BATIK(黒田育世)「花は流れて時は固まる」

BATIK(黒田育世)「花は流れて時は固まる」(パークタワーホール)を観劇。
昨年のトヨタアワードをぶっちぎりで受賞。いまやもっとも勢いに乗る若手振付家である黒田育世の新作である。黒田の作品を見るのはトヨタアワードでの「Side-B」、日韓ダンスコンタクトで見たソロ作品「SHOKU」に続き3本目。この作品を見てようやく、この人のコリオグラファーとしての本質がおぼろげながら少し見えてきたような気がした。
BATIK(黒田育世)「花は流れて時は固まる」が上演されたパークタワーのネクストダンスフェスティバルでは今回、砂連尾理+寺田みさこ(じゃれみさ)「男時女時」、ニブロールドライフラワー」と黒田作品の3作品が上演されたのだが、それぞれがダンスに対するアプローチがまったく異なる作品で、しかもいずれも一定以上の水準に達した舞台であっただけに、つい3本を比較して優劣をつけてしまいその序列付けが逆にその評価をした側がダンスにどんな面白さを求めているのか、その人がダンスと対峙する時の判断基準はなになのかという見る側のダンスへの向き合い方を逆にあぶりだすという意味で刺激的な企画であった。
一般論を言っていても仕方がないので、私自身のことについて触れると私の基準は大きな分けて2つある。ひとつは人間が動くのを見せるというダンスの本質(動かないダンスも最近は多いが)からして、その振付家の作品がどのようにいままでにないような独自の、ムーブメントあるいは身体言語を発掘して見せてくれるかということ。
そして、もうひとつはその舞台がどのように「21世紀という時代にいまここで生きている私たちに取っての切実な問題」を切りとっているか、ということ。これはもちろん、題材だけの問題ではなく、それまで取り上げられたことのなかったような新たな問題領域を作品に定着させるにはそれまでにはなかった方法論的アプローチが必要ということも前提としている。
この2つの基準を実際に舞台に照らし合わせてみると、じゃれみさのダンスの面白さは彼らがサンプリングしてきて、自分たちの舞台に合うように練り直したそれぞれの動きの独自性にその面白さの本質がある。
一方、ニブロールの面白さは私たちの生きている今を鋭いフォーカスでもってビビッドに切り取っていることで、さらに近作の「コーヒー」「NO-TO」などの舞台ではいまだトバ口の感もあるが、いまここで生きている私たち特有の身体性(それには当然、日本人であることも含まれる)というものをいかに追求して、実際の舞台作品のなかに落としこんでいくのかという作業も開始している。
これがそれぞれの作品を私が高く評価し、その表現から刺激を受け続けている理由なわけだが、こと今回のパークタワーでの上演作品に限っていえば、通常であればダンスのムーブメントとしては異物になってしまいかねないような下世話な動きを採集してそれを作品のなかに放り込みながら、それが作品のなかでの一連のシークエンスのなかでまさにじゃれみさ流に処理されることで、それがダンスとして成立しているという超絶技巧を見事にみせてくれたのが「男時女時」が私にとっては一番面白かった。
それに対して、ニブロールはおそらく今回の主題であり、彼らとしては描く対象として新たに取り上げた「ドライフラワー」(これはおそらくさまざまな人工物に囲まれて自然から切り離された現代社会で生きる私たちの存在をメタフォリカルに表現しようとしたものと想像される)がどうもうまく、ひとつにファーカスされないで、「ドライ」と「フラワー」が並列のまま提示されるだけで終わってしまった不満があった。
そういうわけでこの2作品についてはともに優れた部分を持つ舞台ではあったが、完成度において優った前者に軍配を挙げたい。
さて、ここまで迂回に迂回を重ねて、肝心の黒田作品にあえて触れないできたのは舞台を眺めながら、この人の作品をどのように受け取ったらいいのかについて戸惑い続けていたからで、なぜ戸惑ったのかについてを説明するためには私が日ごろどのようにダンスと向かいあって、ダンスの何に刺激を受けているかの概略について説明が必要だろうと思ったからである。
先ほど挙げた2つの基準からはいえば黒田作品にはそれほどの目新しさはない。黒田は谷桃子バレエにバレエダンサーとして所属しているかたわら、伊藤キムのカンパニー輝く未来にも参加していた経歴があるのだが、少し大雑把な分け方になるのは承知でこれを「バレエ」「舞踏」とするならば、音楽の選曲やソロと群舞における空間配置には「バレエ的なるもの」、動きには基本を舞踏的なものに置きながらも、自らのソロにおいてはバレエのパのようなものがそこここに垣間見えるというムーブメントであり、ここには例えば同じく現役のバレエダンサーでもある寺田みさこがじゃれみさの作品においては意識的にバレエ的な動きを完全に払拭しようと努力しているようなストイスズムはそれほど感じられない。
一方、作品の対象となる主題についてもこの作品の表現している構図は非常に古典的なものに思える。そこには明らかに「花」→「生殖」→「抑圧された存在としての女性」→「抑圧からの解放」というようなマーサ・グラハム以来女性の振付家が繰り返し題材としてきたような主題が見え隠れしているわけで、ここにもそれほどの新味はない。
だから、黒田はつまらないのだと簡単に言い切ってしまえれば話は簡単なのだが、そうもいかないのが困惑したと書いた理由だ。この作品には表現としての一定以上の強度があって、それが見終わった後である種の感銘を生み出しているという実感も確かにあったからだ。
それがなになのだろうと考え続けて、ふと念頭に上ったのは先ほどの2つの基準は
「前衛芸術としてのダンス」であるコンテンポラリーダンスの基準であって、ダンス自体にはその歴史において異なる基準を判断基準とできるより広大な領域があるのではないかということだ。
黒田のこの作品を見ていて、思い出したのは実はH・アール・カオスの大島早紀子の作品であった。もちろん、誤解をさけるためにあえて強調しておきたいが、それは黒田の作品自体が大島の舞台に似ているとかそういうことではなくて、ダンスを創作する際の作品への構え方において同質な匂いを感じたということなのである。
さらにいえばやはり連想したのはベジャールであり、ピナ・バウシュでもあった。
これらの振付家の作品はもちろんそれぞれに違うベクトルを持つことは今私が改めて指摘するまでもなく、明らかなことではあるが、私なりに黒田の舞台のどこがこれらのコリオグラファーの作品を連想させたのかを考えるとそこには2つの共通点が浮かび上がってくる。それはひとつはダンサーの自己表出的な表現における表現の強度であり、もうひとつは群舞とソロの舞台空間上での配置に代表されるような空間構成の巧みさである。
これらの資質はコンテンポラリーと特にこだわらなくてもダンスの振付家としては
重要な資質であって、黒田はダンスの王道的なところを担える振付家になりうる可能性を持っているといえるのかもしれない。
もちろん、それは黒田が今現在それらの振付家と比肩できるような実力を持っているというわけではない。さらに言えば大島には白河直子という傑出したダンサーを持っているという強みがあり、ベジャールの作品を体現した何人かの傑出したダンサーの存在も無視できないし、そういったダンサーの持つカリスマを今回自らソロダンスを踊った黒田が持っていたかというと残念ながらそうだとはいえない。
さらに言えば「Side-B」においては群舞の圧倒的な迫力の前に影に隠れていたソロダンスにおける「いまここで踊っている私を見て」的なあまりにナイーブなダンサーとしての欲望のあり方がこの「花は流れて時は固まる」では一層露わになった。
そのことが表現において本来必要であると私が考えている表現対象に対する客観性を欠くようなことになり、作品とそれを踊っているパフォーマーとの距離感がなくなってしまう欠陥が露呈していることがあって、それが黒田がこの作品で表現しようとした問題群自体の新味のなさとも相俟って、ともすればステレオタイプに見えてしまう場面がこの作品では散見され、それもこの作品を手放しで賞賛するのに躊躇してしまう大きな要因となった。
そういうわけでとりあえず無理にでも順位を付ければ私の評価では今回のフェスでの上演作品では「男時女時」>「ドライフラワー」>「花は流れて時は固まる」の順にはなるのだけれど、それでも黒田は「買い」」だという思いは変わらないし、次の作品ではオオバケするかもとの予感を一番匂わせているのもこの人なのである。