ダンスについて考えてみる(即興について3*2)

前回の文章に「お肌の触れ合い会話」さんがコメントをつけてくれたのだが、その中で『「インプロヴィゼーション」は、ノン・イディオマティックで、トータル・スペクトルで、フリー』というくだりがあって、私には意味がよく分からなかったので、ネット検索で調べてみたらこんな文章*1にぶち当たった。
 大友良英が即興音楽について書いている文章なのだが、原典を知りたい人はリンク先を参照してもらうとして少しだけ引用させてもらう。

 ベイリーの著書「インプロヴィゼーション」の中で彼が繰り返し強調しているのが音楽のイディオムの問題だ。ものすごく短く要約すると、即興というのは、これまでのありとあらゆる音楽の中に普遍的に存在するものだ・・・ということをまずは検証しつつ、その即興の多くは自分たちの所属する音楽言語を演奏することによって成り立っていて、フリージャズであろうとインド音楽であろうと、その音楽の明確なイディオムを駆使することによって成り立っていることを解き明かしていく。イディオマティック・インプロヴィゼーションにおいては、その即興演奏がイディオムに照らして、自分自身の所属する音楽にとって正統であるかどうかが常に問題になってくる・・・という指摘は、当時わたしにとっては非常に新鮮な視点だった。その上で、彼自身は、そうしたイディオムにたよらない即興演奏の可能性「フリー・インプロヴィゼーション」を模索していく。わたしは当時、このフリー・インプロヴィゼーションに次の音楽の新しい可能性と希望を、宗教にも近いくらいの熱意をもって見出していたのだった。「音楽から、即興から、イディオムを剥ぎ取る」なんて魅力的なテーマだろう。当時の私は、そこに民族からも歴史からも自由になれるような錯覚する見ていたように思う。

 これは大友が即興ミュージシャンのデレク・ベイリーについて語って、ベイリーの提唱するノンイディオマティック・インプロヴィゼーションについて説明しているくだろなのだが、これ以上音楽に踏み込むのはまた前の二の舞になるので避けることにするのだが、ここで分かるのはまず即興にはイディオマティックとノンイディオマティックの2種類があるということと、大部分のものはイディオマティックなものなのだということだろうか。
 これはそのままダンスに置き換えたとしても非常に分かりやすくて、ある意味、即興ダンスというものに対して以前から私が感じていたもやもやのようなものの一部を晴らしてくれるようなところがあった。
 さらに大友はこんな風に続ける。

理屈や理想はともかく、実際にイディオムのない演奏をするのは、実は、そうそう簡単なことではない。ベイリーが70年代当時ギターでやろうとしていたことをわたしなりに、わかりやすく解説してみよう。ありとあらゆる音楽にはその音楽固有の言語と言えるようなリズムやアクセント、メロディやハーモニー、音色で成り立っている。人間はなぜそれを認識できるのかといえば、リズムに例をとるなら、どこが1拍目かがわかって、ある一定の繰り返し(パターン)をそこから見出すことが出来るからなのだ。1拍目を認識できるからこそ、リズムの表と裏がわかり、そこからパターンを聴き出すことも可能になり、パターンのどこかにアクセントを置いてダンスをしたり、それにあわせてメロディを乗せて歌うことも出来る。ちょっとしたリズムの訛りや、歌のアクセントのつけ方や音色の癖でその音楽がどんなジャンルの音楽かを、別に専門家じゃなくても容易に認識することが出来るようになる。僕等がほんの1〜2小節聴いただけで、レゲエとジャズの違いがはっきりわかるのはそのためだ。これが音楽のイディオムの正体だったりする。さてベイリーが当時やったのは、なにもめちゃくちゃに演奏したり、ノイズと思われるような音を出すことでイディオムを回避するのではなく、あくまでも彼の楽器であるギターを正面から普通に演奏しながらイディオムを感じさせる音列やリズム音色をものすごい注意深さで回避することだったのだ。これは並大抵の技術や、半端な意思では出来るもんじゃない。同じパターンの音列やリズムを出さない、なにかの音楽を感じさせるようなイディオムの痕跡を出さない・・・というのは、やってみるとかなりハードルの高い技術で、相当の修練を積まなければ出来るもんじゃない。

 「リズムやアクセント、メロディやハーモニー、音色」と大友が音楽の要素(イディオム)として挙げる要素をダンスに置き換えれば、細かく分解していけばこれもそれぞれの要素に分解されうるが、いわゆる「身体言語(キネティックボキャブラリー)」ということになる。基本的には楽譜同様に近代的概念である「振付」が生まれる以前はすべてのダンスは
即興であった。それはアフリカのダンスや中近東のベリーダンス、あるいは日本で言えば阿波踊りに代表されるような民族舞踊はそれぞれに固有なパターンを持ちながら多くの場合、即興で踊られることからも分かるであろう。
 「お肌の触れ合い会話」さんが『「インプロヴィゼーション」は、ノン・イディオマティックで、トータル・スペクトルで、フリー』と書かれたときにその裏には「……であるべき」という価値判断がそこには含まれているように感じさせられたのだが、私はここで逆に「即興ダンス」について何を考えるべきなのかが、はっきりと見えてきた気がした。
 つまり、一見トートロジーあるいは言葉遊びに見えてしまう危険性はあるけれど、ダンスにおいて「即興とはなにか」を考えるというのは「振付(=即興ではないもの)とは何か」を考えることと等価である*2
 さらにダンスの即興については大友が「同じパターンの音列やリズムを出さない、なにかの音楽を感じさせるようなイディオムの痕跡を出さない・・・というのは、やってみるとかなりハードルの高い技術で、相当の修練を積まなければ出来るもんじゃない」というノンイディオマティックな即興は可能なのか。もし、可能だとしてそれはどんな条件において可能になるのか。
 ここまで書き込んでいて、先日からダンスとはなんの関係もない理由で読み返していた「シミュレーショニズム」(椹木野衣)をめくっていたら偶然にもこんな文章が目に飛び込んできた。

 「北」へ行くやつはのたれ死にだ。(中略)「北の理念」という奇妙なラジオ番組を制作したグレン・グールド、極北のギタリスト=デレク・ベイリー、そしてそれらすべてについてきわめてオブセッショナルに語り続けた間章−−物理的にせよ精神的にせよ、「北」を目指したすべての表現者は、真の前衛は歴史の先端に現れなければならないという「デッド・エンド」の探求のなかでのたれ死んだ。

 筆がすべってついついダンスそのものからはずいぶん遠いところにきてしまった。次は戻さなくては。
 

*1:http://homepage2.nifty.com/nma/articles/jam-kiku.htm

*2:例えばダンスにおいて「イディオム」に当たる「身体言語」は「即興にかかわるもの」なのか「振付にかかわるもの」なのか