ダンスについての対論

 いささか、遅ればせの紹介となってしまうが、舞踊評論家の武藤大祐氏と桜井圭介氏が武藤氏のウェブログ*1で桜井氏が最近提唱している「コドモ身体」という概念を巡って非常に興味深い対論を行っている。コンテンポラリーダンスを考えていくにあたって、いろんな意味で考えさせられる内容を含んでいると思うのでぜひ紹介したいと思った。
 日本のコンテンポラリーダンスの最近の状況については私も今年のトヨタアワードの時ぐらいから考え直してみなければならないと思っていて、その中で桜井氏による「コドモ身体」論については一度本格的に考えてみなければならないと思っていたのだが、時間がなくてそのままになっていた。
 この対論を通じて、桜井氏のいう「コドモ身体」についてはいくつか誤解をしていたこともあったということが分かった。私の理解では「コドモ身体」とは西洋の舞踊に代表されるような「大人の身体」に対する対概念だと考えていたが、どうやら桜井氏によると「身体そのもの」ではなくあくまで「身体の運動」が「子供のよう」である、というのが「コドモ身体」であるということになるらしい。
 私の理解では「大人の身体」には三浦雅士氏が「身体の零度」で提唱した近代以降における「ニュートラルな身体」*2のイメージが重なり合うので、「コドモ身体」は舞踏などが提示した「老人のような身体」「赤子のような身体」などと同様に「ニュートラル」すなわち仮想上の座標の中心からのズレを意味するものであると考えていた。
 そうだとすると「コドモ身体」は例えばバレエ・モダンダンス・体操などに代表される訓練によって獲得される「ニュートラルな身体」に対する有効なアンチテーゼにはなりうるが、そこにはなんら特権性はなくて、老人の身体や拘束された身体と優劣のないワン・ノブ・ゼムにすぎないのではないかと漠然と考えていたのだが、この対論を熟読してもう少し落ち着いて考えてみる必要があるかもしれない。
 これは言葉の問題にすぎない、のかもしれないが、日本のコンテンポラリーダンスを考える時に重要ではないかと最近考えているのが身体におけるノイズの問題だ。ここでノイズと書いたのは身体運動のうち制御不可能な部分についての問題で、バレエに代表される西洋のダンスにおいては少なくとも、訓練によって仮想上の振付と実際の身体所作との間に生ずる差異を極小化しようというところに作り手の技術は向かっていたのではないかと思われる。
 ところが、日本のコンテンポラリーダンスではニブロールやクルスタシアの近作に見られるように明らかにこの身体のノイズを積極的に舞台上に乗せようとしている節があるし、それと同じような意味で言っているのかどうかについては若干保留したい気持ちもあるのだが、チェルフィッチュも身体におけるノイズを演出的に重視するということを作演出の岡田利規は強調している。
 こうした制御されない身体を「ノイズ的身体」と呼ぶことにした時、桜井氏の言うところの「コドモ身体」はどこまで概念的にこれと重なりあい、そして重なり合わないのか。 
 

*1:12月4日の日記コメントhttp://d.hatena.ne.jp/mmmmmmmm/20051204

*2:こういう表現でよかったかどうかは現在著作が手元にないため少し自信がない