WHAT’S NEWと日記風雑記帳3月

WHAT'S NEWと日記風雑記帳3月

 3月31日 起きたらすでに1時ということで、世界一団は見られず仕事に行く。

精神の生態学

精神の生態学

 人に貸したまま返ってこないままになっていたグレゴリー・ベイトソン「精神の生態学を書店で見つけたので購入した。ここ数年、東京でも探したが見つからなかったのは絶版になっていたからだということが分かった。以前は2分冊だったのがこの改訂版では1冊本となっており、奥付けで発行日時を見ると2000年2月となっている。いくら探しても見つからなかったはずである。

 ちらちらと拾い読みをしているのだが、これがやはり面白い。中でも娘と父親との対話の形式を借りながら、多様な事柄の本質に切り込んでいく第1章のメタローグが物事を明晰に考えるというのはどういうことかという実例を難解な用語を使わずに分かりやすく示してくれるという点で非常に刺激的。特に「フランス人の手ぶり」(メタメッセージとはなにか)、「人が白鳥になる理由」(バレエにおける隠喩と聖と美)の2編は表現者を志す人(もちろん、それ以外の人も)にとってはきわめて啓発的なことが書かれているので、機会があったら一度は読んでみてほしい。この本、6500円とけっこう高価なのが珠に傷なのだが、買っておいて損はない本だということは確かである。

  

 3月30日 2000年ベストアクトダンス編を掲載。ひどく遅くなってしまってもうしわけない。やっと、2000年ベストアクトダンス編を掲載することができて、少しだけ肩の荷がおりた思いである。とはいってもすぐに4月のお薦め芝居の原稿も書かなければならないし、今月のはじめに書くと宣言したままになっていたポかリン記憶舎「回遊魚」の下北沢通信レビューも書き上がっていないので、締め切りなどないはずのホームページで自分の気持ち的には毎日が締め切り状態(笑い)でどうしてこんなことになったのかと後悔しているところなのだが。

 今週末は土曜日は仕事。日曜日は猫のお尻とベトナムからの笑い声を観劇の予定である。来週は5日に石原正一ショー「噂の刑事 トニーとナッツ大会」、7 日(土曜日)がチケットを取りそこなったので当日券で大人計画「エロスの果て」に挑戦してみるべきかどうか現在思案中。8日には売込隊ビーム「お気楽ショートストーリー集2」(1時〜)、Ugly duckling「アドウェントゥーラ」(5時〜)の予定なのだが、週末については大人計画の関係で、ほかの公演もチケットを取ってないので、スケジュールはきわめて流動的なのである。それにしても今月はその後も遊気舎、スクエア月組クロムモリブデン、トリのマーク、ナイロン100℃、ジャブジャブサーキット、故林広志Pと東西で絶対に見てみたい舞台がめじろ押しで、来月はじめには利賀フェスもあるしお薦め芝居のコメントも長くなりそうで困っているところである。  

 3月29日 化石オートバイ「アンテナ山」(7時〜、HEP HALL)を観劇。この劇団を見てみようと思ったのは作演出で、出演もしている山浦徹をアプリコットの「Believe」に出演しているのを見てこれはいい役者だなと思ったからである。しかし、実際に芝居を見た印象は「これはちょっとしんどい」という感じ。演技スタイルはいろんな役柄を3人の役者で演じ分けていくところとか惑星ピスタチオやところどころはランニングシアターダッシュの影響を感じさせるところがあり、芝居の方向性としてもエンターテインメントを志向しているようなのだが、厳しい言い方になるがこのレベルでは安心しては楽しめないのだ。演出面からいえばこういうスタイルの芝居ならばもっとテンポを早くして、ノンストップアクション映画のように息もつかせぬスピードで展開していってほしいのになにかのたのたした感じで芝居が弾んでこないのだ。これは演出だけでなく、一例を挙げれば3人が揃って走るようなマイム(?)をやるシーンを取っても、身体表現としてそれを見せるならもう少しスピード感を出しうる俳優としての鍛えられた身体が必要ではないかと思わざるをえない。

 戯曲としてもどうしてもどこかで聞いたような話という印象を受けてしまう。立てこもり犯人が人質に助けられるというストーリーはそれって「スペーストラベラーズ」じゃないのと思わずつっこみをいれたくなってしまったのだ。 

 3月28日 一心寺シアタープロデュース「もう一人のビートルズ」(7時〜)を観劇。  

 3月27日 この日は珍しく平日休み。しかし、芝居もあまりいいのがやっていないので、昼ごろ起きて、ホームページ関連の執筆をシアターテレビでやっていた大人計画の芝居を横目で見ながらしていたら、1日過ぎてしまった。これではいかんと夕方、梅田に出掛けて映画「EUREKA(ユリイカ)」(青山真治監督)を見る。以前から見たいと思っていたのだが、上映時間の長さに恐れをなして、これまで見る勇気がなかったのが、大阪に来てまだかかっている映画館があったので遅ればせながら見ることが出来た。見終わって最初の感想はこの映画はビデオとかではなくて映画館で見ることができてよかったということ。もちろん、映画は映画館で見た方がいいには決まっているが、ここではそういう意味ではなくて、おそらくこの映画は映画館で見ないと面白くなかっただろうということだ。

 言い方をひっくりかえせば映画館で見たからこそとても面白かったということである。つまり、ここには映画ならではの快楽が詰まっているのだ。常識的に考えて、4時間という上演時間は長すぎるといっていい。しかも、それがコッポラの「地獄の黙示録」や「戦争と平和」というようなスペクタクルのある大作であればまだしも、これは全然そういう映画ではないのだから。しかし、それでいて、見飽きないのは小さな伏線をそこここに張り巡らせていきながら、観客にいろんなことを考えさせていくきわめて緻密な作りにある。特に絶妙なのはそこここで提示される時間の経過についての描写、計算されたカットのつなぎだけで、一切の説明を排して時間経過を提示してみせる。そしてそこで多用されるのが省筆という手法である。私は映画に詳しくないので映画的にこれをどう言い表せばいいのか分からないのだが、物語のポイントとなる重要な場面は直接描かないで飛ばしてしまう。ここで映画を見ている観客はその間に起こったことについて想像力を駆使して様々なことを考えざるをえない。

 一例を挙げてみよう。舌を巻いたのは役所広司が演じる沢井真が田村美都を自転車に乗せて、彼女のアパートに送っていった場面。夜のシーンで沢井が彼女に誘われアパートに入っていく。その瞬間、カットアウト。場面は変わって同じ場所の朝と思われる場面。そこには沢井の自転車はない。そして、今度は一転して小さめの川の流れが写る。そうすると川の中にはそれ以前のシーンで彼女が履いていたサンダルの片方が流れ、水底にはやはり以前のシーンで彼女が沢井に渡そうとした飲料の缶が。これだけのおそらく1分にも満たないカットのつなぎだけで、青山は彼女がこの田舎町に跳梁している連続通り魔殺人犯の次の犠牲者になったことを遺体の1つを写すこともなく提示してみせる。それはきわめて明確であって、暗示ではなく限りなく明示に近いのである。

 もちろん、この映画でみごとに印象的なのはわざわざ指摘するまでもなくラストシーンなのだが、これこそが映画館でしか味わえない快楽で、全然違う仕掛けなのだけど、この俯瞰の映像を見ながら、この監督はある意味これが取りたかったから全体の構造を作ったのだと思われてきたのだった。

 とこういうことももちろん、映画の魅力だったのは間違いないのだけれど、それでもそれはうまさにやられたと思うということはあってもこの映画がいいって思わせるのは田村兄妹の妹の方を演じた宮崎あおいの存在によるところが大なのじゃないかと思う。可憐というだけじゃ表現できないいろんなことを彼女は表現してくれているのだけれど、ある意味この年ごろでないと表現できないことってあるわけで、そういうのをフィルムという形で定着できてしまうのが、演劇にはない映画の強みなんだと思う。 

 3月26日 CS衛星放送を入れたのはサッカーを見るためと東京から離れて全ての公演をフォローできないので「シアターテレビジョン」に加入して少しでもギャップを埋めたいとの考えからだが、土曜日に眠い目をこすりながら、アンテナを据え付けてもらったのは日本代表 VSフランス代表を深夜に生放送で見るためであった。そういうわけで厳しい現実にすっかり意気消沈してしまい現在は精神的にはほとんど死んだ状態なのである。

 もっともそれでもシアターTVはしっかりと活用していて、渋谷のユーロスペースでかかった時に見逃したW・フォーサイスのインタビューやイリ・キリアンらのインタビューなどを見ることができたしまあいいか。 

 3月25日 東山ダンスミニシアター、Bプログラム(1 時〜)を観劇。

 砂連尾理+寺田みさこ「ザ・ラスト・サパー」は2月に横浜のソロ&デュオで見たのと同じ作品なのでその時の印象とほぼ同じ。この2人についてはこういう変にコンセプチャルな作品ではなく、せっかくダンサーとしての技術レベルが高いのだから、もう少しダンスに徹した作品を見てみたいというのが正直な感想である。

 この日のメインの目的は横浜に出演していながら見逃したMonochrome Circusがどんな傾向の舞台を作っている集団なのかというのを見てみたいということであった。その意味ではこの日「収穫祭2001」という舞台を見てその目的は半分達成されたが、半分はまだ達成されなかった。というのはこの日舞台を見てそれから舞台の後、この集団を主宰する坂本公成に話を聞いてはっきりしたのだが、Monochrome Circusは全く方向性の異なる2つの活動を行っていることが分かったからである。そのうちの1つがこの日、上演された「収穫祭」という公演でこれは東京のダンスカンパニーの多くが志向しているような独立した作品(コンサートピース)というわけではなくて、「出前パフォーマンス」というコンセプトで、楽器の生演奏やそれに合わせて踊られるダンスの小品、今回は登場しなかったが、詩の朗読といったパフォーマンスを携えて、劇場以外のいろんなところに出掛けて行う公演であって、その中には重要は要素としてダンスも含まれるのだが、ダンスにしても演奏にしても作品と練り上げられた完成度の高い作品というよりはその場に居あわせた人々を巻き込みながら、対話的に展開される出し物という感じが強く、それは動きに関してはフリーインプロビゼーションのような即興ではないのだけど、シンプルで即興的に作られたという印象が強いものだからである。

 この日は完全にダンスを見にきた観客を前にした舞台であったため、やや硬い感じもしてどちらかというとやりにくそうな雰囲気もあったのだが、音楽にしても生のギターとピアニカ演奏を主体とするというきわめて簡素なものでこういうこと言いだすと年がばれるが、政治的な主張とかを別にすれば60年代フォークの活動形態と近いという感じがあるのだ(笑い)。この集団のやる音楽の曲想というのがけっして現代風のものでなくどこか懐かしい感じがするものであることもそういう連想を呼ぶ理由の1つとしてあるのだけれど。

 そのフォーク文化の発祥の地のひとつであった京都にいまこういう活動をやっている集団が存在しているのにはある意味、因縁めいたものを感じ、そこに私なんかは「京都の匂い」を感じ取るのだが、そういう年よりの繰り言はひとまず置いておこう(笑い)。

 こういう感じというのはとかくハイセンスのみを競いあう東京などではダサイと見られがちで下手をすると猫ニャーや大人計画が時折悪意とともに描くある種のボランティアグループのように揶揄の対象にされてしまいがちなのだが、Monochrome Circusがそうかというとダンスにしても音楽にしても素朴を前面に出しながらも、ダンスにしても現代ダンスの流れというものをその視野に捉えているし、音楽にしても日本風な懐かしさがありながらどこか民族音楽の換骨奪胎を感じさせるようなところもあってけっこう一筋なわではいかないのだ。このダさカッコイイ微妙な線を狙ってきているところもいかにも「京都的」でいやらしいのだ。

 さて最初に方向性の異なる2つの活動と言ったのはMonochrome Circusは「収穫祭」の活動だけをやっているわけではなくて、それとは並行してちゃんと劇場向けのコンサートピースとしての作品も作っているからで、そちらの方は「収穫祭」などとは全然違って、映像や照明効果などもふんだんに使って、コンタクト系の激しい動きをする舞台であるらしいのだが、この日はゲストのダンサーにより、そうした作品のさわりを少しだけ見せてはくれたのだが、それだけではちょっと全貌が分かった気にはなれなかった。

 実はMonochrome Circusは8年ぐらい前に京都の無門館(現・アトリエ劇研)で公演を見たことがあるのだが、その時にはダムタイプをしょぼくしたようなマルチメディアパフォーマンスをやっていた記憶が残っている。さすがに今回見てみるとまったく別の集団という印象で、ちょっとこの集団にはしばらく注目していきたいと思った。  

 3月24日 東山ダンスミニシアター、Cプログラム(2時〜)、Aプログラム(7時〜)を観劇。京都市東山少年活動センターの創造活動室のオープニング事業として、京都に拠点を置くダンサーを集めて行ったダンス企画である。ABCの3つのプログラムに分けてそれぞれ2〜3組のダンスカンパニー(個人)が参加している。この日注目していたのは北村成美のソロ作品第2弾「めくるめく組曲」(Aプロ)とENTEN「ZAP」(Bプロ)である。

 実はこの日は朝から自宅にCS(衛星放送)を据え付けたため、その工事に立ち会わねばならなくて、それが予想外に時間がかかり、会場である青少年活動センターについた時には時間に遅れてしまいプログラムCの黒子さなえはすでに始っていたのであった。おまけにこの日のプログラム表をどこかに置いてきてしまったので、詳しい出演者などが分からず本当に茫漠とした感想になってしまうのが、申し訳ないのだが、せっかく行ったので簡単に感想だけは書いておく。黒子さなえの2つ目の作品「populus」から見始めたのだが、これは語りの言葉に合わせてその横でダンスを踊るというものなのだが、遅れてきて会場の雰囲気に慣れるまで時間がかかったせいもあるが、こういう形式だとどうしても語りの内容の方に頭がいってしまって、ダンスとの関りあいがつかめないまま終わってしまった。それゆえこの作品については今回はあまりどうこう感想を述べることはできない。

 Aプロではこの後、チラシにはなかった特別プログラムとして山下残の小品が上演され、その後が北村のソロであった。山下作品は女性ダンサーとのデュオ作品だが、これもスポットの中にたたずんでいる女性ダンサーが最初ほとんど動かず、手だけの踊りを少しやった後で踊りはじめ、女性ダンサーの後ろに影のように寄り添っていた山下が女性のダンサーが動きだすと動きをシンクロさせてそれに付き合うという構成。しかし、動きだしたところですぐに終わってしまうぐらい短い作品なので、これもちょっとした女性の動きなどに面白く思われるところはあるものの、これだけじゃちょっと判断がつかないというのが正直なところであった。

 北村成美の「めくるめく組曲」はいかにも北村らしいキッチュな魅力のダンス作品。ソロとはいうものの、いきなり2人の恋人の出会いをチープなミュージカル風に仕立て上げた映像からスタートし、そこには北村以外の2人のダンサー(振付家、石井潤の実娘であるバレエダンサー、石井千春とENTENのメンバーである佐藤健太郎)が出演している。京都の鴨川沿いで野外ロケして撮影したらしいのだが、最初から狙ってのチープなのか、もっとゴージャスな感じで作ろうとしたのがいろんな制約からこうなってしまったのかがよく分からないのだが、わざとらしい恋愛劇からそれが路上や鴨川河原での唐突としかいいようのないダンスシーンに変わっていくところなどインド映画を思わせるようで思わず笑ってしまうのである。最近は映像を使ったダンス作品は珍しくはないのだが、ビデオ編集の技術などが一昔前とは比較できないほど進歩してきたせいかこういういかにも素人っぽい作りっていうのは少ない。ちゃんと笑えるという意味でも一昔前の遊気舎とか最近でいうと猫ニャーとかが使っているように笑い系の演劇集団が使う映像のやり方にむしろ似ているところがあって、そうしたところも北村茂美のダンスにおける異色性を示している。

 映像が終わると北村のソロダンスが始めるのだが、今回はいきなりアイマスクにピンクのボディスーツというなんとも刺激的なコスチュームで登場する。ひとしきり挑発的に踊った後、アイマスクをはずし、胸のブラの中に入っていた林檎を取りだし齧り付く。林檎は最初のビデオ映像にも登場していて、この作品のメインモチーフのようで、禁断の果実というかここではかなりあからさまに性的寓意を示している。

 この作品にはそれだけなく腰を振ってみせたり、足を開いたりとかなりきわどい振付も含まれていて、こういうことをやると隠微になりかねないのが、それがカラッとして見えてしかも笑いにつながるというのはどちらかというそういう仕草もここではデフォルメされて記号的に入れられているのに加えて、あっけらかんとした北村の個性がプラスに働いて作品をコミカルなものにしているといっていいだろう。

 コンテンポラリーダンスではローザスをはじめ椅子を使う技法というのは枚挙にいとまがないほど多いのだが、今回の作品のミソはソロダンスなのに数多くの椅子を並べてあちこち動かすなどこれまであまり見かけたことのない椅子の使い方をしているところにある。もっとも、この日は中盤ややもたついていて冗漫な感じがあったので北村に確かめてみると林檎がトラブルで床に落ちてつぶれてしまい本当をもっと床をきれいに滑るはずだった椅子の滑りが悪くなって考えていたような椅子を移動しての動きができなかったらしい。そのあたりを勘案してみても30ステージ以上を重ねた前作「i.d.」と比較するとまだまだシーンごとの個々の動きなどは粗さが残っている印象が強い。作品としては楽しめるシーンは多いだけに再演を重ねてより作品の完成度を高めてほしい。

 一方、夜のBプロは舞踏家、竹の内淳による「STONE」とENTENの「ZAP」である。竹の内淳は以前に両国のシアターXで見たことがあるのだが、こういう形で劇場の公演を見るのははじめてである。竹の内淳の舞台を受容するには前日ほとんど睡眠が取れなかったこの日の体調ではちょっと無理があったようで、作品としてはところどころ目を引くところがありながら、途中いつのまにか眠ってしまった。

 ENTENはクルスタシアと一緒に扇町ミュージアムスクエアのアクトトライアルに選ばれていたので、どんな作品を作る集団なのか気になっていた。それで関西に来ることになった時点でできるだけ早い機会に見てみたいと思っていたのだ。だが、期待が大きかっただけにこの日見た舞台は「ちょっと」という感じだった。当日パンフには振付において個々人の自由な動きにまかせるというような趣旨のことが書いてあったのだが、少なくともこの日見た作品では共同創作の安易な部分がでてしまっているダンスとしての面白みはほとんど感じられないものとなっていてがっかりしてしまった。ダンスとして受容するにはダンサーの技術がなさすぎる。

 もちろん、ダンスというのはかならずしもダンサーの技術を見せるものではないので、振付・構成が十分に考え抜かれていて、コリオグラファーの美学が舞台で表現されていれば例えば井手茂太がワークショップ公演で見せてくれたようにダンサー自身の技術が卓越したものとはいえなくても十分に作品として成立させることは可能なのだが、この集団の場合、振付家・演出家の名前さえ共同創作ということでクレジットされてない姿勢は身体表現として自分たちが目指すべき方向性を完全には意識的に突き詰めてないことのアリバイのように感じられてしまったのだ。

 ダンス・音楽・歌等の複合ユニットということなので必ずしも彼らの目指すのはダンスではないのかもしれない。事実、最初にそのコンセプトを聞いた時には純ダンス的なものというより、東京で言えば時々自動のようなパフォーマンスを連想したのだが、時々自動の動き(というかダンス)には普通のダンスとはメチエが異なるものの集団として積み上げてきた方法論が確実に存在するのに対し、この日のENTENにはそういうものの積み上げを感じ取ることはできなかった。もう何度か舞台を見てみないとはっきりしたことはいえないが、音楽パフォーマンスの部分は別にして、ダンスとしては評価できないといわざるをえない。  

 3月23日 2000年ベストアクト演劇編を掲載。ダンス編も今月中には掲載する予定。前年のベストアクトは昨年以前はその次の年の1月の日記コーナーからリンクしているので興味のある人はそちらもどうぞ。

 このところ週も前半のアクセスは少し増えていてそれは嬉しいのだけれど、土日は昔からそうだったから仕方がないにしても週の後半になるとアクセスがガクッと減るのはどうしてだろうか。仮説としては週に1回だけ更新はないかと週の初めにアクセスしてみる人が多いなどが考えられるのだが、どうもはっきりとはしない。

 関西でどんな人が見てくれているのか確かめるためにも一度オフ会を開催したいというのがあるのだが、東京でさえ最後の方はなしのつぶて状態で、呼びかけたものの反応が全くない状態に陥るとひどく気持ちが滅入ってしまうので、今の状態でやってみようという勇気はなかなか湧いてこない。それに観劇オフ会という形でもしやるとすると見たことのない劇団とか人気在り過ぎてチケット取れないような劇団ではできないからなかなか適当な劇団ってないのだよなあ。それ以前の問題としてもう少し関西の観客の人でこのページの伝言板などに書き込んでくれる人が増えないとどうにもならないのだけど。こういう弱気の発言を書いているとまたN氏にからかわれるだろうか(N氏がだれだかは秘密)。 

 3月22日 トリのマークの柳澤明子さんから次回公演の案内をメールでいただきましたので転載します。私は休みが取れればナイロン100℃「すべての犬は天国に行く」とからめて15日に見に行こうと思っているのだけれど、本多劇場とはだいぶ距離がありそうで、それが少し心配。トリのマークってどんな芝居をやっているのか知りたい人は
# 山中正哉(トリのマーク)インタビュー
# トリのマークの写真館
まで。
 私が現在もっとも注目している劇団の1つで、普通の劇場ではなく、ギャラリーなど様々な場所で公演し、その場所から喚起されたイメージをそのまま芝居にするというユニークな形態で芝居を作っています。今回の会場は東京・墨田の現代美術製作所というギャラリー空間ということでそこからどんな作品が立ち上がっていくのか。

鳥のシルエットの形がそのまま名前の集団です。
(トリのマークとよく紹介されています)
2000年2月から2001年1月まで行った
「12ヶ月連続新作上演」も無事終え、
いよいよ4月、東向島の現代美術製作所にて春の公演を上演いたします。
どうぞお見逃しのないよう、ぜひお越しくださいませ。

◇◆ ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
2001年春の公演
「The picturesque House-景色のような家- 」
出演/ 柳澤明子 出月勝彦  丹保あずさ   
        櫻井拓見 中村智弓 山中正哉 

会場/現代美術製作所(浅草から、東武伊勢崎線 東向島駅下車徒歩3分)

日時
4月14日/午後3時と4時と5時
  15日/午後3時と4時と5時
※入れ替え制
料金/2500円

電話/ファクス予約 042ー381ー5478(いでつき)
メール予約 tori@bananawani.org
※今回は完全予約制です。
◆御予約時に「中西さんのページを見て」とお伝えいただくと
わりびき価格、おひとりさま2200円にて御入場できます。
◆ホームページにて最新情報をお知らせしております。
http://www.bananawani.org/mountain/oec/tori/index.html
まめに更新しております。

<ちょっとお知らせ>
主宰・山中正哉による12ヵ月連続新作上演台本がplace netより
オンラインにて講読できます。現在第3弾まで販売中。
かわいいイラスト付きです。
くわしくはplace net までお問い合わせください。
http://www.place-net.co.jp/



 3月21日 西田シャトナー×保村大和「超一人芝居/Believe」(7 時半〜)を観劇。元・惑星ピスタチオの劇作家/演出家、西田シャトナーと俳優、保村大和のコンビにより、同劇団の代表作であった「Believe」を一人芝居に仕立て直した作品である。西田脚本による一人芝居は惑星ピスタチオ時代に腹筋善之介が上演した前例があるが、今回はその時と異なり、音響効果はいっさい使わず、照明も素明かりに近いもの。まさにたった一人の生身の人間(保村大和)が舞台に立ち、ほとんどなにも使わず自らの肉体だけで、どれだけのものが表現できるのかに挑戦するという劇団解散後はあまりなかった演劇的実験の色が濃厚な刺激的な舞台であった。

 この日は初日とあって舞台自体の完成度としてはやや粗さが残る点はあったものの、ひとり芝居ゆえにこれまで惑星ピスタチオ時代に生みだされてきた身体表現の技法を駆使して、舞台にたった一人で立っている保村大和が「演じる」「語る」という演劇が根源的に持っている最小の要素だけで、観客を引き込んでそこに世界を立ち上げていく。もちろん、西田シャトナーの志向する舞台はエンターテインメントなのではあるが、これはだれの手によっても上演可能な舞台というわけではなく、西田と一緒に最初からこの演劇的実験に立ち会ってきた保村だからこそこの困難な挑戦を可能になったということが舞台を見ていてはっきりと窺える。

 物語の筋立て、登場人物はタイムスリップというSF的な趣向をからめて、織田信長を描いた痛快歴史活劇「Believe」をほぼ踏襲しているものの、複数の人間によって演じられていたものを一人芝居にしていく過程で、修飾がはぎ取られ、よりシンプルなものへと変貌している。大和はある時は情景描写を語り、ある時は惑星ピスタチオの時代にも多用されたいわゆるスイッチプレイの手法で秀吉、光秀、フロイスといった副登場人物から、兵士にいたるまですべての登場人物を演じ分けていくのだが、俳優としての凄みを感じるのは物語の筋立て上必要な人物を器用に演じ分けるという「描写的な演技」によって、ストーリーの基本的な構造を提示していく演技(俯瞰的な演技)と例えばラストのクライマックスシーンで信長の心情を吐露していくような演技(自己表出的な演技)では明らかに演技の質感自体が異なり、その質感の違いをひとりで表現することによって、信長という人物の日常性を超えた巨大なる存在感を表現してみせていることだ。これはもちろん、西田シャトナーが演劇的な枠組みとしてそうした表現を可能にする装置を作り上げているからこそ可能なことではあるのだが、例えそういう構造があったとしても、ク・ナウカの美加理であるとかごく少数の選ばれた俳優にしか出来ないことで、それをやりとげているというところに保村大和の俳優としての非凡な資質を感じたのだ。

 最初にも書いたようにこの舞台は一人芝居という最小の形態で、壮大な演劇実験に挑戦したという意味で、きわめて刺激的な内容ではあったのだが、この公演を見たことで考えてしまった。というのは惑星ピスタチオ時代の同士とたもとを分かち、劇団を解散した状況の中で西田がアプリコットという事務所を立ち上げ、公演活動を継続していることは自体は喜ばしいことだが、この舞台は一人芝居になったのは今や西田が自分の考える演劇的実験を託すに値すると考える信頼する俳優が保村大和のほかにいなくなっているという側面もあるかもしれないと思われてくるからだ。シャトナー研などアプローチの異なる公演は見ていないので、それを見てみないとピスタチオ解散以降の西田の仕事を正統に評価することはできないのだが、日本現代演劇において、西田らが惑星ピスタチオの活動を通じて行ってきた演劇的実験はこのまま途絶してしまうには惜しいので、この懸念が杞憂に終わることを祈っているのだが……。


 ここでちょっと調子を変えて、惑星ピスタチオのファンでアプリコットに変わってからはどうもと思っている東京の演劇ファンはもちろん、それ以外の人も当日券に並んでもこの舞台見る価値はあると思います。見る前のお薦め芝居では★★しかつけなかったのだけれど、今は★★★★付けてもいいと思うのでぜひとも劇場に急ぐべきです。  

 3月20日 このホームページについてをページ開設以来初めてリニューアルして、このホームページ全体のガイド風に使えるようにする。

  扇町ミュージアムスクエアの企画であるTIP COLECTIONの最終公演(4 時〜)を観劇。クルスタシアから出演することになったとのメールをもらったので、急きょ行くことにしたのだが、笑い+現代アートというなんとも関西を感じさせる企画でなかなか楽しめた。この公演で初めてスクエアという劇団を見たのだが、偶然にも引っ越しを主題にしたコントで私自身最近引っ越したばかりだったのでけっこうツボにはまって笑ってしまった。この集団、評判は聞いていたがこれだけじゃ本当の実力は分からないもののけっこう面白い。作演出のセンスなどは本公演でもう少し長いものを見てみないと分からないが俳優のなさけなさそうな個性はなかなかのもので東京でいうとちょっと「猫のホテル」に似ているだろうか。

 3月19日 このホームページ文章が多すぎてどこになにがあるか分からなくて読みにくいと知人から指摘されたので、とりあえず観劇した公演については観劇日の記述のみ今日以降、公演名に色をつけることにした。とりあえず、演劇は青、ダンス・パフォーマンス系はオレンジにすることにした。他にもいい考えがあったら伝言板などで提案してほしい。ページを作ってしばらくのうちはそのうちにHTMLなども勉強してビジュアル面でももう少しなんとかしていこうと思っていたのだが、コンテンツというか記事を書くことに熱中していくうちにそんなことも忘れてしまったのであった。

  

 3月18日 伊丹アイホール井手茂太ワークショップ&パフォーマンス「マイマイシイ」(3時〜)を観劇。ワークショップ公演ながらコンセプトも振付もこれまでのイデビアン・クルーの作品の使い回しのいっさいない井手茂太の新作といっていい舞台で、これで1000円というのは本当にこの公演を見た人は得したといっていいのではないだろうか。

 衣装は女性が白のブラウスに薄いピンクのタイトスカートというOL風。男はスーツ姿というこれも会社員ルック。女性のパフォーマーには2人ほどお掃除おばさんか売店の人のような制服の人も交じっていて、全体として企業の内部の人間関係をダンスに仕立て上げたという感じである。舞台の左右にはオフィス風に椅子とデスクが配置されており、中央のステージで踊っていないダンサーもそこに待機している。それでいて皆素足なのがなんともアンバランスでおかしいのだが、こういうところも井手風味といったところであろうか。

 それぞれの個性をよく観察してあて書き(というのもダンスでは変だが)のようにそれを見せていくのが面白い。出演者は全部で12人でダンスの初心者から経験者までいろいろだが、CRUSTACEAで踊っていた三並加奈子や桃園会の看板女優である江口恵美などの姿も。もちろん、ダンスの動き自体はイデビアン・クルーのように洗練されているわけではなく最初はそれが少し気にはなったのだが、舞台が進行していくに従ってそういうことはどうでもいいと思われてくるのが構成の巧みなところで、音楽や空間構成の使い方といいまさにイデビアン・クルーの本公演でも上演できそうな力の入り方だった。

 左右に深くスリットが入っているとはいえ、タイトスカートの衣装というのは本来ダンスに不向きで動きにくそうではあるのだけど、こういう日常的な衣装を着て踊るとダンスではもっときわどい衣装で踊ることも多くて、そういう時にはなんとも思わないのに床で回転していくところとか、ちらっと足が見えるだけでなんとも色っぽかったりするのも井手の狙いなんだろうか。これってコスプレなんて不謹慎なことも思ってしまったのだけど。個性を生かすということで言えば、3人で並んで踊るシーンでの三並のスタイルのよさとか、女優の江口にはダンスだけでなく、演技的な身振り性の高い振付を割り当てたり、台詞を言わせたり、井手のこういう感覚の鋭さというのは端倪すべからざるものがあると思う。

 3月17日 東京グローブ座で水と油「不時着」(7 時〜)を観劇。水と油は気鋭のダンスパントマイム集団である。昨年夏にアビニョン演劇祭で初めてその公演を見て、その完成度の高さとセンスのよさにびっくりしたのだった。その待望の新作がこの「不時着」である。これまではセッションハウスなど比較的小さなスペースを使ってきた集団だけに今回グローブ座フェスに参加、大空間でどのような空間作りをしてくれるのかに注目していたが、構成・演出に加え照明や音響の効果も駆使しあたまかもエッシャーのだまし絵を思わせるような不思議なイメージを立体的に立ち上げていった手腕は実に見事で、東京までわざわざ見にいった価値があった舞台だった。

 ダンスパントマイムと書いたが、水と油の作る舞台にはダンス、パントマイムの要素はそれぞれ作品を構成するのに使われていてもその本質は抽象性の高いダンスというよりはそれぞれのパフォーマーがそれぞれ具体的に人間を演じているという点で無言劇すなわち演劇の範疇として受け取り評価するべきだろう。

 舞台はいくつかのシーンの断片から構成されている。それを貫くストーリーがあるというわけではない。しかし、シーンとシーンはそれぞれがまったく無関係というわけではなくて、青い手帳、ネクタイ、机、椅子といったいくつかの共通するモノの存在、あるいはある時は飛行士にまたある時は黒いスーツと山高帽で登場する人物のつながりにより、あたかも美術館での展覧会で連作として描かれた絵画を見てまわるように観客は「不時着」という主題で括られた様々な場面と遭遇することになるのだ。

 生身の人間によって演じられているのにもかかわらずある時には凄まじいばかりのスピード感、時にはストップモーションなどパントマイムという技術が生みだしていくそれぞれのシーンは時にアニメーションのようであったり、無声映画のようであったりと千変万化そする。それらの場面は通常の演劇のように筋立てや意味の世界でつながっているのではないが、結びあうイメージを見ているといろいろなことが連想されてくる楽しさがあるのだ。

 作品としてはシーンをつなぐ構成の面で、中盤ややスピード感において単調になっていたり、最後の場面の余韻ももう少しあればと思うなど若干の難点が感じられないではないが、先行き楽しみな集団が現れたとの感を強くした公演であった。

 3月16日 今週のはじめなぜかアクセスが増えてて、「ついに春か」と一瞬喜んでいたのだけどやはり瞬間風速だったみたいね。週の後半は反動かガタっと減ってしまっていて。弘前劇場弘前公演もはじまっているのだが、東京公演の感想を伝言板で聞いてもなしのつぶてだし、だれか書き込んでほしい。それ以外のことでも歓迎。せっかく伝言板つけてて閑散としてると心まで寒くなってくるんだ、これが(笑い)。「ハードタイムス」下に小難しいことをついつい書いてしまったが、金田典子はよかったよね。前作「ぼちぼちいこか」を見てないのでなんともいえないのだけど、確実に女優として一皮むけたのではないだろうか。この芝居ではその頑張りがかならずしも芝居全体のために生かされてないのが残念なのだけれど。いかん、また批判をしてしまった。

 ポかリン記憶舎の「回遊魚」をレビューにしようと読み直しているのだが、これが実にいいのだ。まだ、レビューについては構想も出来てきてないのだけど、興味のある人はこの戯曲、雑誌「悲劇喜劇」に掲載されるらしいので、ぜひ書店で見つけたら買って読んでみてほしい。

 メイシアター近松劇場PART15「ハードタイムス」(7 時〜)についてもう少し書いてみたい。この作品の下敷きとなったのは「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」という人形浄瑠璃近松門左衛門が享保6年(1721年)に書き下ろし初演されている。実際に起こった事件に題材を取った近松の代表作だが、初演当時の評判はイマイチで、ずっとお蔵入りになっていたのが、明治42年(1909年)に歌舞伎として上演され大当たりをとり、文楽でも復活上演されるようになったという。

 主人公は油屋河内屋の次男坊で札付きの不良息子、与兵衛。この男、義理の父の徳兵衛が番頭あがりで遠慮がちなのをいいことに悪さばかりをしている。なじみの遊女を巡ってけんか騒ぎを起こし、手討ちになりそうになっても全然懲りない。それどころか、妹に仮病を使わせて家の相続をもくろむ始末。結局それが失敗、家を追いだされてしまう。揚げ句の果てに巨額の借金を背負った与兵衛は昔から懇意にしていた隣家の油屋、豊島屋の女房、お吉に借金を頼むが、与兵衛にとってただひとり甘えられる存在であったお吉に断られるとそのお吉を殺してしまう。

 クライマックスはなんといっても油まみれになった与兵衛が逃げるお吉を殺してしまう場面である。歌舞伎の上演では石鹸水を使ってつるつるでぬるぬるした油の質感を再現、これが殺しの描写とあいまってなんとも凄惨な印象を与える。この場面の迫真の見せ場がなんとも見事で、これがこの話が歌舞伎になって、初めて大当たりを取った理由なのではないかと思う。

 歌舞伎は何度か見てはいるのだが、ディティールの描写はすべて忘れてしまっていて、資料をあたらないと分からない。なのにこのシーンだけは克明に覚えている。それほどインパクトが強かったのだ。なかでもこの芝居が印象的なのは「女殺油地獄」を当代の当たり役にしている片岡孝夫(現・仁左衛門)の芝居の印象が強いからだ。歌舞伎と現代演劇では見せ方が変わってくるのは当然でも「女殺油地獄」をやる限りは観客としての勝手な期待としてはこの見せ所を存分に見せてほしいという気になってしまう。

 岩崎の今回の台本は舞台を昭和28年の大阪に移し、それに合わせて脚色というよりは筋立てを変えた新作になっている。登場人物の名前も与兵衛(英与)、お吉(吉美)、父徳兵衛(徳男)、妹おかち(勝子)、豊島屋七左衛門(伝七郎)など現代風に変えられてはいるが、人物の関係はほぼ原作を写したものとなっている。

 ただいくつか大きな変更点がある。原作では父徳兵衛が義理の父親なのにここでは母が後添え、しかも英与の兄、太一と戦前に付き合っていたことがあったという設定。与兵衛が入れ込んでいる遊女もここでは徳男の工場が下請けとなっている企業の社長の娘、菊絵になっている。兄、太一と菊絵にはそれぞれ遊気舎の山本忠、声優の宮村優子を客演に迎え(というのも太陽族の本公演ではないので変な言い方になるが)、見せ所も作っているので、歌舞伎と比べると大きな役柄になっている。兄が組合運動に関っているとか、菊絵がいかにも当時のフラッパーな娘の典型であるなど付け加えられた設定は、昭和28年という時代を舞台にしているということを強調するための細部の作りこみには必要かもしれない。しかし、すべてが最後の殺しの場面に向けて収束していくというこの芝居の本来の構造からすると本来、与兵衛/お吉の関係に収束するはずの物語の構造が岩崎の脚本では群像劇にすることで散漫なものにしてしまっている感がぬぐえないのだ。

 菊絵の存在は岩崎のオリジナルといってもよく、逮捕され獄中にいる英与に会いに来るシーンが最後の方にあるくらいだから、単なる行きずりの戯れではないということになるのだが、その割には前半での書き込みが足りない。そのせいでトルストイの登場人物を思わせる菊絵の回心がどうして起こったのかが見えてこないきらいがあり、どうも面会のシーンが腑に落ちない。

  それにもまして理解に苦しむのはこの芝居におけるお吉(吉美)の描かれかただ。ヒロインとしての立場が菊絵と二分されて特に前半は影が薄い。原作の「女殺油地獄」では冒頭の場面が3人の娘を持つお吉が娘の髪を結いながら、女たちが集まって食事する端午の節句の行事を思いだすと言う平和で牧歌的な家族の描写からはじめる。これが平穏な時が後に引き起こされる殺人によって、悲劇的に壊されるという対照によりドラマチックな効果を出しているのに対して、ここでの吉美は菊絵と張りあって英与の出奔についていって一緒に駆け落ちしようと持ちかけるなど奔放な魔性の女なのか、原作通りの気のいいおかみさんなのかについて演じている麻生絵理子(東京乾電池)の演技を見ていてもどっちつかずではっきりしない。家庭人としての吉美の描写がほとんどないのが、この芝居の本来持つ悲劇性を半減させてしまっている。

 もちろん、ここのところはかならずしも原作通りでなくてもかまわないので、吉美が英与を誘惑するファムファタール的な悪女であってもかまわない(その場合はある意味でカルメンのような話になってしまうだろうけど)。しかし、この「ハードタイムス」ではそれぞれが悪女的な部分といい人の部分を半分ずつ持っているので、吉美もそれから菊絵も中途半端な印象を受けてしまう。

 ただ、最大の問題点は英与の描き方とそれを演じる工藤俊作の演技にあるといわざるをえない。工藤俊作は関西小劇場を代表する実力を持つ役者である。だから、こうなってしまったのには工藤のせいだけではなく、岩崎の脚本、演出に問題があったと考えざるえないのだが、この芝居で私には「殺しの場面」における英与の内面のドラマがまったく見えてこなかった。もちろん、演技の面だけで片岡孝夫と比較するのは酷であるのを承知にうえで、工藤が実力を持った俳優だからこそ期待してしまったのだが、ここでは短い時間の間に与兵衛が見せる微妙な心の動きをどう見せていくかが問題。孝夫の芝居はそれを微分したようにきめ細かく演じきり、だからこそ最終的には衝動的で一種の狂気のなせる技である油にまみれての殺しも必然性あるものとしてこちらに届いてきたのだけど、ここでは殺しに到る必然性が感じられれないため突然なんでという印象しか残らなかったのだ。

 孝夫の演技が成立するのはそれが歌舞伎であって、世話物とはいえ一定の様式性が介在する背景を十分に知りつくしたうえでの綿密な計算があるためだ。だから、それが介在しない現在演劇の世界で殺しの場面を実際に舞台に乗せるには歌舞伎とは比べものにならない高いハードルがある。

 ここでは岩崎ひとりの脚本の問題ではなく、近松門左衛門の戯曲を現代劇にするについてのアポリア(難題)がつきまとっているのだ。メイシアターによる近松戯曲を現代の劇作家の手により、新たな方法で舞台化しようという試みは確かに野心的なもので地方のとわざわざ銘打たなくても公共ホールの企画としてはいくら評価してもしすぎということはないほどのものなのだが、昨年の蟷螂襲による舞台と今回の舞台を続けて見て、「ちょっと待てよ」という気にさせられた。

 それが近松であってしかも現代劇であるというのはそれほど簡単なことじゃなさそうだということなのだ。特に世話物というのは見かけが現代劇風だから、単純に現代風に設定を置き換えて成立しそうに思われるのだが、特にステレオタイプでなく、私が90年代以降の日本現代演劇の本質だと考えている嘘臭くない会話劇として成立させるのは相当周到な計算が必要となってきそうだからである。

 そもそも最近の現代会話劇で例えば岩松了の戯曲などを考えてもらえるとはっきりするが結果として殺人や自殺のような劇的な行為が引き起こされることがあってもそれが舞台上で起こることがないのはなぜか。それはリアルでない。嘘くさいからだ。

 もちろん、現代演劇の中には口語会話劇だけでなく、シェイクスピアギリシャ悲劇など公然と舞台上で殺人が起こる古典戯曲の上演もあるのだが、多くの場合それが成立しうるのは演出者の工夫によりある種の様式性をそこに持ち込んでいるからだ。「女殺油地獄」では「殺し」というのが問題となったが、別の近松では例えば「心中」という難問が控えている。昨年見た蟷螂作品はそれを回避した戯曲だったのだが、そうだとすると心中劇に「心中」がなくてそれでも近松足りうるのかという別の問題が生まれてくる。

 岩崎の場合、それをあえて回避しなかったのは潔いともいえるのだが、「女殺油地獄」を上演するときに「殺しの場」を回避したらなんのためにそれを選んだということになるからそれは避けようがなかったともいえよう。

 最近のこの企画では土田英生の「近松ゴシップ」の評価が高かったようなので、それを見逃したのがなんとも惜しまれるのだが、いずれにせよ、近松の現代劇化というのはそれほど簡単なことではないことが分かったという意味では「ハードタイムズ」は見る価値のある舞台であった。でも、これまで書いてきたような理由でこれを岩崎の傑作と評価する気にもならなかったのだ。

 最後に蛇足だけどパンフの役者の今後の予定の岸辺孝子のところに太陽族「新作」2001年11月9〜11日伊丹アイホールとあったのだけど、これって 199Q太陽族の新劇団名が「太陽族」に決まったということだろうか(笑い)。だれか知っている人がいたら伝言板の書き込みで教えて。あまりに予想通りなんで、昔、「笑っていいとも」(だったと思う)に斉藤晴彦が出演して、「実は劇団の主宰も引き受けることになりまして、それで劇団名も新しくしました」。「どんな名前にしたんですか」「劇団『黒テント』です」と言った時に受けた衝撃には全然及ばないのだけれど(笑い)。それまでもだれも劇団名呼んでなかったものなあ。黒テント。    

 3月15日 このところこのページをどういうコンテンツを中心にしていきたいのかについて曖昧にしたままこの日記コーナーを駄文で埋めてきていたことにちょっと反省。大阪引っ越しを機に心機一転、リニューアルを計ろうかと考える。とはいっても大幅に変えるのはすぐには難しいので、以前にやろうとしてあぶはち取らずになってしまっていたレビューの充実にまず取り組みたい。3月中にどれだけ実現できるかは分からないのだが、とりあえず引っ越しのどさくさに紛れて放置していた2000年のベストアクト(演劇編)をただいま執筆中である。本当は今日中に書き終えて掲載するつもりだったのだが、いざ書きはじめてみると意外と時間がかかってしまって、今のところはもうここまで遅れたのだから、早期に掲載するのは諦めて、今月中に演劇編、ダンス編ともに掲載することを目標にする。

 それから、このところ中断したままで全然新規掲載ができていない「下北沢通信レビュー」を月に1作品をメドに掲載することにしたい。もともと、このページを始めた趣旨はホームページのオリジナルで舞台にいろんな面から切り込んだ雑誌連載などでは字数の関係で難しい「深読みレビュー」を掲載することにあった。表紙リンクの下北沢通信レビューの最初の方に書いた「月の岬」についてのレビューのようなものが書きたかったのだが、こうしたひととおりの思い付きでの感想以上のものを書いてレベルを維持しようと思うと隔月刊であった雑誌「じゃむち」に執筆していた時のようにひとつの芝居について、場合によっては戯曲も読み直してその芝居を見た時の記憶を反芻して、その芝居がなんであったかについて継続的に考え続ける時間が最低1カ月くらいは必要であることが分かってきたからだ。しかも書いてからもすぐに掲載するというのではなくて、確認作業やさらなる思考のために書いた原稿を何度も推敲するという作業も不可欠なのだ。これはネットの持つ速報性とはまったく正反対の作業であって、そのためこれまでもいくつかの芝居についてはそうして暖めているうちに時間が立ち過ぎて書く機会を失ってしまったことが多くて、その間にも後から見た芝居で感想書く芝居は次々出てくるしということで完全なジレンマに陥ってしまったのだ。

 このために考えたのは毎月月末にそれまでに見た芝居について1本だけ(ダンスも書くときには2本)を選び、それを下北沢通信レビューに書くと告知した後で、1カ月後をメドに原稿を書き上げ掲載するという方法である。やはり、実際に書けるかどうかは別にして、締め切りがないと人間は書けないので、一応、そういう手順を決めておくことにしたい。1本としたのはおそらくこの方法だとそれが質的な限界であるからだ。ただ、この日記コーナーでの感想レビューはこれまでのように書いていくつもりなので、心配しないように。

 そういうことから、「下北沢通信レビュー」の対象となる公演は戯曲を読むことも出きるだけ、必須としたいので、出版されていればその時に買うか、その芝居い対象からはずすか(笑い)決めますが、いいわけじゃないけど最近困っているのは最近、劇作家が皆軒並み本が遅くて、公演の時には脚本を手に入れられないことが増えていることなのだ(笑い)。どことは言わないけど脚本が上がったのが初日の朝とか、3日前とかそういうのをよく耳にするし。だから、できたら実費は払うので見た芝居についてできるだけ戯曲を手に入れたいので、知っている劇団の関係者の皆さん協力お願いします。

 とりあえず、第1弾として2月の下北沢通信レビューの候補作品として、ポかリン記憶舎「回遊魚」を取り上げる予定で現在戯曲を読みながら構想を練りはじめているところである。上に書いた手順からいうとレビューが実際に掲載できるのは今月末となる予定。3月は今のところ弘前劇場「アザミ」が有力なのだが、なんといってもまだ月半ばだし、戯曲が手元にないので未定である。ダンスについては本当はビデオがほしいところなのだが、なかなかそういうわけにも行かないのが悩みの種である。もちろん、誤解のないように言っておくと書く対象はあくまで、実際に見た舞台であって、戯曲やビデオは記憶の確認のためや反芻のために必要なのであって、それを見てレビューを書くってことじゃないのはもちろんである。勘違いして、ビデオや戯曲と舞台は違うって言いだす人がいると困るので。

 さらに今月中に以前から言っていた表紙ギャラリーと「21世紀のクリエイター」も掲載したいのだけれどこれ以上言っても信用してもらえそうにないのでこれはあくまで努力目標。「21世紀のクリエイター」は以前、広告批評に書いた記事をヒントにその時選んだ後藤ひろひと土田英生井手茂太ら10人よりも新しい世代の10人を選んで紹介していきたいという企画で、ちょっと考えたけどひとり分やるのもかなりしんどそうなので、これも月1人づつの連載にしていきたいと思っている。

 でもそれ以外にも「このホームページについて」の項とかリンク集とかもそのうちなんとかしないといけないなあ。  

 3月14日 上海太郎と麻雀を打つ。負けた。上海太郎舞踏公司の次回公演は6月15〜17日、上海太郎のひとり芝居「アブサード」の再演らしい。

   今週末は土曜日にまた東京に行って、水と油「不時着」(7時〜)を見る予定。日曜日には大阪に戻って井手茂太のワークショップ公演「マイマイシイ」(7時〜)を見る予定である。

 水と油についてはすでに3月のお薦め芝居で若干の紹介はしたのだが、メンバーのじゅんじゅんこと高橋淳さんから公演案内のメールを戴いたので以下に掲載することにした。ダンス、パントマイムの要素を駆使しての無言劇という特異なスタイルを取る集団だが、その舞台はどこか不可思議で日本人離れしたセンスのよさが感じられるものとなっている。必見の舞台と思うので、ぜひ時間のある人は行ってみて、感想も聞かせてほしい。私も土曜日の夜はこれを見てから東京に宿泊する予定なんで、芝居がはねた後、会場で見かけたら(知ってる人は)ぜひ声をかけてほしい。一緒に飲みに行きましょう。本当は観劇オフ会も開きたいところなのだが、今回は大阪への引っ越しもあって、余裕がなかったのが残念。

中西様。御久しぶりです。
ごぶさたしております。
こんにちは。高橋淳です。
今度の3月に僕ら「水と油」の公演があります。
フランス、イギリスを回ってきた経験を生かし
よりスリリングな作品になってきています。
約1年ぶりの新作です。
間近になってしまって申し訳ございませんが、
ぜひページで宣伝していただければと思います。


水と油新作公演「不時着」

グローブ座春のフェスティバル参加作品

2001年3月16日(金)〜18日(日)

作・演出 水と油
出演   じゅんじゅん ももこん おのでらん すがぽん

2001年3月16日(金)20:00
     3月17日(土)15:00/19:00
     3月18日(日)15:00      (開場は開演の30分前)

※但し17日(土)19:00の回は北区子供劇場の団体が入場しますので、
この回に限りチケットはオフィスコットーネのみの取り扱いになります。

全席指定 前売/3000円 当日/3500円


チケット取り扱い
オフィスコットーネ 03−3411−4081
チケットぴあ    03−5237−9988
高橋淳       03−3579−4518
ほかにて取り扱い



 3月13日 弘前劇場の感想を11日の日記に追加。

 トリイホールでハイジ・ダーニング+ローザゆき「MOMENTS IN THE GARDEN」 (8時〜)を観劇。

 3月12日 この日は朝から仕事。仕事が早めに終わったので、なにか見に行こうかとぴあで調べてみるが、関西って東京と違って週の前半はダンスも演劇もなにもやってないことが多いのね(笑い)。劇団四季さえ、月曜日は休刊日だし。結局、東京で見逃していた映画「リトル・ダンサー」(スティーブン・ダルドリー監督)を見に行くことにした。炭鉱の町に住む労働者の息子がバレエに目覚め、ロイヤル・バレエ団を目指すといういわばサクセスストーリーなのだが、英国映画の魅力が存分には発揮された映画だった。ダンス映画としても映像やカメラワークが工夫され、なかなか見どころが多いのだけど、よくあるアメリカンドリーム的なサクセスストーリーでありながら、英国映画の奥深さを感じるのは80年代という時代における英国の経済的な状況とか階級的な意識の違いとかよくある米映画の同類の映画と違って背景となる社会のディティールが事細かく描かれていることだ。それがこの映画に単純なサクセスストーリーではない深みを与えていると思う。もっとも、この映画の魅力のほとんどが主役のビリーを演じる子役、ジェイミー・ベルの存在によることも確かである。ダンスももちろんだが、なんといっても単に可愛いというのじゃなく、面構えがいい。単なる子役にありがちなこまっしゃくれたガキというのではなく、これはこのまま育ったら大物になりそうだという存在感を13歳にしてすでに感じさせるのである。

 唯一、ダンス映画として物足りないところは大人になったビリーという設定でアダム・クーパーが登場して最後にAMPの「白鳥の湖」を踊るのだがこのダンスシーンが本当にワンカットだけというところ。「愛と哀しみのボレロ」のジョルジュ・ドンとまで言わないからせめて、ワンシーンだけでも実際に踊っているところ見せてほしかったのに振付の著作権とかの問題で無理だったのだろうか……。

 3月11日 新国立劇場(山崎広太+伊藤キム)「HYPER BALLAD/Close the door、open your mouth」を観劇。詳しい感想は後ほど書くことにしたいが、まずは簡単な感想を。東京までこの公演をわざわざ見にいったのは山崎広太の作品を見るためで、伊藤キムの方は一緒にやってるからという感じだったのだが、作品を見ての印象では今回は伊藤キムの圧勝という感じ。セミクラシック系の音楽の室内楽演奏グループによる生演奏とカウンターテナーも歌える2人のダンサーという組みあわせの妙が抜群で、良質の演奏会としても楽しめる内容だった。

 これに対して山崎作品は大勢のダンサーを舞台に上げすぎたために全体のバランスが散漫になった印象。ダンサーのレベルにばらつきがあったのも気になった。これだけ大勢(総勢12人)のダンサーが舞台に上がっても島田衣子と木佐貫邦子、山崎広太の3人だけをついつい目で追ってしまう結果になった。ただその割りには島田などにはソロ的な扱いは少しはあっても全体のアンサンブルを重視した振付になっているので、この3人の見せ場が少なくて見終わった後、欲求不満ぎみになってしまった。

 3月10日 弘前劇場「FRAGMENT VII アザミ」(7時〜)を観劇。長谷川孝治作演出による弘前劇場の新作である。弘前劇場の舞台には大別して、地域口語(弘前方言など)による群像会話劇の形で登場人物間の関係性を浮かび上がらせる本公演と少人数のキャストにより、俳優個々の持つ身体的な存在感を生な形で舞台上に上げるFRAGMENTシリーズがあるのだが(最近は畑澤聖悟作演出の舞台も上演しているのでこれを加えると3つ)、今回上演された「アザミ」は後者の系譜に属する。

 FRAGMENTシリーズはゴダール北野武に私淑するという長谷川孝治の暴力的な本能をそのまま舞台にたたき付けるのだが、今回の「アザミ」は暴力的な感情がそのまま舞台上で表出されるという点では舞台上で実物の自動車を叩き壊してみせたという伝説の「FRAGMENT 破片」以来の過激さかもしれない。登場人物は主人公と思われる大学助教授(畑澤聖悟)、その秘書(藤本一喜)、研究室の学生(山田竜大)、ラジオ局の女性(佐藤てるみ)の4人である。弘前劇場には劇団活動のほかに本業を持つメンバーが多く、作演出の長谷川孝治は高校教師で劇作家(しかも来年からは大学で講師もやるらしい)、主演の畑澤聖悟がやはり高校教師で劇作家・ラジオドラマ作家。主人公を高校教師にしなかったという若干の配慮はあるにしても、この配役に畑澤を据えることを考えた時点で、長谷川は明らかに実際にラジオドラマも書いている俳優がラジオドラマ作家でもある大学助教授を演じるという現実と架空の2重性を意識している。「ボヴァリー夫人は私だ」とフローベールが語ったように表現者による被創造物が多かれ少なかれその表現者の分身であるのは確かだが、この芝居で描かれる大学助教授はそうしたレベルを超えて、この大学助教授は半分長谷川で半分畑澤がモデルなのだ。こういういわば半自伝セミドキュメンタリー的な構造がこの芝居の大枠にはある。

 弘前劇場をよく知るものにとってはこの作品にはそうした虚実ないまぜの面白さがあるのだが、もちろん、「アザミ」という芝居はそれだけで終わっているわけではない。というのはこの芝居自体の構造は劇中で主人公がいう台詞。「書けない作家はついに書けない自分をモデルに書けないということを書き始める」というような単純なものではなく、書けないラジオ作家をモデルにしながら、作品全体の構造としては書けないラジオ作家を巡る人間関係と彼が書き始める「裏町図書館」というラジオドラマという2重の構造を持つ典型的なメタシアターの仕掛けを取っているからだ。この脚本の出来上がったのが公演直前で、公演ごとに長谷川の脚本の仕上がりが遅れているということはあっても本当に書けない作家はこういう面倒な構成は取らないものだ。

 芝居の筋立て自体は大学の深夜の研究室を学生と秘書が訪ねてきて2人が結婚することになったという報告をすることから始る。実は秘書と助教授は不倫の関係にあって、この不穏な三角関係を巡る一種のゆがんだ恋愛劇として物語は進行していく。長谷川の芝居では表面的な会話にはあまり露骨にはでてこないこうした隠ぺいされた関係が芝居の核となっていることが多いのだが、この芝居では逆にこの三角関係はかなり早い段階で明示される。彼女を巡っての助教授と学生の腹の探り合いのようなやりとりは最後の破局に向かって次第に激しさを増していく。途中でラジオ局の女性がこの研究室を訪ねてきて、作家にドラマの箱書きを書けと迫り、作家がついにそれに応じて「裏町図書館」というストーリーを語りはじめるという場面が並行して進行する。演劇的な仕掛けとしてはこの「裏町図書館」が最初は口述筆記の場面という形を借りて、畑澤の語りによってスタートするのだが、しだいにそのシーンに登場する俳優による分かち台詞に変わり、会話の部分を畑澤と藤本、ナレーションを佐藤てるみが分担して実際のラジオ劇の再現のような形で舞台に上げていく。ここのところなどちょっと古風なメタシアターの構成を借りているのだが、実はそれだけにとどまらないのがこの芝居の面白いところである。

 ここにはメタ的にいろんな要素の本家取りが駆使されているからだ。まず、「裏町図書館」という童話劇自体、長谷川孝治のオリジナルではあるのだが、芝居の中でも言及されるように寺山修司をどことなく連想させるところがある。さらにこの「裏町図書館」という話にはカモメが重要なモチーフとして登場するのだが、この芝居の重要なモチーフである表現者ということをからめての三角関係がチェホフの「かもめ」を連想されるのは偶然ではありえないだろう。チェホフの「かもめ」は典型的なメタシアターとして、劇中に劇中人物の創作としての劇中劇を登場させ、最後のトレープレフの自殺に向かうカタストロフィーといい「アザミ」という芝居が「かもめ」を下敷きにしていることはほぼ間違いない。

 さらにいえばやはり劇中で大宰治についての言及がなされるが、こちらはチェホフほどの自信はないものの、表現のためならあらゆるものを利用し、かつて、薬による無理心中未遂の前科があるこの大学助教授のイメージにはどこか大宰を思わせるところがある。これはまあ偶然の一致かもしれぬがこの芝居で主役を演じている畑澤聖悟は長谷川孝治作演出の「茜色の空」という作品で大宰治(をモデルにした人物)を演じた俳優でもあるのだ。

 このように複雑かつ重層的なテキストではあるのだが、実際の舞台ではそういう個々の仕掛けよりも精神的に追い詰められた作家を演じて、粗削りながら迫真の演技を見せる畑澤の抜群の存在感に支えられてはじめて成立している舞台であることはいくら強調してもしすぎということはない。秘書の藤本、ラジオ局の女性の佐藤も最後の破滅に向かっていく作家の存在にリアリティーを与えるという意味で、この芝居では関係のありようからいってどうしても受け身の存在となる難しい役柄をよくこなし芝居に奥行きを与えることに貢献した。特筆すべきは山田の演技で、これまでは弘前劇場ではその珍妙などこかずれた個性を生かしてどちらかというとコミックリリーフ的な役割りを振り当てられることが多かったのだが、芝居の前半ではそうした雰囲気を残しながらも後半の演技は役柄の幅を広げ俳優としての新たな可能性を垣間見せたもので、今後が楽しみな存在がまたひとり登場したといえそうだ。

 畑澤に話を戻せば最近は自ら劇作も担当しはじめたということもあり、以前ほどの俳優としてのはじけ具合いが見られなくて、残念に思っていたのだが、この芝居ではひさびさにちょっと東京にはいない野育ちの魅力を存分に見せてもらい、「俳優畑澤聖悟」が堪能できた。本が遅くて、全然余裕がなかったらしいのだが、もともと窮地に陥れば陥るほど底力を発揮する珍しいタイプの役者。私の見た回(3月10日ソワレ)は細かいミスが多くて本人として不満足な出来栄えらしかったらしいのだが、それはそれでその余裕のなさが、奇妙な臨場感を生んでいたともいえる。おそらく、弘前公演では芝居の完成度は高まっていき、この日見た印象とはまた違う舞台になっていくと思われるが、こうした事故的な状況で生まれたライブ感がそれはそれで魅力になっていくというのも生の芝居が面白いところである。

 長谷川孝治の台本の仕上がりが1本ごとに遅れているのは困ったものだが、こういう危機的状況でこそ俳優、スタッフワークを含めて劇団というものの本当の力が試されるもので、その意味では弘前劇場の底力を感じ取ることが出来た公演でもあった。         

 3月9日 昨日はパソコンのハードもクラッシュしたんじゃないかと一瞬青ざめたのだが、アダプターのせいだというのが分かり、なんとかアダプターを買い替えて復帰。お薦め芝居3月分を掲載する。そのせいで、明日は朝早起きして東京に行かなければならないのに明け方まで原稿書きを続けるはめになってしまった。

 今週は東京で弘前劇場「アザミ」(10日7時〜、ひょっとすると昼もと思っていたがかなり危うい)、新国立劇場の山崎広太+伊藤キム「HYPER BALLAD/Close the door、open your mouth」(3時〜)の予定。

 桃唄309の橋本健さんから表紙の写真を送っていただきました。遅ればせながら3月の表紙壁紙は昨年上演された桃唄309の「K病院の引っ越し」である。私も引っ越ししたばかりだし、ちょうどいいかも。 

 3月8日 お薦め芝居を書こうと思っていたら突然、コンピューターのACアダプターが壊れて立ち上がらなくなってしまった。     

 3月7日 珍しく仕事が朝からなので平日だが仕事を終えた後、メイシアター近松劇場PART15「ハードタイムス」(7時〜)を観劇。太陽族の岩崎正裕が台本・演出を担当、近松門左衛門の「女殺油地獄」を脚色したものだが、時代設定を戦後まもない大阪に取っているためほぼ近松ものというよりは岩崎の新作と考えたほうがいいのかもしれない。歌舞伎では何度か見たことがあるのだけれど近松の世話ものを現代劇に脚色するのはちょっとしんどいというところは否めない。最後の殺しの場面に持っていくまでのリアリティーがどうもこの舞台からは感じられないのだ。どうしてそうなのかというのはもう少し考えてみなければならないと思っているのだが。岩崎の脚本だけのせいではなくて、工藤俊作はいい役者ではあるのだが色悪としてはちょっと線が細いのかもしれない。

 3月6日 西澤保彦「なつこ、孤島にとらわれ」、平井和正「時空暴走気まぐれバス」を読了。後、引っ越し前だったので書き忘れたが小野不由美「黒詞の島」を読んだ。今は時間がなくて詳しい感想を書いている暇がないのが残念だが、冒頭からしてチャンドラー、ロスマクドナルドを彷彿とさせる小気味よい私立探偵小説であるとともに京大ミステリ研ルールにもとずいた本格ミステリの秀作でもあり、まだ読んでない人には一読を薦めたい。この作品についてはこれ以上はネタバレでないと書けないので、そのうち時間を作って別稿で書くことにしたい。

 

 3月5日  オリヴィア・グランヴィル/カンパニー・ラ・スピラール・ドゥ・カロリーヌ「京都、3月3日、自然に生まれるコンポジション」(7時〜、京都芸術センター)の感想を3月3日の項に追加。 

 3月4日 いるかHotel「かぷせるかいじゅう」(3時〜、スペースゼロ)を観劇。これまで女性の心情を描いて泣かせる芝居のイメージの強かった谷省吾のいるかHotelだが、今回はそうした風味をかくし味として残しながらもオムニバス形式でコメディーに挑戦した。これまでとは違うとはいえ、遊気舎での俳優としての谷省吾を知る人間としては軽快なエンターテインメントに徹した今回の公演もこれまでのこの劇団のテイストとは違うとはいえ、期待どおりに谷らしさを感じさせる舞台であったことは確かであった。

 この芝居で描かれるエピソードは「ジュリエット」「ボウリングマン」「栗山課長」「絵」「運命の人」「カプセル怪獣IV」の6つ。この6つのエピソードは単純に順番に並べられているというわけではなく、5つの話の間にコント風の「ボウリングマン」と谷省吾自身が演じる質屋のシーンが挿入されて、のりしろのように全体がまとめられる構成を取っており、こうした構成は谷が所属している遊気舎の後藤ひろひとがオムニバス形式で描いた「源八橋西詰」や「びろーん」といった作品を連想させる。もっとも同じ笑いを意識した作品といってもナンセンス系の後藤と谷ではかなり味わいが異なることは確かなのであるが、オムニバスの演劇として小品の印象はあるにしてもそれぞれのエピソードはよくできていて、完成度も高く、エンターテインメント演劇としては遊気舎の作品などと比較しても見劣りしないものに仕上がっていたのではないだろうか。

 冒頭の「ジュリエット」は園田知子の演じる「ロミオとジュリエット」の1人芝居のシーンからはじまるのだが、これがいきなりけっこう笑わせてもらえる。この冒頭部分の台詞は完全にシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のテキストをそのまま使って、ジュリエットが神父から渡された薬を飲む場面とその後、意識を取り戻しロミオの亡き骸を発見するシーンが1人芝居として演じられるのだが、その大げさな熱演ぶりにどうしたんだろうと思っていると次第に園田の演じる「女優」が自己陶酔して自分の部屋でジュリエットを演じているというメタシアターの仕掛けを持っているシーンだというのが分かってくるからである。ある種の演技スタイルに対する批評生という意味で同工異曲の趣向を谷は「破稿 銀河鉄道の夜」でもやっていたが、演じている本人の俳優がどこまで意識的なのかは判然としないものの、こういうシーンを演じさせて全体として笑える構造に持っていってしまうところに谷省吾の演出家として一筋なわではいかない人の悪さ(ほめ言葉のつもりです)を感じて感心してしまった。

 次に続く3本はいずれも落ちのあるショートショート風のエピソードでなかでも 会社の上司の横暴に耐えていたOLの心の声がしだいに爆発していく「栗山課長」が客演の白井哲也(PM/飛ぶ教室)の絶妙な嫌な上司ぶりとOL(北村美和)とウエイトレス(宇仁菅綾)のはじけぶりも相まって秀逸。「絵」は画家を巡るサスペンス風ホラーだがちょっとネタとしての切れ味にかける嫌いがないではない。「運命の人」は運命の人を紹介するという未来のブライダルコンサルタントを題材としたワンアイデアのショートストーリーといったところだが、ここでは前作「花火みたい」では女子高生役でなんか奇妙な存在感が印象に残った長光里奈がコメディー女優としての才能を発揮したのに好感を持った。

 最後の「カプセル怪獣IV」というエピソードは他の話に比べやや長く、今回の公演の表題にも取られているようにこの舞台の核をなすシーンだが、これだけは経営していた旅館を閉めようと部屋を整理していた男が「ウルトラマン百科」という本を見つけ、そこに載っていた「ウルトラ警備隊」の本部の電話番号に電話してみるとなぜか電話がつながってしまうと突飛な始り方をして、その後も自分はあなたが呼んだ「カプセル怪獣」だと名乗る女性が現れるなど笑いの要素の強いスラップスティックな展開でストーリーが進んでいくのにも関らず、それをいつのまにかほろりとさせる話に落しこんでいく作劇の手腕にはなかなかに侮れないものがある。カプセル怪獣の私たちは主人のために戦うのだけど、それは時間稼ぎなのであって、主人(ウルトラセブン)が自ら立ち上がって敵と戦ってくれないと意味がないのだという台詞はこの芝居の中で効いていて、不覚にもちょっとほろっとさせられてしまったのだが、こういう台詞を衒いなくストレートに書けてしまうのが谷の持ち味といえるかもしれない。

 谷省吾の個人ユニットから劇団という体制に移行しながらもいるかHotelのこれまでの公演では客演の役者陣が重要な役柄を担うことが多かったのだが、今回の「かぷせるかいじゅう」ではキャストは白井を除けば全て谷が手塩にかけて育ててきた若い俳優たちで、劇団員だけでこの舞台が上演できたということはいるかHotelが劇団としてひとつ上のステップに踏みだすことができた貴重な公演だったのではないかと思う。劇団としてはやはりまだ男優陣に層の薄さを感じざるをえないところがあるし、女優陣もどこまで深みのある演技をできるかという点には課題もあるが、関西・東京を含めても可能性を含めると女優の個性に魅力を感じるという点ではいい素材はそろってきつつある。谷自身も今年は遊気舎を休団して、今回の公演を含めて3公演を予定するなどいるかHotelに賭けているところがあり、舞台を重ねることでここの若い俳優たちがどのように成長していくのか今後が楽しみな公演だった。

 11月に予定している東京公演ではこの舞台の続編となる「カプセル怪獣V」というやはりカプセル怪獣をモチーフにした別のストーリーも考えているらしい。ひょっとするとその公演では新作に加え、今回の舞台の再演も何ステージか上演する可能性もあるらしいので、東京の演劇ファンも期待して待ってほしい。 

 3月3日 関西での観劇第1弾はあうん堂「あたら夜、あかるとも」(2時〜、ウイングフィールド)である。あうん堂は元・犬の事ム所の杉山寿弥、杉山晴佳の2人による演劇ユニットで、今回が第5回目の公演となるが、私が見たのは初めてである。犬事務テイストの芝居を予想していたら、これはきっちりと作りこんだストレートな会話劇で、作演出の杉山晴佳が女性とはいえ、淡々とした筆致で重いモチーフを正面から取り上げていくその態度には感心させられた。この芝居で描かれているのは病院でその中にある談話室のようなところが舞台となっている。いくつかの場で構成されて、その間に若干の時間の進行はあるが、場所は全部この談話室に固定されたままである。芝居の構成上は時系列も単純に進み、スタイルの面でのざん新さはあまりない。そのさりげなさゆえに評価にとまどうのだが、こういうさりげない好舞台があたり前のように上演されていることにひさびさに見た関西演劇の懐の深さを感じさせられた。

 この芝居の基調となっている会話は一部を除いて関西弁ではない地域語(方言)で構成されており、それは作演出の杉山晴佳によると彼女の出身地である遠州地方(静岡県浜松市近辺)の言葉であるらしい。舞台は病院と書いたが、芝居の進行にしたがいここで描かれているのは治療のための通常の病院ではなく、死を宣告された人たちが最期の時を過ごすホスピスのような施設だということがしだいに明らかになってくる。それゆえ、「死」ということがこの芝居をささえる基調低音になっていることは間違いないのだが、この芝居の中ではそれはけっして声高に語られることはない。

 それはある時は病院の長い廊下にいつともなく名付けられた「シベリア街道」の向こうにある「あそこ」=霊安室に象徴的になぞらえられたり、病院の外に咲く水仙に代表されるような季節の花々(毎年繰り返される長久の時間の流れ)と最期の時を迎えつつある人のいまこの時間の一回性との対比によって、それとなく暗示されたりする。病院を舞台に類似のモチーフを取り上げた作品としては青年団「S高原から」、弘前劇場「夏の匂い」などが思いだされるが、こうした作品が芝居全体の構造として、病院の日常性=社会から見た非日常性のような構図を俯瞰させるような仕掛けになっているのに対して、この芝居で描かれるのはもっと個人的な生と死ということで、これはもちろんこの芝居において直接的に描かれているわけではないが、作演出の杉山晴佳がこのモチーフを選んだことにパンフに書いている自分の母親の入院と死の実体験が大きく影を落していることは確かであろうと思われる。そして、この芝居が構成としてはきわめてシンプルのなんのケレンもない構成になっていることも、会話が作者の故郷の言葉である遠州方言で語られていることも方法論的な意識の産物というよりもむしろこのモチーフはこうでしか語りようがなかったということにあったのではないかという風に舞台を見ていて感じさせられた。

 それゆえ、ちょうどナイロン100℃KERA父親の看病の体験をもとに舞台化した「カラフルメリィでオハヨ」がそうであるようにこの作品「あたら夜 あかるとも」も作者にとって特別な作品であって、普通の舞台のように構成がいいとか悪いとか、演劇のスタイルとしてざん新さがあるとかないとか、技術的な側面からだけで舞台の評価を断じることは躊躇させられる。それゆえ、確かにこの舞台自体は見るべき価値のある舞台ではあったのだが、あうん堂という集団がいかなる表現を志向し、その持ち味はいずこにあるのかについては次回作を見てからでないと語りにくいというのが舞台を見ての印象であった。

 オリヴィア・グランヴィル/カンパニー・ラ・スピラール・ドゥ・カロリーヌ「京都、3月3日、自然に生まれるコンポジション」(7時〜、京都芸術センター)を観劇。元パリ・オペラ座のダンサーでドミニク・バグエのカンパニーに参加していたオリヴィア・グランヴィルと彼女のカンパニーメンバー(イザベル・セレル/オレリアン・デクロゾ)の3人のダンサーと女流義太夫・三味線の田中悠美子維新派の音楽監督としても知られるギタリスト内橋和久、打楽器奏者の木村文彦の3人の音楽家による即興的コラボレーションの試みである。まず、この公演は3人の音楽家による現代音楽セッションとして面白かった。内橋はこれまでもアルタードステイツとしてのバンド活動や維新派の活動のほかソロでアンサンブル・ゾネなどダンスとの共同作業にも参加して、ここでは維新派などで見せるのとは全く異なる現代音楽的な曲調の音楽なども即興で提供してきた。今回もそうした活動の延長線上にあるセッションだが、今回は内橋のギターとダクソフォンをはじめ、それぞれが複数のしかもあまり演奏を聞く機会がないような楽器を駆使することで、通常の音楽セッションにはない広がりが感じられた。

 もちろん、この公演の趣旨は音楽セッションではなく、音楽とダンスのコラボレーションなのであるが、音楽自体はけっこう面白かったのだが、音楽家の3人のやりとり自体が即興であるため、これにダンサーがしかも3人かかわるということは即興表現としてはちょっと屋上屋を重ねるという印象が強かった。もっともこういう評価になってしまうのはダンスにおける即興というものに私が懐疑的であるせいかもしれない。もちろん、これまで見たダンスのうち即興的な要素が強いもののうち面白いものもなかったわけではないが、まずそれはほとんどがソロであってしかもダンスのキネティックボキャブラリーが特異である時に限られていた。

 さらに今回はダンスカンパニーとしてもダンサー・振付家としても初めて見たということもあって即興ではない時にグランヴィルという人がどんな作品を作るのか分からないのでこの日の即興との比較ができないのだが、3人の音楽家によるセッションに3人のダンサーがかかわっていくということになるとなかなか丁々発止というわけにはならないのがなんとももどかしい感じでダンスとしてはどうにも散漫な印象を受けてしまったのだ。

 これは主宰者側の企画が欲を出しすぎて、音楽家を3人のしかもいつも一緒に活動しているわけではない人にしたことに原因があるかもしれない。というのは、この日の公演にはところどころ面白いところもあったからだが、それが長続きしないところに見