ダンスについて考えてみる(即興について1)

 最近、ダンスのレビューを書くことが億劫になってきている。それはなぜかと考えた時にこのところ見たダンスに即興の要素が強い舞台が多いせいではないかと気がついた。具体的に例を挙げてみせれば枇杷系・ダンスの発明vol.8「アナタガタの中にいるワタクシタチ」 、マイケル・シューマッハ「360°」、ローザス「ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ」、Ensemble Sonne Dance Performance(アンサンブル・ゾネ・ダンスパフォーマンス)、アートカレイドスコープ(Lo-lo Lo-lo+内山大)」とここ2か月ほどの間に見たダンスの舞台のうち過半が即興ならびに即興性の強い舞台なのであった。
 書くことが億劫になってきているという書き方を今したのだが、若干スランプ気味のところはあるにしても個々の作品についてまったく何も書くことができないというわけではない。ただ、こうした舞台を見るにあたって、ひとつの作品というのを超えたところで、まだ、それをはっきりと文章の形で書きしるすことは難しいのだが、ある意味、ダンス(この場合は特にコンテンポラリーダンスのあり方)に対するより根源的な疑問が頭を離れない。それは個々の舞台の批評というようなアスペクトでは捉えることが難しいこともあって、それがダンスについてなにか書こうと思った時の喉にささった骨のようなものになっている。そういう問題群はいくつかあってそれを「ダンスについて考えてみる」という表題で考えながら書きしるしてみようと考えた。
 その最初の主題が即興(インプロビゼーション)なのである。一言で即興といっても上に取り上げたそれぞれの公演でも作品の作り手と即興の活用の仕方というのは千差万別である。上に挙げた例でいえばローザス、アンサンブル・ゾネの場合などは大枠の構成はあらかじめ振付家により与えられており、即興の部分はあくまで素材として作品のなかに組み込まれている。
 振付によって規定されていない動き(ムーブメント)が舞台上で許容されているという意味ではこれも即興といってかまわないのかもしれないが、この場合、即興という言葉に若干の違和感を感じざるをえないのは音楽においてはこういうものはおそらく即興という風には言わないのではないかという連想があるからだ。
 広い意味でのパフォーミングアートのなかで音楽が即興がもっとも広範な形で行われている分野ではないかと思われるので、あくまで、例えにすぎないということを頭の片隅に置きながらではあるが、音楽をモデルにダンスの即興について少し考えてみたい。
 実際、即興のダンスはある意味、モダンジャズに代表されるような即興音楽と似て感じられるところがある。即興を得意とするソロダンサーがよく音楽家(しかも即興を得意とする)とコラボレーションを行うことが多いのはここでは擬似的に音楽家同士がセッションをするような形で音楽とダンス、つまり音と動きのセッションを行うことが可能だからだ。
 音楽のセッションでは相手の出してきた音に対してリアルタイムでの反応が引き出され、こうした反応の連鎖によりジャズのセッションは成立しているわけだが、同様のことが音楽とダンサーの間でも行われる。これが言葉を媒介とせざるをえない演劇とダンスが大きく違うところで、言語テクストを使う演劇では特殊な方法論を持ち込まない限りはこういうリアルタイムでの相互反応はきわめて起こりにくい*1
 そして、ダンスにおいてこういうセッション的な掛け合いが音楽に対して可能なもうひとつの理由は即興といってもそこから生み出される動きというのはまったくの白紙(タプララサ)のようなものというわけではなく、音楽でいうとフレーズのような自分だけが持つ短い動きを優れたダンサーは数多く持っていて、これを組み合わせて動きの連なりを作る力を持っているからだ。

*1:それが可能になることがあるとすれば文法に規定されて、ある一定の意味がそこから汲み取れるようになるにはある一定時間の持続が必要な演劇に対し、それが断片化して、もはや統御された意味などは放棄された言葉の羅列になるような場合で、こういう一種のボイスパフォーマンス的なものを演劇と呼ぶかどうかはまた別の問題となる