はこれで4回目となるが、今回は歌舞伎に使われた音楽(長唄)をほぼ全曲まるごと使用。上演時間もこれまでの30分から60分と倍に延ばし、「決定版」的な位置づけでの上演となった。

 初演の「娘道成寺*1はきたまりのソロダンスとしては見所のある作品ではあった。しかし音楽にジャズ系の演奏家(亀田真司 伊藤栄治)の生演奏を使うなど、歌舞伎の風味は薄く、木ノ下歌舞伎が標榜する「歌舞伎の現代劇化」としては若干の不満が残った。そのために当時以下のような感想を書いた。

 きたまりの「娘道成寺」はいきなり天井から吊った縄につかまってブランコのようにブラブラと揺れるところからスタートする冒頭がまず印象的。度肝を抜くインパクトがあった。その後も身体の柔軟性を十分に生かした振付でまりのダンサーとしての魅力を存分に感じさせるものであった。もっともこれはダンス作品としては面白いが、きたまりのキャラは安珍への嫉妬に狂った清姫とは見えない。あえていえば場末の曲馬団の少女を思わせる。音楽も亀田真司 伊藤栄治らによるフリージャズ風の生演奏であり、オリジナルの長唄による伴奏の面影はほとんどなく、こちらも「三番叟」以上に原作との関連性を考えはじめるとどこが「娘道成寺」なのだろうと途方にくれる。きたまりによれば動きのいくつかのモチーフは歌舞伎の「娘道成寺」から取られたらしいが、きたまり流に変えられて分からない。共通点はどちらも女の情念の強さを感じさせるものだということぐらいで、いつ舞台に出てくるだろうかと待ち構えていた女の嫉妬心の象徴としての蛇身はついに具象的な事物としては登場しなかった。(以上、ブログ「下北沢通信」の日記より)

 次の2012年の再演は音楽を歌舞伎の音源(長唄)に変えた。ただ、その分ダンス作品として上演することの困難さは増加し、次のような感想となった。

きたまり「道成寺」は振り付け、音楽を一新のほぼ新作。歌舞伎の音源をそのまま使ったことで「京鹿子娘道成寺」本来の姿に近付いた。ただその分ハードルも高くまだ発展途上か。(以上、ブログ「下北沢通信」の日記より)

 今回(2017年)の上演では基本的にはコンテンポラリーダンスの技法を使ったダンスでありながら、原作の歌舞伎「京鹿子娘道成寺」を単にキャラクターのイメージを借りてダンス作品とするだけではなく原典と正面から対峙して現代の「娘道成寺」を体現してみせたという意味で以前に記した高い壁を見事に越えてみせた。

歌舞伎版である「京鹿子娘道成寺*2の筋立ては以下のようなものだ。

道成寺を舞台とした、安珍清姫伝説の後日譚。
桜満開の紀州道成寺清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は長らく女人禁制となっていた。以来寺には鐘がなかったが、ようやく奉納されることとなり、その供養が行われることになった。そこに、花子という美しい女がやってくる。聞けば白拍子だという。鐘の供養があると聞いたので拝ませてほしいという。所化(修行中の若い僧)は白拍子の美しさに、舞を舞うことを条件として烏帽子を渡し入山を許してしまう。花子は舞いながら次第に鐘に近づく。所化たちは花子が実は清姫の化身だったことに気づくが時遅く、とうとう清姫は鐘の中に飛び込むと、鐘の上に大蛇が現れる。一応上のような「筋立て」ではあるが、実際にはその内容のほとんどが、構成の項で解説した主役による娘踊りで占められている。つまりこの作品の筋立ては舞踊を展開するための動機と舞台を用意するための設定にすぎず、劇的な展開を期待すると作品の本質を見失ってしまう。「演者の踊りそのもの」を鑑賞するのが、この作品の要点なのだ。

 歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」は舞台で実際に何度も見ているが、全体として劇としての主題(モチーフ)楽しむというよりは、それを演じる女形の歌舞伎役者それぞれの華やかさや芸を楽しむレビュー的な要素の強い演目になっている。特に最近は人気演目とあり「シネマ歌舞伎」として映像化もされている坂東玉三郎尾上菊之助による「京鹿子娘二人道成寺」に代表されるように複数の役者が競演することが多い。ショー的な要素、スペクタクル性が強調されるとともにその分、下敷きにして謡曲の「道成寺」が持っていた蛇身にも成り果てるという女の怨念のような演劇的な要素は背景に退いているきらいがある。

 きたまりの「娘道成寺」は舞台に紅白の幕こそ敷かれているが舞台装置や小道具のようなものはいっさい使わずにそれこそ「身一つ」で長唄娘道成寺」に立ち向かっている。きたまりの動きは前半は非常にゆっくりとした抑えた動きで、顔の表情も基本的に能面のように無表情であったり、手で隠したり下を向いたりとあまり見えないように工夫されている。面白いのはそういう抑えた動きのところどころで主として腕から手そして指先でちょっとした「蛇身」の尻尾(というのはあくまで例えだが)を垣間見せていく。

 抑制された動きと書いたがそれは基本的には舞踏の身体メソッドの影響が感じられるものだ。ただ、きたまりは誰か単独の師匠の元に入門して修行したのではなく、 白虎社出身の由良部正美、土方巽直系の大谷燠(アートシアターdb主宰)、どちらも京都造形芸術大学教授(当時)だった山田せつ子(笠井叡門下)、岩下徹(山海塾)らにいずれも学んでいるというきわめて珍しい経歴を持っている。それゆえ、ダンサーとしてのその身体技法は舞踏の色彩が色濃いものではあるのだが、逆にいえば誰に似ているということもなくて、舞踏の流れを受け継ぎながらも、きたまり独自のものとなっている。

 この「娘道成寺」は過去の上演では即興性の強いものであったり、歌舞伎ないし日本舞踊の振付の引用などを試みたりもした。それがついに行き着いた境地として振付そのものは歌舞伎舞踊の動きとはまったく異質であるが、日本舞踊の踊り手が見てさえ、長唄と一緒に動きをみていると全然「振り」が違うのにそれぞれの踊りの色合いが感じられるものとなっているということのようだ。しかも、そもそも歌舞伎舞踊では鞠や扇など小道具を使うことでそれぞれの踊りの個性の違いを見せているのが、そういうものをいっさい使わず、それを見せているのが素晴らしい。

 とはいえ、本当の意味で圧倒されるのは後半部分で見せる「睨み」である。目つきひとつで舞台の空気を豹変させる場に対する支配力である。これは本当に稀有なものであって、舞台上で屹立する力というのはH・アール・カオスの白河直子が持っていたと記憶しているが、きたまりが「娘道成寺」で見せたそれとは少し方向性が違う気がする。演劇でこれを感じたのはSPACなどに出演している美加理、それから早稲田小劇場時代の白石加代子。少しおおげさな物言いをしていると思う人がほとんどだと思うが、今回は評判もなかなかで再演の機会もあると思うので、そういう人はぜひきたまりの「娘道成寺」を実際に見てみて判断してほしい。

一方、2本立てのもう1本は白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)のソロダンス作品「隅田川」だった。再演企画である「木ノ下“大”歌舞伎」ではあるが、実は「隅田川」の方は今回が初演。「娘道成寺」はこれまで男性ダンサー3人による「三番叟」との2本立てで上演されてきたが、今回は女性ソロによりともに女の情念を見せていく「狂女もの」「鬼女もの」の2本立てとなったことでプログラムとしてもすっきりしたのではないかと思う。
 
 この「隅田川」も「道成寺」と同様に謡曲をもとにしている。人買いに子をさらわれ悲嘆にくれる母親を主題としたもので、恋のあまりもの狂いになる「娘道成寺」と思いの向け方は違っていても思いの深さを考えれば、同じように重厚な作風となってもおかしくない。白神はこうした観客の予測をはぐらかすようにあっからかんと冒頭の場面を展開していく。船に見立てた箱のような装置に乗って出てきて、黒子2人が箱を動かしていくのにつれて、隅田川の水上バスのガイドのように浅草寺アサヒビールの「アサヒビールタワー」と「スーパードライホール」とそして今や東京でもっとも有名な東京スカイツリーと隅田川周辺の観光名所をジャズ風に編曲された「隅田川」の軽快なメロディーに乗せて次々と紹介していく。挙げ句の果てには白神は段ボール紙で作ったスカイツリーに開けた穴の部分から顔を出し笑顔さえ見せる。謡曲「隅田川」や歌舞伎の「隅田川」ものにある狂おしいまでの母の嘆きという一般的なイメージから甚だしく離れているため、「これはいったい何なんだ」と戸惑うことしきりだ。

 その後はマイクを持っての歌謡ショー仕立ての演出になる。そこまでは明るい調子が続くが、今度は歌詞にのせて1息子の梅若丸を人買いにさらわれて、必死になって探す母のことが切々と歌われる。そして、そこから先でどうやらその子が亡くなっているということが分かると、それまでのコミカルな調子から舞台は一変。白神の演技からも息子を失った母の絶望が伝わってくる。鳥になって息子のもとに一刻も早く飛んたんでいきたいということか、それとも息子がなくなり、魂が鳥のように飛んでいったということなのか。途中何度か白神は両腕を広げて羽ばたく鳥の羽のような仕草を演じるが、それはとてもせつないものを感じさせた。
 
 ただ、ダンス表現におけるきめ細かさ、密度という点ではその後に続いたきたまりの「娘道成寺」の一部の隙も無いような完成度の高さと比較すると白神の表現にはまだ天と地ほどの差があると感じたのも確かだった。
 今回の木ノ下歌舞伎は「娘道成寺」はきたまりがひとりで演出、振付、出演のすべてを担ったのに対し、「隅田川」は木ノ下裕一、杉原邦生、白神ももこの共同演出となっている。「隅田川」単独であれば最初から悩める母親を登場されて、その心情を切々と演じていくという選択肢もあったとは思う。
 白神も多くの観客が「圧倒的」と評する域に入りつつある「娘道成寺」と正面から対決したいとの思いはあったとも思うが、こちらはこれが初演ということも考えれば比較された時点で「負け戦」となることは避けられまいとの認識はあったろう。
 そういう中で白神のとぼけた持ち味を生かしながらもその中でそれだけでは終わらせずに母親の哀しみも表現してみせたという今回のやりかたはよかったのではないか。というのは1本目にこの作品だけを見た印象では「隅田川」なのに少し軽くないかと感じたのだが、2本を通して見た印象では白神の軽みもちょうどいい塩梅に感じたのだ。
 きたまりには「娘道成寺」をまだこれからも演じ続けていくことでいつかはこれを京都の歌舞練場で生演奏の長唄を前に演じてみたいとの野望もあるという。「隅田川」「娘道成寺」としてはこれがまだ初演。固定化された上演に固守せずに演出や演技に毎回新たな工夫を加えながらも同じ演目を演じ続けていくというのが木ノ下歌舞伎の本来あるべき姿であるとするならば今後この作品がどのように成長を遂げていくか。楽しみでならない。

娘道成寺]演出・振付・出演|きたまり(KIKIKIKIKIKI)

[隅田川]共同演出|白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)

[隅田川]共同演出|杉原邦生(KUNIO)

[隅田川]共同演出|木ノ下裕一

[隅田川]振付・出演|白神ももこ

監修・補綴|木ノ下裕一

美術|杉原邦生