トリのマーク「ゑどるさかな」西日暮里@諏方神社

 トリのマーク「ゑどるさかな」(西日暮里@諏方神社)を観劇。
 荒川子ども劇場*1による3回目の公演はJR西日暮里駅の近くの神社の社務所の大広間での公演。ここの舞台の面白いところはある意味先端的、前衛的な表現でありながら、子供が見ても本当に心から楽しんでいると思えるところだ。今回の表題の「ゑどるさかな」の「ゑどる」っていうのは古語で広辞苑によれば「えどる. 画の写し描き・彩色をほどこす・文字をかっこう良くするため,なすり書きする。「絵(え)取る」,または,「彩(いろど)る」こと。
 もっともネットでさらに調べたところ富山方言では魚に対して使う言葉で、新鮮でなくなる場合に用いるというのだが、これは単にさかなであるということも含めて偶然の符号であろう。
 この物語では小道具として「さかなカルタ」というのが登場する。さかなの絵が描いてある札がいくつかあって、読み札で魚の名前を読むとそれに当たるカルタの札をとるというものなのだが、これも「絵取る(えどる)」からの連想ではないかと思う。
 カルタというのは百人一首のように読み札と絵札が一対一で対応しているのが普通だが、この「さかなカルタ」はどうもそうではない様子。柳沢明子演じる女の子はこのカルタをやることをほかの人にも強要するのだが、本人以外はだれもこのカルタのルールが理解できない。柳沢はいろいろさかなの名前を口にするなかで実際にはいないような魚の名前を頭が長い胴体の前後についている「オシツオサレツ」などと口にするのだが、これが実はドリトル先生からの引用。
 ドリトル先生は動物語に加えて、魚語も話せるという存在なのだが、柳沢演じるこの物語の登場人物はいわば逆ドリトル先生とでもいってもよい存在で、動物語どころか、さかなカルタにおいてほかの人間ともコミュニケーションが散れないし、後半登場する「さかな男」たちとはまったくコミュニケーションが取れない。
 こんな風に考えていくとこの芝居は言葉を巡るコミュニケーションがかかえる根源的な不可能性に対する寓話的不条理劇のようにも見えてくる。
 

*1:http://www.pan-kyoto.com/data/review/36-04.htmlと2003年11月4日「山のむこうの観覧車を見ていた」@日暮里・二瓶さんちの屋上