映画「1980」

 映画「1980」ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督)を見る。
 ケラがナイロン100℃で上演した「ライフ・アフター・パンクロック」「カメラ≠万年筆」の連作を時代の鏡を映す「近過去劇」と書いたことがある(http://member.nifty.ne.jp/simokitazawa/jamci1-1.html)のだけれど、ケラの初めての映画である「1980」もその延長線上にある姉妹作品といっていいいかもしれない。
 舞台の「カメラ≠万年筆」は大学の映画研究会が自主映画をつくる話で、三姉妹の末の妹であるリカ(蒼井優)が自主映画に出演して(ここでは高校の映画研究部になっているが)ヌードになるならないで揉めるというエピソードはもともとこの「カメラ≠万年筆」にあったものなのだが、実はケラが自主映画が挫折する物語を芝居にしたのは当時撮ろうとしていた映画がロケハンまで終わっていたのが、暗礁に乗り上げてしまい結局撮れないまま断念しなくちゃいけなかったということがあって、その悔しさから映画を作ろうとして挫折した若者たちの話を舞台にしたのだと聞いたことがある。
 その意味では今回の映画はケラに取ってはその時のリベンジマッチの意味合いもあるのだと思うが、映画(撮影中止)→映画についての舞台(近過去劇)→映画(映画についての映画であり近過去映画でもある)という手順で進行しているのが面白い。
 もっとも純粋に映画として「1980」を見た場合にはそうしたことが躓きの石になってか三姉妹の物語として構成されなくちゃいけないはずなのにやや物語的に自主映画にまつわる部分が肥大しすぎて、構成的には破綻している感が否めない。初めての映画ということで欲張っていろんな要素をひとつの作品に盛り込みすぎてしまったせいか、本線であるはずの次女・レイコ(ともさかりえ)を巡るエピソードはどうも掘り下げ不足にも感じられるし、最初に物語の狂言回しのように登場する衣笠の存在もどうも三姉妹とのからみで座りが悪い感がしてならない。
 ただ、それでも映画自体はつまらないというわけではない。それはこの映画の面白さのほとんどは通常の映画の要素からすると一見枝葉末端にすぎないようなディティールの面白さにあるからだ。ウォークマン、ヒゲダンス、竹の子族といった当時の風俗をうまく生かし、ディティールを重視して時代の雰囲気を表現していくというのが、ケラが「ライフ・アフター・パンクロック」(この舞台の時代設定も1980年)に対して使った手法を解説した(http://member.nifty.ne.jp/simokitazawa/jamci1-1.html)ものだが、この
「1980」においてもケラは時代の空気を映画に封じ込めようと同様の手法を駆使している。ただ、その手法はここでは映画というメディアの性格上、一場固定の群像会話劇であった舞台と比べ、より微細でサブリミナルなものにならざるをえない嫌いがある。例えば、竹の子族のダンスは衣笠がデートした帰りの公園で踊られているのが、登場人物の背景にとけこむように映っていたし、
ベストセラーになったレイコについての暴露本の隣りに大量に平積みされていたのは山口百恵の「蒼い時」であった。
 この辺りは私もすぐに気がついたのだが、いろんな場面で同様の細かな趣向が凝らされているようで、この映画は一度だけでなく何度も見て楽しむために
ビデオかDVDを見たほうがより楽しめるのかもしれない。
 もっとも、以前に近過去劇について書いた時も思ったのだが、少なくともこの映画に関してはリアルタイムで80年を経験した人間とそうじゃない人間では
かなり受け取る印象が違うかもしれない。バーチャルリアルに80年を追体験するという意味では今の10代、20代の人にも楽しめる映画だとは思うが、彼ら彼女らがどんな風にこの時代を感じるのかというのは予想ができない。だれか見た人いたら聞いてみたいところなのだが……。