「ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937」

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937」講談社)を読了。
 ウィトゲンシュタインの日記を購入、読んでみたのをきっかけに関連の図書を何冊か買い込み、まとめ読みしてみた。正確には「クリプキ―ことばは意味をもてるか」はもちろんウィトゲンシュタイン自体についてではなくて、クリプキについての本なのだが、主題の中心が「ウィトゲンシュタインパラドックス」についてなので一応、ここに入れた。

4・112
哲学の目的は、思想を論理的に明澄化することである。
哲学は教説ではない。活動である。
哲学上の著作は、本質的に、解明ということに成り立つ。
哲学の成果とは「哲学的諸命題」ということではない。諸命題が明澄になる、ということいである。
哲学は、哲学なしにいわば暗濁混迷の思想を、明澄なものとし、鋭く境界づけられたものにしなくてはならない。
(「論理哲学論」より)

 その思想体系全体が正しいか、間違っているかということを判断することは私には手にあまることであっても、「明晰に思考するとはいかなることか」についてのひとつのモデルを提供してくれるという意味合いにおいては「論理哲学論考」はこれまでずっと私の座右の書であった。そしてその著者であるウィトゲンシュタインという人はポーのデュパンやドイルのシャーロック・ホームズヴァレリーのテスト氏といった作家による被創造物同様にひとつの理想像でもあった。
 この日記が興味深いのは実はきわめて明晰に見え、明晰そのものとも場合によっては感じられるウィトゲンシュタインの思想がそれ自身は明晰とはほど遠いカオスのような思考のなかから生まれてきたのだということがはっきりと読んでとれることで、ある意味、冷徹にさえ感じられるあの思想の裏側にこれだけの熱い混沌が潜んでいたのだということには驚かされた。特に後半の宗教と死についてのくだりはまるでドストエフスキーを読んでいるみたいだと思わせられるようなところがあり、これがあのウィトゲンシュタインの日記なのかということにはびっくりさせられた。
 それ以上にびっくりさせられるのは解説としてついている訳者でもある鬼界彰夫の文章。ヴィトゲンシュタインが日記のなかに書いている夢の話などを含む、日常的なエピソードをすべて強引に「論考」から「探究」に至るウィトゲンシュタインの思想的転換という観点に引き付けて読み替えているのだが、ここまで来ると「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というか、人間の解釈への欲望がいかにしてなにもないところにまで意味を読み取ってしまうのかの格好の実例に思われ、思わず笑ってしまい、いくらなんでもそりゃないだろと何度もつっこみを入れたくなった。もっとも、同様の嗜好は私自身にもありすぎるほどあるので、これは自戒にしなくちゃいけないとも思ったのだけれど。