石原知明展「i[アイ]」

 石原知明展「i[アイ]」(西宮市大谷記念美術館)を見る。
 関西では最近は公立の美術館で現代美術作家の規模の大きな個展が開催されること自体が珍しくなっているので、行かなくちゃと思ってはいたのだが、なかなか行けず、最終日のこの日ようやく行くことができた。この人の作品は個別にいろんな展覧会で少しずつ見たことはあるのだが、生でこれだけの作品を見るのは初めて。新作と聞いていたのだが、展示されていた作品はほとんど旧作ないし、再製作のものだったのが少し残念であったが、写真作品などは大きなものを見ると印象も違い迫力もあり、面白かった。
 ただ、一番琴線に引っかかった作品は「美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ」(1993年/1998年)でこれは美術作品とはいっても小さな写真と小説が壁に交互に置かれているもので、写真というよりはちょっと村上春樹を思わせるような内容のその小説テキストが面白かったのと、ちょっと山下残のダンス作品の「透明人間」を連想させたところがあったからだ。
 もちろん、直接にはどちらの作品にも不可視なものを象徴する存在としての「透明人間」が表題に共通して使われているという単純な一致はあるのだけれど、この作品だけではなくて、今回の個展の全体を俯瞰して見た時の石原知明の美術へのアプローチと山下残のダンスへのアプローチに通低するところを感じた。
 少し乱暴な説明になるのを承知でいえば山下残のダンス作品は「ダンス」と「言語テキスト」の関係性についての考察を作品として具現化したものが多く、石原の作品にも「美術」と「言語テキスト」の関係性がその作品コンセプトに深く影を落としたものが多い。
 「言語テキスト」と仮に書いたがこれはもう少し正確な言い回しを探れば「言語化されうるような不可視の概念ないしイメージ」と言い換えることができるかもしれない。しかも、両者に共通しているのはその関係性というのが単純に1対1のような写像関係に還元できるようなもの(例えば、作品の説明)ではなく、交換不可能な対応関係を関係のある種のずれとして提示するような構えが感じられるのだ。例えば、この日展示されていた石原の作品には作品のなかに点字が使われているものが多いのだが、点字は言語テキストではあるのだけれど、本来触れて読むものなのであって、健常者の私にはその翻訳と思われるものが壁に張られているということはあっても点字を読むことはできずそれは作品上に刻印されたある種の図形としてのみ受けとりが可能だが、点字を読むことのできる盲人がこの美術館に現れたとしても、美術展示の制度性から、作品に触れることはできない。*1
 

*1:と書いたのだけれど、「世界。」という作品は床に置かれている真鍮の板の上に点字が刻印されているので、見るだけなのだと思っていたけれど、足で触れることはできるのだということが分かった。ちなみに私が見たたときにはだれもそうしている人はいなかったので、当然普通の美術展示がそうであるようにそうしちゃいけないと思って、作品を踏んだりはしなかったのだが。ただ、「絵画。」の連作、「光。」に関してはここで書いたことは当てはまるはず。