桃唄309「人情食堂さくら」

桃唄309が95年の初演以来3年ぶりに「人情食堂さくら」を再演した。この芝居については、初演の際に下北沢通信(演劇情報誌Jamci vol,18)で「演劇におけるミニマリズム」として「チェホフの系譜を継ぐ、新たな演劇の流れだ」と評したのだが、今回は重複を避ける意味もあり、桃唄 309ならびに劇作家長谷基弘のその後の作品も踏まえてもう一度、この芝居について考えてみたい。短いシーンをつなぎながら、歴史や社会共同体といったより大きな世界を俯瞰してみせるのが作演出の長谷基弘の作劇の特徴である。

 これはよく比較される平田オリザら他の「静かな演劇派」の作家にはないことで、そうした独特の作風の一つの原点がこの芝居といっていい。ここでは定食屋さくら食堂の昼時のスケッチが7日間にわたって描かれる。食堂は閉店することになっていて、描かれるのは閉店までの最後の一週間である。だが、そうした、芝居全体の構造は後から俯瞰して初めて分かることで、舞台では一見いつもと区別のない近所の常連客でにぎわう大衆食堂の昼時の姿がただ淡々と演じられていく。

 登場人物も酔っ払いの親父や駄洒落を連発する調子のいい男、噂好きの近所の主婦、バーのママといかにも下町人情喜劇を思わせるようなこの集団としてはかなりデフォルメの度合いの強い人物たちで、全体の印象もコメディータッチではある。会話も天気のこと、近所に出来たコンビニのこと、青梅街道で勝新太郎を目撃した話ととりとめもないものばかりだ。舞台後方の壁に日めくりカレンダーがあり、それだけが変わらない日常の中での時の流れを象徴しており、暗転しないばかりか、照明の変化もないのに女主人のさくらが日めくりをめくるとそこからはもう次の日という設定で、そうした日常が繰り返されながら、芝居はしだいに食堂がなくなる最後の日に向かってつき進んでいく。

 食堂の廃業は歴史上の重大事件というには語弊があるが、ここには日常描写のスケッチ的な積み重ねによって、戦争などの大きな歴史的な出来事を俯瞰していこうという「私のエンジン」「五つの果物」といったその後の作品で長谷が演じてみせた方法論の萌芽が確実に含まれている。

 さらに、この芝居では「人情食堂さくら」という下町人情喜劇を連想させる題名でもあり喜劇的なドタバタも演じられるが、そうした人情喜劇を装ったとりとめのない会話の中にもさくら食堂周辺の環境の変化、そして、そういう変化の中で、さくら食堂が終わりを迎えるという事実をさりげなく、ちりばめていく。この一見、無為を装いながら、企みのある会話こそ長谷の作劇の真骨頂である。例えば、登場人物の一人は近くの酒屋がコンビニになったことを便利になったと喜んでいる。しかし、そういう利便性をありがたがるような人々の性向ことが、さくら食堂を閉鎖に追い込んだ理由にもなっていることには無自覚なのである。さらに芝居ではバブルの崩壊や地上げ屋の暗躍といった東京の現実の断片も示され、「さくら食堂」に代表される地縁共同体が都市再開発の波のなかで崩壊していく様が見事に捉えられている。直接描かれるのは昼時の食堂だけだが、作者はその外の社会の変化を確実に射程に入れている。それが、この芝居を単なるウエルメードの喜劇にとどまらず現代演劇としての評価に値するものとしている所以である。 

 95年の初演の時の劇評で、さくらという言葉の偶然の一致をあげつらい この芝居は現代の「櫻の園」だと、いささか戯れ言めいた筆致で書いた。今回再び、この作品を見てあらためてその例えは間違っていなかったと思う。

 チェホフの「櫻の園」は地主階級の跡継ぎである夫人ラネーフスカヤの所有する櫻の園が競売にかけられるまでの顛末を屋敷に出入りする様々なコミカルな人物たちの群像劇の形で描きだしたものだが、地主階級の没落といった主題をあくまで喜劇的なタッチで描いたところにチェホフらしさがある。この芝居も同様のスタイルを踏襲しており、都市のコミュニティーの崩壊というともすれば問題劇として大上段にふりかぶってしまったり、お涙ちょうだいになりがちな題材をやはりコミカルなタッチで描いた点であい通じる部分があるのではないだろうか。

 初演と今回の再演では主役のさくら役を男優から女優(楠木朝子)に変えたほか、実はかなり大幅なキャストの変更があった。さらにキャストの変更にともないひとりひとりの役作りも大幅に変えている。だが、そうした大幅な変更にも関わらずこの芝居から受ける全体の印象には、それほど大きな変化はなかった。

 これはこの芝居が単によくできた群像劇だというだけでなく、本当の主人公が「さくら食堂」、そして、かつて「さくら食堂」があった「今はなき東京」であるせいかもしれない。その意味で、この芝居において俳優以上に存在感を主張しているのが完全主義を思わせるほどディティールにこだわったさくら食堂の内装の美術である。きわめて、具体的でありながら、だれもがどこかで見た記憶があるように思わせるという力この舞台の美術装置は持っている。そして、ラストシーンで長谷は登場人物が皆去り空になった「さくら食堂」を見せる。実はこの役者が一人も居ないラストシーンこそ、この芝居でもっとも印象的なシーンなのである。扉からこぼれる夕日に照らされる薄暗い食堂に外から近所のだれかが練習していると思われるエリック・サティピアノ曲だけが流れるなんとも物悲しい情景。これで、思いだしたのが、そう、桜の木を伐る音だけが響く「櫻の園」のラストシーンだった。(2月20日=下北沢駅前劇場