BABY-Q Solo Dance「ERROR CORD///pcshyoyplsh」

BABY-Q Solo Dance「ERROR CORD///pcshyoyplsh」京都造形芸術大学studio21)を観劇。
 BABY-Qの東野祥子*1の初めての本格的ソロ公演である。以前、試作的なソロは京都芸術センターで開催された「アジアダンス会議」のデモンストレーション*2で見たことがあって、その時に「東野本人は集団でという意思が強いようだが、こういうソロやあるいはもうひとりふたり踊れるダンサーを加えてのソリッドな作品を志向した方が海外マーケットなどを考えれば早道のような気がする。BABY-Qとしての集団の活動と東野の個人の活動を分けて、それぞれ特色をはっきりさせて、方向性の違いを明確にしていくべき時期に来ているのではないかと思った」とソロ作品待望論のようなことを書いたこともあって、私にとって個人的にきわめて期待度の高い舞台であった。
 実際の舞台がどうだったかというと、期待が大きかった反動もあるが、若干の疑問符をつけざるをえないものであった。テイストとしては以前に見て高い評価をした舞台の延長線上にある。方向性に大きな間違いはないが、今回の舞台は構成や見せ方にやや難があったのではないかと思った。
 まず気になったのは今回の照明と映像の使い方である。舞台が始まると舞台奥に椅子があり、そこに左右に大きく足を広げた東野が座っている。その左右にはスクリーンがあって、そこに映像が映し出されると椅子から降りた東野が左右に分かれた映像の真ん中で踊りだすのだが、照明が後ろか側面から当たり、半分シルエットのようになっていて、舞台全体はかなり暗い状態であるため、東野のダンスの動きのディティールが見えにくい、というかほとんど見えない。しかも左右に映し出される映像が「エラー・コード」という表題に合わせてか、上下にぶれたり、突如切断されたりする見えにくい種類のものであるためにそちらにも必要以上の注意をそがれて、結果的に舞台全体がはっきりとは見えにくい状態となっていた。
 この場面だけでなく、この舞台では全体的に照明が暗い場面が多く、先ほどの映像をはじめダンサーの動きを集中して見ようとすると注意がそがれるような要素も多く、それでいてダンスの方向性としては押井守監督のアニメ映画「イノセンス」に登場する壊れた機械人形を彷彿とさせるような動きとか、相当に目を凝らして見ないとトレースすることができないハードエッジなものが多かった。これはある意味、BABY-Qの作品における東野のソロ部分の特徴ともいえることでもあり、それゆえ、確信犯的なところは感じるのだが、グループ公演ではソロとソロの間に別の場面が入って変化がつけられるので、東野のソロ部分が見るのに集中力が必要なことがあっても持続が可能なのだが、こういう緊張の持続が必要な場面ばかりが続くと生理的につらくて、しだいに注意力が散漫になってきてしまうのだ。
 見える見えないということで言えば、すべての場面が見える必要はないのだが、途中、途中何ヵ所か、舞台上の明暗でコントラストがつく場面が挿入されていれば印象は相当に違ったのではないかと思う。
 東野のソロダンサーとしての技量には卓越したものがあり、その魅力が発揮された場面もあったが、1時間近いソロ作品としては長尺といっていい舞台を見せきるにはそれだけでは難しい。この舞台では構成が一本調子なところが目立ち、そのことも気になった。
 東野のムーブメントには卓越した踊り手だけがなしえる身体的強度があるが、残念ながら場面ごとのトーンの変化が乏しいこともあって、そういう本来持っているよさを堪能することがこの舞台に関していえば難しかった。それがたとえ超絶技巧的な身体強度が続くダンスであっても、人間の目というのはしばらくそれを見続けていると飽きがきてしまうということは以前にラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスの作品を見ていた時にも感じたが、ちょうど、今回の舞台にも同じような感覚があった。
 実をいえば最後のシーンだけにはそれまでの場面と比べてコントラスト、トーンの変化が明確にあったのだが、先に述べたような理由とその前の下手側に置かれた舞台装置のところにいた女性パフォーマーが奥に去っていって、少し長い暗転があったところで、「ここで終わりかな」と思ってしまったこともあって、その後の場面で再び舞台を見続ける集中をとりもどすのが困難な状態になっていた。
 注意力散漫になるのは見ているお前が悪いと言われれば言葉もないが、たとえば勅使川原三郎の作品などではソロでもそのあたりの緩急の使い方が抜群にうまく、観客の側の生理を計算しつくしたところがあり、ハードエッジな場面があってもちゃんと観客の集中力が持続できるように作られている。そういう構成の妙を会得すればこの作品も見違えるほどよくなるはずと思うと残念でならなかったのだ。
 以上のような不平不満を並べた後にいまさらなにをと思われても仕方のないところもあるが、実は照明や構成などはある意味テクニカルな問題であり、東野がそれをクリアすることはそれほど難しくないはずだ。最初に方向性に大きな間違いはないがと書いたようにこの作品の潜在的な可能性については大きなポテンシャルを感じた。先に比較対象として勅使川原を持ち出したのは伊達や酔狂ではない。
 東野の動きの説明のところで押井守の「イノセンス」のことを持ち出したが、東野の動きだけではなくて、この作品には「ERROR CORD///pcshyoyplsh」という主題やテイストにおいて押井守の世界を彷彿とさせるようなところがあって、コンテンポラリーダンスというフィールドでそういうことをやっている人はほとんどないから、特に海外のマーケットではそういうところを強調していけば相当な強みになると思うのだが、どうだろうか。
 以前に聞いた話では今回の舞台を元にしたグループ作品を上演するという構想もあるようなので、その舞台には期待したいと思うし、ソロ作品としてもさらに練り直しての再演をなにかの機会にぜひ期待したい。