文楽公演「摂州合邦辻」

文楽公演「摂州合邦辻」国立文楽劇場)を観劇。

「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」万代池の段/合邦庵室の段
※字幕付

 文楽を見るのはずいぶんひさしぶりのことなのだった。この春に国立文楽劇場から1駅の場所に引越してきて、前よりは見やすくなったのでもっと早く見にこればよかったと後悔した。実は以前はけっこう見ていた時期もあったのだけれど、歌舞伎なんかと比べると文楽はこれまでちょっと苦手で、というのは私にとっては見るのにすごく集中力が必要なので、体調がよほどいいときでないと睡魔に襲われてしまうことが多いのだ。
 こんなことを書くと文楽ファンからはお叱りを受けそうだが、なぜそうなのかは自分でも分かっていて、それは文楽を見にいくと、なんと義太夫語りを聞き逃さぬようにしてと集中する、というのは義太夫を聞き取るヒヤリングの方が私にとっては楽なことではなくて、これは文楽だけでなくて、日本舞踊や歌舞伎の舞踊もそうなのだけれど、特に初めての作品の時にはなんとか歌詞を聞き取ろうとして聞いているうちにしだいに目が留守になってくる、つまり2つのことを同時にやろうとするのはどうも私にとっては結構難しいことのようなのだ。もっとも、ミュージカルやオペラや歌舞伎ではそういうことはないから、どうやら謡う人と演じる(踊る)人が別々の場合にそれを同時に処理しようとすると処理能力をオーバーフローすることがあるみたいだ。もちろん、あくまで体調しだいで、睡眠を十分にとっていたら大丈夫なのだが。
 なぜ、こんなことを書いたのかというのには実はわけがあって、それは「字幕」がつくと私にとってはすごく楽だということが今回初めて字幕つきの舞台を見て分かったからだ。とはいえ、この日は前から4番目と前の方の席だったので最初のうちは舞台の上の部分に映写されるということに字幕が出ているということに気がつかなかった。気がついた瞬間、最初、「あれ、なんであんなところに字が映っているのだろう」となにが起こっていたのか分からないで混乱したのだが、慣れてくるとこれは思いのほか便利である。というのは浄瑠璃が聞き取りにくいのは固有名詞や昔の言い回しなどで、聞き取っているだけだと、なにを言っているのか分かるまでに時間がかかったり、発音は分かってもまるで意味がとれないことがあるのだが、字づらで見れば一目瞭然ということが多いからだ。
 一例を出せば、合邦庵室の段の冒頭部分、「願似此功徳鉦の声、やむが回向の申上げ、百万遍の同行中、座席上下の差別なく、心暗居の岸はずれ、合邦夫婦が志〜」のくだり、私にとっては「がんにしくどくのかねのこえ、やむがえこうのもうしあげ〜」とやられてもほとんど意味が分からないのだが、字幕を見てなら意味がたどれるので、義太夫節を本当に意味で聞くことに専念できるのだ。字幕をつけるという話はそういえばニュースかなにかで聞いた記憶はあって、その時には字幕? イヤホンガイドとかあったんじゃないのとか思い、ピンとこなかったのだけれど、イヤホンガイドほどいらない時に邪魔ではないし、これはよかった。
 これだけだと字幕についてのレビューじゃないかの声を聞こえてきそうなので、内容についてもちょっと触れておこう。とはいえ、私は文楽の専門家でもなんでもないし、文楽を見たのも、数年ぶりなので、浄瑠璃人形遣いの良し悪しなどについてはなにも言うことができないので、これから書いていくのは「摂州合邦辻」のテキストについての感想ということになる。
 物語の筋立てについては私が説明するよりもネット上で簡潔にまとめた解説ページ*1を見つけたのでそれを参照してほしいが、謡曲「弱法師」や説教節「しんとく丸」「愛護の若」などを下敷きに書かれた狂言で先行するテキストとの大きな違いはそれらがあくまで「俊徳丸」を中心にした物語であるのに対し、文楽は俊徳丸の義理の母親の玉手御前という人を登場させて、この玉手御前が義理の息子である俊徳丸に恋慕して、道ならぬ恋を仕掛けるが、拒絶され、酒に毒を入れて飲ませ、容貌が醜くくずれる病を発病し、それを恥じた俊徳丸は出奔する。しかし、実はそれは世継ぎ争いに俊徳丸が巻き込まれるのを恐れた玉手の芝居で偽りの恋だったという筋立てを盛り込んだことである。
 それで見ての印象はどうだったかというと、やはり、どう考えてもこの結末には無理がある。玉手御前の恋が本当に偽りの計略だったのか、本当はそうじゃなかったのではないかという解釈が出てくるのはそうとでも考えないとその行動があまりにも突飛で理解できないからではないかと思う。ただ、本当の恋だった、あるいは恋の狂気だったという解釈の歌舞伎ではどういう風に演じているのか興味深いところだが、この日の舞台の印象からすれば文楽での解釈は「忠義ゆえの偽りの恋」である、と思えた。そして、それはやはり先ほど書いたように無理があるので、特に毒薬を解毒する方法についての「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に誕生したる女の肝の臓の生血を取り、毒酒を盛ったる器にて、病人に与える時は、即座に本復疑いなしと、聞いた時のその嬉しさ」のくだりなど義太夫人形遣いが熱演すればするほど、「そうはいっても、そりゃ変だよ」感がどうしても脳裏に浮かんでくるのをとめるのは難しかった。