CRUSTACEA(クルスタシア)[R 改訂版]@dB Physical Arts Festival 2006

CRUSTACEA(クルスタシア)[R 改訂版]*1(Art Theater dB )を観劇。
 CRUSTACEA(クルスタシア)の「R 改訂版」は一昨年に上演した作品*2の再演である。ただ、映像や舞台美術を初めて使ったことでやや焦点がぼけてしまっていた旧作を今回は純粋に身体の動きだけに焦点を絞り込む形でタイトに再構築し、「立ち尽くすダンス」というそのラジカルなコンセプトが一層露わになった。
 この作品は当日のパンフに濱谷由美子が「鈴木いずみ、岡崎京子HIROMIX小島麻由美といった女性の表現者だけが持っている女性性と少女的な暴力性を表現してみたい」と書いているように女性というジェンダーの置かれた様々なアスペクトをダンサーの仕草や動きにより表現したものではあるが、それだけだと「自分を解って」的な閉じた表現になりかねないところをダンス表現の根底へ迫る実験的な試みでより普遍的なものに通底させていっているところが刺激的だった。
 約1時間の作品だが、最後の十数分間が2人のダンサー(濱谷由美子、椙本雅子)が正面を向いたまだつま先立ち(バレエでいうデュミポワントのような形)になったまま左右の腕で微妙にバランスを取りながら、ただ立ち尽くすという振付になっている。
 そこでは具体的な動きの指示はいっさいない。実際にはここでは左右の手を微妙に動かしてなんとかバランスをとろうと試みたり、ひざを少し曲げてみたりと微細な動きが繰り返されるのだが、それまでの激しい動きによって若干消耗した状態のままこの不安定な姿勢を取ることによる身体的負荷により、ここで立ち現れる身体のアンコントローラブルな在りようそのものが舞台上で提示される。そこからは人間が根源的に持つのだが普段は抑圧されて見えることがない生命のエッジのようなものが垣間見えて、私はそこからタイトロープのような崖っぷちに立ち、そこからいつころげ落ちる(死を迎える)かが分からない人間の存在の危うさ、そして愛しさのようなものを感じ取ったのである。
 ここでの感じ方はあくまで私個人のものであって、人にそれを強要するつもりは毛頭ない。むしろ、この場面はこの作品において、観客それぞれにその数と同じだけ、なにかを想起させる「鏡」のような場面として働いているのではないかと思う。
 CRUSTACEAはそのムーブメントにおいてはデュオとして床面での回転やアクロバティックなリフトなど2人の激しい動きを中心に振付を構成してきた。アスレチックな動きの連続性がその魅力であるとともに時にはそのテクニックにおいては若干、どこかで欧州系のコンテンポラリーダンスで既視感のある動きの連鎖が見える時もあり、その辺りにやや課題もあった。
 そうした流れが変容のきざしを見せたのが、初演の「R」だが、その後に上演された「SPIN」そしてその発展形といえる「GARDEN」*3では最後のパートで軽快にリズムを刻んでいく音楽に合わせて、激しい振付に合わせてダンスが踊られるのだが、「振付」が彼女らが踊れる身体強度を超えた負荷のかかるものに設定されているために実際に身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間にある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれた。それをを見た目でこの「R」を見直すと、「倒れるまで立ち尽くす」というこの作品が、動く/動かないという意味合いでは対極に位置するように見えながら、実はコンセプトにおいては双生児のように似ているように私には思われた。
 バレエなどに代表される西洋のダンスにおいては「踊る」ことは訓練の成果によって制御された身体が「振付」(=指定された動き)を具現化することだと従来考えられてきたが、この2つの作品において濱谷が舞台で提示しようと考える身体の在り方はそういうものとは違う。偶発的でありながら、必然的に生まれてくる制御不可能な動きはきわめてスリリングなもので、そこにダンスの新しい可能性が見えたのである。