メアリー・キャサリン・ベイトソン「天使のおそれ」

グレゴリー・ベイトソンの遺作を娘のメアリー・キャサリンベイトソンが共著の形でまとめた「天使のおそれ」という本を読み返している。グレゴリー・ベイトソンといえば分裂病的思考を分析した「ダブルバインド理論」が有名だが、「精神の生態学」「精神と自然」といった主著を読んでみるとその問題群の立て方がいかに広範で多岐に渡っているのか驚かされる。「精神の生態学」「精神と自然」については以前人に貸したままそのままになってしまって、現在手許にないのが残念なのだが、以前はその2書と比べると生前に著者がまとめたものではないので、いまひとつと思っていた「天使のおそれ」もベイトソンの思索を追体験するうえで、なかなか刺激的なものであると思われてきた。これはもちろん、芸術について書かれた本でもなければ、演劇について書かれた本でもないのだが、演劇やダンスについて考える時に示唆を与えてくれそうなアイデアも登場する。そういう意味でもきわめて刺激的なのである。

 例えばメタファーについてのこんな一節。古典論理学の有名な三段論法に「バルバラの三段論法」というのがある。

 人は死ぬ

 ソクラテスは人である

 ソクラテスは死ぬだろう


 この短いくせ者の構造―その骨格―はクラス分けというものに立脚している。ソクラテスにかかる「死ぬだろう」という述語は、ソクラテスがその述語を共有するメンバーからなるクラスのメンバーだと認めたものだ。(ここではベイトソンはまわりくどい言い方をしているが学校の時に習った集合論を思いだしてほしい。要するに「人」という集合の要素が全て「死ぬ」という性質を共有しているとすれば「人」に要素として含まれるソクラテスはやはりその性質を共有しているということだ)

 さて、これに対してベイトソンは「草の三段論法」と名付けて、もうひとつの三段論法を持ちだしてくる。

 草は死ぬ

 人は死ぬ

 人は草である

 そして、べイトソンはこれをメタファーの三段論法とも呼ぶのだが、それはメタファー(隠喩)と呼ばれるものがこれと同種の構造を持っているからである。ベイトソンから少し離れて私なりにメタファーの構造を説明するとこうなる。

 メタファーは提示されたある構造がそれと同じ(類似の)構造を持つ、別のないかを想起させることである。そして、ベイトソンは論理学者がなんと批判しようと詩、芸術、ユーモア、宗教は草の三段論法びいきであり、さらにすべての前言語ならびに非言語的コミュニケーションはメタファーおよび/ないし草の三段論法によると主張するのである。それはなぜかといえば、バルバラの三段論法が成り立つにはクラスを見分けて、主部と述部を切りはなさなければならないが、言語を離れたところでは名付けられたクラスもなければ、主―述関係もないからである。

 このような手法の論理展開は私が以前からある対象について考えるときに折りに触れ多用してきたものでもあり、私個人の用語ではそれをパターン認識と呼び習わしてきたのだが、これにはアブダクション(間接還元法)という呼び方もあるということがこの本を読んで分かってきた。アブダクションとはAとBとのあいだにはっきりと認められる類似性が、さらなる類似の可能性を提示していくような推論の形式とある。

 演劇のことに話を戻せば、90年代の日本現代演劇において「関係性」「存在」「身体性」といったパターンをそこから読み取り、いわば新しい地図としてそれをマッピング*1してみたい。それをなんとか今世紀中にはやりたいというのが現在の私の野望である。

 さらにいえば非言語表現の最たるものであるダンスについて考えてみるときにはこのメタファーの三段論法は演劇以上に武器になりえるのかもしれない。こちらはまだ漠然としたアイデアの域を出ないのであるが。もちろん、ここで引用したメタファーの三段論法についての部分はベイトソンのこの著書においてはほんのとば口に過ぎない。この手のいろんなアイデアはそれこそ宝石箱のように詰まった本であり、読み返せば読み返すほどいろんな発見があるのである。 


 10月18日 岩松了演出の「かもめ」は喜劇というのを妙に意識しすぎてしまったのではないか。チェホフの芝居には本質的に俗物的人物が登場して、それががらにもにあわず高尚なことを語ったりすることで、すでに十分にコメディーの要素を満たしているので、ことさら奇を衒うかのような小技を駆使しなくても、もう少し普通にやっても喜劇となるのにどうもそれぞれの俳優がやり過ぎの感があるのだ。特に目立つのがほとんど女優のパロディーを戯画的に演じているような樋口可南子のアルカージナである。これにはまったく当惑させられてしまった。

 ただ、配役はなかなかいい。なかでもメドヴェジェンコ田口浩正、マーシャの吉添文子は抜群のはまり役でどちらかというとわき役的な役どころでありんがら主役を食ってしまうほどの存在感があった。ただ、考えてみると吉添文子の演じる不機嫌なマーシャなどはいかにも岩松了が好んで描きそうな人物像であるそういう人物がいかにも魅力的なのに逆に群像劇とはいえ、チェホフが中心として考えていたと思われるアルカージナ/トリゴーリン/ニーナ/トレープレフがどうも生き生きとしてこないのは問題のような気がする。