「アート:”芸術”が終わった後の”アート”」(松井みどり著)

 「アート:”芸術”が終わった後の”アート”」(松井みどり著)を読了。
最近、現代美術に関する本を次から次へと読み飛ばしている。これはもちろん、最近、現代美術というジャンルがなんなのかについてすごく興味を持ち始めているからでもあるわけだが、もう一方ではちょうど演劇以外にダンスを見始めた時のように横断的に近接するジャンルのアートを見ていく時にそこで、例えばそれがダンスだとすると演劇とはなにかというのが逆照射されてくるようなところがあるのである。この本はアメリカの現代美術を中心に80年代以降の主なる現代美術の傾向を取り上げてきているが、松井が描きだすこの現代美術のなんでもありさを例えば日本の現代美術ではなくて、日本の演劇ないしコンテンポラリーダンスと比較すると面白いのじゃないかと思った。
 例えばこれはピエール・ユイグ(62年−)という映像作品の説明だが、なにかを思い起こさせないだろうか。

 エンターテインメントに対するパラサイト的映像作品のなかでも、01年ベネチア・ビエンナーレでグランプリをとった、ピエール・ユイグは凝ったやり方で映像作品をアプロプリエイトしています。「日蝕」という作品のなかで、ユイグはヴィム・ヴェンダースの77年のスリラー「アメリカの友人」の舞台を主演俳優に再び歩かせ、その映像と原作と同時に上映しました。それにより、映像によって作られた場の記憶と比較的最近の同じ場所の「記録」の間に奇妙な混同とずれが生じます。それを示すことで、ユイグは映像に囲まれて生きているために、時空の感覚や記憶が、かつて見た映像との合成のなかで虚構的に形成されるという、私たちの体験の不確実性を暗示しているようです。

 後、マイク・ケリーの作品「ハイジ」を説明する次のような文章。

 さらに92年の「ハイジ」という作品、これはケリーとポール・マッカーシーのコラボレーションでマスクを使ったパフォーマンスと人形を使ったビデオを組み合わせていきます。「アルプスの少女ハイジ」を彼ら風に解釈し、幼児虐待に近親相姦、スカトロといじめが横行するおぞましいファミリー・ロマンスを、ケリーとマッカーシーがお面をつけて演じている、見るからに馬鹿馬鹿しく、グロテスクな作品でした。

 これなんかは明らかにゴキブリコンビナート辺りを連想させるじゃないかと思う。このようなパフォーマンスがどのような文脈から生まれ、それが例えばゴキコンとどのように表現の前提となる問題意識を共有しているのかについてはもう
少し精査してみないといけないのだが、演劇ないしダンスとして独自性の高い作品は似たような前提に基づく創作活動をジャンルクロスオーバーした外部に持つことが多いのじゃないかということも感じたのである。