「きわめてよいふうけい」(ホンマタカシ監督)

 映画「きわめてよいふうけい」ホンマタカシ監督)を見る。
 写真家、中平卓馬のドキュメンタリー。写真家のホンマタカシが映画を撮っていると最初に聞いたときは劇映画なんだろうと思って、聞き流していたのだが、それがドキュメンタリーでしかも同業の写真家、中平卓馬を撮っていると聞いて、少しびっくりした。ひとつには同じ写真家といっても以前にホンマタカシが東京の郊外をポップな感覚で撮っている写真を雑誌かなにかで見た印象からいうとホンマと中平では全然タイプが違うという風に思っていたので、接点がよく分からなかったのと、写真家が写真家のドキュメンタリーを映画で撮るっていいのはどういうことなんだろうと思ってしまったからである。ただ、後で考えてみるとこの違和感がなぜ起きたのかは自分でもよく分からなくもある。小説家が映画を撮るとしてその題材が小説家であるということになんの不思議もないし、それが美術家であっても同様である。これはやはり単に写真家のドキュメンタリーというのではなくて、それが中平卓馬だったということにかかわる問題かもしれない。
 中平卓馬には興味を持っていた。写真に本格的に興味を持ち出したのは最近のことなので中平の存在を知ったのは実はつい最近といっていいのだが、この写真家が単に写真の実作者というだけではなくて、日本現代写真を代表する論客であったということ。それはつい最近、中平卓馬中平卓馬の写真論」を読了してはっきり分かったのだが、その舌鋒の切れ味は鋭く確かにこの分野において中平は日本を代表する知性であったといっても過言ではないと思う。
 そういう存在であった中平が1977年9月11日未明、多量のアルコール摂取により、昏睡状態に陥り、その後意識が回復したとき、記憶のほとんどを失うとともに言葉の大部分を失ってしまったこと。そして、そうであるにもかかわらず写真を撮り続けていること。そこに多くの考えさせられることがあると思ったからである。
 かなり前置きが長くなってしまったが、以上が映画を見る前に考えていたこと。それで映画はどうだったかというと……これが通常のドキュメンタリーとは違ってそういうことにまったく、切り込んでいかない。ホンマのカメラは写真同様になんの説明もせずに中平の日常をただ追い続ける。
映画は中平が日記をぼそぼそとした聞き取りにくい声で読むところから始まる。日記と書いたがそれは「7月29日私、午前1時50分、眠り始めた。私、7時覚醒。昼寝1時間可能!! 私、それから20分程、眠った、のかもしれない」「7月30日私、午前1時50分、眠り始めた。私、7時覚醒。昼寝1時間可能!!」……という箇条書きのようなものでここから分かるのは明らかにこの人がちょっと普通じゃないこと。東松照明展「沖縄マンダラ」記念シンポジウムで沖縄について熱く語る中平。
その口調は興奮しているが、論旨はそれほど明瞭というわけではなく、よく分からない。
 この映画はフレームのなかに中平を捉えて、映像ならでは情報を伝達しはするのだが、それでそれを見ている私にとって、中平のひととなりがしだいによく分かってくるわけではない。「分からない」中平は「分からない」中平としてそのままフィルムのなかにおり、謎は深まっていく、そんな印象なのだ。
 ここには映画としての面白さはなく、その意味でこれは退屈な映画といっていいだろう。それは
これがドキュメンタリーだからというわけではなく、ドキュメンタリーとしてもそうなのだ。ただ、この映画を見てひとつ思ったのは映画を見終わった後には見る前以上に中平卓馬という存在に興味が深まったことだ。そして、それは同様にこういう映画を撮ったホンマタカシにも同様の思いを抱いた。そして、京都で開かれると東京で開かれるホンマタカシ「きわめてよいふうけい」写真展*1と東京で開かれる中平卓馬の新作展*2にはぜひ出かけなくてはと思ったのである。

*1:ホンマタカシ「きわめてよいふうけい」写真展 会場 恵文社一乗寺店ギャラリーアンフェール 2005年1月18日−31日

*2:中平卓馬新作展「なぜ、他ならぬ人間=動物図鑑か??」会場 SHUGOARTS 会期 2004年11月26日(金)〜12月25日(土