ク・ナウカ「オイディプス・レックス」

 ク・ナウカオイディプス・レックス」について感想を書く。表題の「オイディプス・レックス」のレックスというのはラテン語の王ということで、そういえばティラノサウルス・レックスというのは恐竜の王という意味だったような。この公演はク・ナウカ若手新人公演として企画され、劇団入団1、2年目の若い俳優らによって上演された。本公演ではなかなか大きな役がつくことの難しい若手の鍛練の場とともに、この「オイディプス王」は5月の利賀フェスにおいて、本公演においての上演が決まっているということもあり、この劇団がこれまで本公演の前に小さなスペースで行ってきた実験公演と同様、本公演に向けてのブレーンストーミングの役割も果たしている。

 さて、これまでの実験公演では舞台の完成度において、若干不満を覚えることが多かったのだが、今回の公演では俳優がキャリアの少ない若手だということを勘案すれば演出や演技の面で意外といっていいほど完成度が高かったのに感心されられた。特に主要は配役であるオイディプス、イカオステ、クレオン、ティレシアスといったところスピーカー(語る俳優)はところどころは気になるところがないではないながら、語りのスタイルが多様で、かなりの技術が必要となるところをうまくこなしていた。本公演への出演経験もあるクレオンの萩原ほたか、イカオステの吉田桂子は安定していて当然としても、98年入団で若手公演とはいえオイディプスのスピーカー役に抜擢された本多麻紀の頑張りが目についた。今後が楽しみな存在である。一方、ムーバー(動く俳優)の方はさすがに本公演と比べるとビジュアルはともかく、演技の深みの点でかなり差がるのは否定できない。とはいえ、ムーバーは最近のク・ナウカにおいては美加理が完全に中心になって、特に「エレクトラ」や「王女メディア」などではほぼひとり舞台に近い印象もあり、それと比べれば影が薄く見えてしまうのはいたしかたないかもしれない。

 一般に身体的表出を表現の中心に置く、「身体性の演劇」においてはその舞台を担いうる身体というものは一朝一夕に得られるものではなく、それぞれの集団が葛藤の末に獲得したある種の様式性とでもいうものを担いうる身体を持つ俳優を育成するには時間がものすごくかかるのである。その意味ではク・ナウカの場合、ことスピーカーについてはある程度のレベルにまで最初は素人に近い俳優たちを段階を踏んで訓練するためのメソッドが確立しつつあることを感じさせたが、ムーバーについてはその具体的な技術のありようが見えにくいだけに新人の育成ということに関してはかなり厚い壁があることを感じさせた。

 ただ、今回の舞台においては宮城聰がソポクレスによるギリシャ古典悲劇を今、日本で上演することにおいて持ち込んだ「東洋人的な権威としてのオイディプス王」という解釈のフレームが芝居を持ちこたえさすということにおいて有効に作用していたことは認めざるをえない。簡単に言えば、解釈から導きだされるそれぞれの人物像といったような知的な面白さが芝居において大きな比重を持っていたということである。

 この芝居におけるオイディプスは僧衣のような服装を着て、あたかも能楽のシテのようにしずしずと舞台に登場して、テーバイを覆う穢れについて静かに語りはじめる。ここではオイディプスのムーバーも女性(寺内亜矢子)が演じていて、その存在における女性的な部分が強調されている。ク・ナウカで「王女メディア」の次に「オイディプス」をやるという話を聞いた時にはでは美加理はどうするのと思ったのだが、この解釈はおそらく本公演での美加理=オイディプスを踏まえてのことで、これまでの私のイメージではオイディプスはベテラン男優が演じることが普通なので、リア王と重なる部分があったのだが、考えてみれば実の母親(イオカステ)と結婚できるほど若いわけで、こうした解釈もなりたつ余地があるわけだ。

 実はこの芝居とは直接関係はないのだが、ソポクレスには盲目になったオイディプス王が長い放浪の旅の末に娘、アンティゴネーに手を引かれながら、アテナイ郊外のエウメニデスの禁制の神域にやってくるという後日譚を描いた「コロノスのオイディプス」という作品がある。先にあげたオイディプスリア王のイメージは私にとってはどうもこの芝居の方でのオイディプスから連想されたイメージがまとわりついているというのがあることに気がついた。

 宮城の今回の解釈ではイカオステとオイディプスの関係というのは実際にインセストタブー(近親相姦の禁忌)を犯しているという事実の以前から疑似的な母/子関係であって、そのことは芝居の後半に薄い幕を通して、映しだされる2人の情交シーン(象徴的に様式されたセックス)に感じられた。当日配られたパンフにおいて宮城は「もし、オイディプスに救済が訪れるなら(中略)、その救済のきっかけを「母性」に見いだしているのですが」と書いている。だが、「母性=妣なるもの」に向かっての救済というのは永遠の子宮願望ともいえるわけで、スフィンクスの謎を解いた最初の探偵でもある知性の人オイディプスの「子宮への退行」を暗示させもし、それが果たして救済たりえるのかという問題は依然、残るような気がする。

 実は「コロノスのオイディプス」におけるオイディプスというのは典型的な「マレビト」であって、タブーを犯した穢れた存在である(しかも、近親相姦と神の神域を犯すという2重のタブー)とともにそれゆえにこそ「死」を媒介にして、アテナイの守護的存在となるべく、聖域の森に消えていく。もちろん、これは同じ作者の別の芝居での話なので、「オイディプス」自体とは直接関係はないのだが、ちょうど直前に弘前劇場の「召命」を見たばかりだったので芝居を見ながら、頭の片隅でこんなことも連想してしまった。