宮下誠「20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す」

 宮下誠「20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す」光文社新書)を読了。
 最近、ギャラリーなどで現代美術の作品を見て回る機会が増えてきて、分かってきたことがある。それは私には絵が分からない、ということだ。分からないなどと書くと、芸術は感性の産物なのだから、「分かる」必要などない。感じれば良いのだし、つまるところ「好き嫌い」である。だから、「分からない」などと韜晦した言い方はやめて、「面白い」「つまらない」と言いなさい、との言葉がどこかから聞こえてくる。似たようなことはコンテンポラリーダンスを見て「分からない」と言う人には私自身もよく言っていることなので、要するにそれは大部分の絵が私にとって「つまらない」からだなどと切り捨てることは可能ではあるのだけれど、それでも釈然としない感覚は残る。
 というのは実はここで言う「分からない」には「なんだか分からない」ということだけじゃなくて、それが「いい」のか「悪い」のかという価値判断さえ「分からない」からなのだ。もちろん、そういうレベルでも「好き」「嫌い」というのはあってそれは例えば非常に単純なレベルで言えば色づかいが好きだ、とかそういうことになるわけだけれど、これでもけっこう数だけは見ているうちにそうじゃないレベルで「これは明らかにレベルが低い」とか、「これは一定以上のレベル」に達しているというようなことはなんとなく感じられる。
 結局、「分からない」というのは絵画、特に抽象絵画の場合にその作品のよし悪しの判断基準となる「コード」が読み取りにくい、あるいは読みとれないことに絵画を見た時に感じる当惑があるのではないかという気がする。そして、その「コード」はよりコンセプトに比重のかかっている現代の具象画の時には読み取りやすいし、コンセプトとモノの関係性などが読み取りやすいという意味ではインスタレーションやオブジェの方が少なくとも私には「分かりやすい」からである。
 そして、この「20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す」は「分からない」絵画を「分からない」ままで理解するという意味では私にとっては非常に面白い本だった。つまり、この本を読んで分かったのは「分かる」というのはその作家・作品の「コンテキストが分かる」ということなんだなというのが漠然とではあるが分かってきたからだ。
 それは現代絵画がまさに現代絵画であるということにおいて、作者本人が意識しているしていないにかかわらず「美術史」「絵画史」を背負っている、ということがあって、だからこそ「美術史」を参照していくなかで理解されるしかないといこと。こういうことを具象画という形式で村上隆会田誠は確信犯としてやっていて、そこのところが面白いわけだが、同じようなことはギャラリーに毎日のように展示されている若い画家たちの描く抽象画にもあるのだろうということ。この本を読んで「分からない」から敬遠するのではなくて、もう一度ギャラリーに足を運んでそれぞれの「分からなさ」がどんな要素から構成されているのかをもっとよく考えてみよう。そんな気分にさせられたのだった。