dots「うつつなれ」

 dots「うつつなれ」*1(スパイラルホール)を観劇。
 dots「うつつなれ」はアイホールで上演した舞台の再演なので、内容についてはそちらですませようと思ったのだけれど、初演時には感想を書いてないことが分かったのでちょっと詳しい中身の説明も含めて感想を書くことにする。壁面いっぱいに映し出される映像と舞台上にオブジェ的に配置されたパフォーマーのミニマルな動きを組み合わせたパフォーマンスというのがdotsのスタイルなのだが、この「うつつなれ」は典型的にそういうスタイルの舞台である。
 白い古着がまるでスクリーンのように舞台の背後には吊るされていて、そこに四つの入り口が開けられていて、観客はその裏側から入場するようになっている。水槽にスピーカーを仕込んだインスタレーションが舞台の背後にはやはり4つ配置されていて、その水面がスピーカーから出力された音によって波を立てて模様ができ、それが変化する。この展示を見た後、会場の客席に入って待っているとパフォーマンスが始まる。
 パフォーマンスは4人のパフォーマーが配置を替えながらゆっくりと歩いていくというものが主体だが、それにスピーカーからの音響と古着に映し出される映像が重なっていく。音響も映像もノイズや重低音でガンガンというのではなくて現代音楽系ではあるけれど、最初の方で流れていたアンビアントなピアノの曲や映像でいえばどこか自然の風景を映したようなデジタル的というよりはどちらかというとアナログ的なテイストを感じさせる。
 パフォーマーのムーブメント自体には特にみるべきオリジナリティーがあるというわけではないので、どうしても見ていて集中力を継続するのが難しいのが課題といえば課題で、その構成要素からダムタイプとの類似がよく指摘されるが、テイストという意味ではよくも悪くもロバート・ウィルソンなどに近いかもしれない。今回は初演と比較すると音楽も映像もほぼ全面的に作り直されていて、インスタレーションなども含めて、舞台の見せ方という意味では完成度は格段に上がっている。初演の時には途中でパフォーマーのひとりが日記か手紙のようなものを朗読する場面があって、そこがほかのパフォーマンスの雰囲気と大きく違っていたということに違和感があったが、今回は言語テキストをパフォーマーのひとりが歩きながらすぶやくように語り、それをマイクで拾ってエフェクトをかけるというような工夫がなされていた。
 ただ、今回の場合もここでの言語テクストとそのほかのミニマルな動きだけのパフォーマンスとの関係性が分かりにくいという問題はそのまま残った。ダムタイプとの比較でいえばパフォーマーが生で発声する台詞のようなものへのこだわりはダムタイプにはないところで、作演出の桑折現はそこに拘りがあるというのは前回今回の舞台を続けて見た時にはっきりと分かったのだが、おそらく、そこのところの関係性をどのように舞台に生かしていくのかということへの詰めがまだ詰めきれてないところがあるのでないだろうか。今回の舞台ということに限っていうなら、ここの部分はやはり表現として弱く、そのため必要がないのではないかとさえ思われた。以前見た太田省吾のテキストをつかった「10の地点」ではそこまでの違和感はなかったから、言語テキストをもし使うのであれば既存のテクストのようなものにしたほうがいいのかもしれないと思ったのだが、テキストを使うにしろ、いっさい使わないにしろ、この集団にとってはこのテキストとパフォーマンスの関係性をもう少し詰めて考え抜くことこそがダムタイプにもロバート・ウィルソンにもなくてdotsならではの表現に到達するための生命線であるかもしれないと思ったのである。
 最後に音楽祭に参加して青山スパイラルホールで東京初公演という今回の公演の枠組みはこの集団にとって重荷になりかねないぞと若干の危ぐを抱いていたのだけれど、終演後の客席の醒めた反応などを見てみるとちょっとつらいことになってしまったようだ。もし、それがまだオリジナリティーとして完全には確立されてなくて、ある種コピーに見えるところがあるにしても昨年まで全員学生であった学生劇団だと考えてみれば(事実そうなのだが)、これだけセンスのいいコピーができる集団がどこにいるだろうか。もちろん、彼らが本当の表現におけるオリジナリティーを獲得していくのはこれからになるのだが、現時点でいい素材であることは間違いないのではないだろうか。